第4話

 麗菓に最後の別れを済ませて、とぼとぼと家路に着く。最寄り駅から西側に歩いて三十分。淡い外灯に照らされたあぜ道の先に、ぽつんと、木造二階建ての一軒家が見えてくる。


「おかえりなさい!」


 玄関を開けた途端、やかましい声が耳に刺さった。地味な柄のエプロン姿の母が、スリッパをパタパタ鳴らしてやってくる。どんな表情を浮かべているかは、顔を見なくとも分かる。嫌というくらいに。

 甲高い調子で紡がれる言葉という言葉の嵐が、上がりがまちに腰かけて靴を脱ぐ私の背に圧し掛かってきた。


「遅かったのね。ご飯出来てるけど先に食べる? 今日は光ちゃんの好きなハンバーグを作ってみたの。久しぶりに作ったから形はちょっと悪いけど味には自信があるのよ? それともお風呂にする? 今日ね、お隣の黒木さんがバスソルトを持ってきてくれたの。黒木の旦那さんが京都の出張から帰ってきて」


「風呂にする」


 素っ気なく告げながらリビングへ。スーツをハンガーに掛ける。着替えを持って脱衣所へ。その後ろを、まるで金魚の糞のように母がついて回ってくる。麗菓との、決して平和的とは言えない言葉のやり取りを経て精神的に疲れているのに、そんな私の気持ちなどお構いなしに。

 いつだってこの人は、自分の感情ばかり優先するのだ。それが、堪らなくストレスだった。


「ゆっくり入りなさいね。掛け湯を二回やった後に頭と体を洗ってそれからお風呂に入るのよ? しっかり百まで数えるのよ? あたしがお手本を見せるわね。ほら良く見てて。はい、いーち、にぃーい、さぁーん……」


 にやけ顔でうわ言を呟くように数を数える母。当然、無視を決め込んで浴室の扉を開け、やや強めに閉める。


「きゃああ! ちょっと! そんなに大きな音を立てないでちょうだい!」


 わざとらしくも聞こえる、絹を裂くような声。後に続くのは、呪詛を込めた母の嫌味だ。いつもそうなのだ。


「だいたい! あなた何なの!? いつもいつもいつもいつもいつもいつもこんな遅い時間に帰ってきて! そんなに仕事が大事なの!? お母さんの事なんて、本当はどうでもいいと思って――」


「うるっさいんだよさっきっから!! いいから黙って引っ込んでろボケ!」


 腹の底からありったけの大声を浴室の扉越しにぶつけてやる。黙らせるにはこれが一番の方法だと気づいたのは、ごく最近の事だった。

 私の大声に驚いたのか、摺りガラスの向こうで、母の細い肩がビクっと震えるのが分かった。しばらくの間、所在無さげにそこに立っている気配があった。

 浴槽に肩までつかり、ぼうっとしながら染みのついた天井を見る。そうしているうちに、何時の間にかすりガラスの向こうから気配が消えていた。


「はぁ……」


 湯がじんわりと肌を拭うのを意識した途端、疲れがどっと押し寄せてきた。

 母の言葉を遮ることに罪悪感を抱かなくなって、結構な時間が経つ。昔はこんなにうるさい人ではなかった。大らかな性格で、やや放任主義の傾向があった。それでも、私や弟をこよなく可愛がってくれていた。少なくとも、私が中学校を卒業するまでは。

 私の高校の入学式があった日の夜に、自宅で突然倒れ、救急車で搬送されてから全てが変わった。

 当時中学二年生だった弟に、世間体を異様なほど気にする父を加えて、三人で夜の病院に向かった。医者が何やら難しい用語を使いながら母の病状を説明していたのは印象に残っている。しかし一方で、母が倒れた事のショックが大きすぎたせいで、話のほとんどが頭に入ってこなかった。

 だが、一番大事な部分は違った。それは鋭さを兼ね備えた岩石だった。心が破裂しそうなほどの重圧をかけてくるのには最適過ぎるワードだった。


『あなたのお母様は精神病に罹患しています』


 母は、即日入院することになった。

 県外にある自動車部品工場で働いていた父は、給料の半分近くを医療費に取られることになった。それは、共働きで収入を支えていた我が家にしてみれば、大ダメージにもほどがあった。

 雀の涙ほどの父の給料では生活が成り立たない。だから父曰く『苦肉の策』で、私と弟の為に貯めてくれていた、大学進学用の貯金を切り崩すことになった。それで人間らしい生活を維持できた。代償として、私は考古学者になるという昔からの夢を諦めざるを得なくなった。

 一年の入院期間を経て、母は退院してきた。その時にはもう、昔の母の面影はどこにもなかった。見た目は入院前と何も変わっていなかった。しかし心の形が恐るべき変貌を遂げており、それが仕草や口調に現れていた。

 高校二年生の、ある夏の事だった。学校へ行こうと玄関を開けた私は、度肝を抜かれた。庭先に置いてあった通学用自転車が、どぎついピンク色に塗り替えられていたのだ。カラースプレーの残骸が、庭の至る所に大量に転がっていた。

 呆然とする私の背後で、母の場違いな程に明るい声が響いた。


「どう? 光ちゃん。お母さんお手製の自転車、かわいいでしょ? 子供の頃ね、近所に住んでたアッちゃんがピンク色の自転車に乗っているのが忘れられなくて」


 何を言っているのか分からなかった。驚愕と戸惑いの後に猛烈な怒りが沸いたが、最終的には悲しい気持ちで一杯になった。しかし、母はそんな私の心をおもんばかることなく、ぎらぎらと目を光らせて、彼女しか知らない想い出の世界に浸り続けていた。

 仕方なかったので、その日は徒歩で通学した。帰ってきてから自転車を捨てた。それを知った母が、般若のごとき顔つきになり、私に向けて罵詈雑言の限りを吐いて、ストーブ用の石油をリビングに撒き、家に火を放とうとした。

 私と弟で必死になって――その時はたしか、二人とも泣き叫んでいたと思うが――どうにかこうにかして、暴れる母を取り押さえた。

 会社から帰ってきて事の顛末を知った父が、泣きながら母をぶった。何度も、何度も。

 それからも、母の奇行は続いた。学生生活を満喫している余裕などないほどに。

 普通ではない日常が毎日のように続いて、私はもういよいよ耐え切れなくなり、ある日父に進言した。母の病気は本当に治ったのかと。泣きそうになる気持ちを堪えながらそう問うと、父は難しい顔をするばかりだった。

 私は質問を変えた。もう一度、母を入院させよう。そうすればきっと、全てが元に戻る筈だと。だが、父は首を縦には振らなかった。御近所の目があるし、なにより、ウチにそんなお金はもうないのだと言うのが、父の言い訳だった。

 当時学生だった私には、母の為にしてやれることが、何一つなかった。

 自転車事件から半年後、父が蒸発した。会社に辞表を提出して、そのまま行方をくらませた。家に帰ると、私の学習机の上に、父からの書き置きが残されているのを見つけた。だだっぴろい白紙の中央に、震えた文字で、ただ『すまない』とだけ書かれていた。

 そのたった四文字で、私と父の縁は切れた。通帳から幾らかの金が抜かれていた。差額分を計算するに、恐らく母を病院に入れるだけの金はあったはずだ。それをあの人は、自分だけの生活を維持するために盗んだのだ。

 だが、父に対する恨みの感情は不思議となかった。きっと父は、あの静かに死にゆく家に耐え切れなくなったのだろう。仕事が終わって家に戻っても心休まる場所がないというのが、どれだけ辛いことか。

 三十を迎えてようやく私にも分かってきた。もし、私が当時の父と同じ立場だったとしても、薄情だと罵られるかもしれないが、同じ選択をしたはずだ。自らを取り巻く地獄を変えるより、どこにあるか分からない楽園を探すほうが、ずっと気楽なはずだからだ。

 今では私の稼ぎのお陰で、母を週二回、診察に連れていってやれている。精神を安定させるための沢山の薬を飲ませてやる事だってできる。そうした苦労の甲斐あって、昔と比べれば母の感情の起伏は大分緩やかになっていた。それでも、きっと父はこの家に戻ってこないのだろう。昔の、良妻賢母を絵に描いたような母は死んだのだから。

 それに、今は母よりもずっと深刻な『病』に侵されている者が、我が家の一角を占拠している。そっちの方が、私には重要な事に思えて仕方なかった。あの駄肉の塊には、治療の施しようがない。だからと言って、このままで良いはずがなかった。

 風呂から上がって飯を適当に済ませた頃には、時計の針は夜中の十二時に差し掛かっていた。母はつい三十分程前に、ありったけの小言をぶつぶつと吐きながら二階へ上がっていった。

 簡単に洗い物を済ませ、歯を磨いてなるべく音を立てないよう気を付けながら二階へ上がる。階段を登り切った突き当りに私の部屋があり、その右手に弟の部屋。その左隣に母の部屋と、個室は全て二階に造られていた。


「…………」


 自室のドアを開ける前に、暗がりの中、ちらりと弟の部屋へ目を向ける。実に静かだ。しかし、何時もの如く寝ていないのだろう。

――こんな奴の事、心配するだけ無駄だ。勝手に野垂れ死ねばいいんだ。

 心の奥底でもう一人の自分が、侮蔑の視線をドア越しに向けていた。私はそれを確かにはっきりと自覚しつつも、それでもそっとドアノブに手をかけ、ほんの少しだけ手前に引いて深淵を覗いた。

 電気の落ちた狭い室内にただ一つ灯るは、パソコンディスプレイが無遠慮にも放つ電子の光。それがぼんやりと、足の踏み場もないほどに散らかった室内を照らしている。

 シーツの汚れが目立つベッドの上に、脱ぎ散らされた下着。部屋の隅では、大口を開けたゴミ袋が壁に寄りかかっている。低いテーブルの上は、死んだポテチが顔を覗かせる菓子袋や、飲みかけのペットボトル、インスタントラーメンの袋、山盛りの吸殻が湛えられた灰皿で溢れかえっていた。薄暗い部屋の床を占拠するのは、DVDケースの山に、乱暴に積まれた漫画雑誌、放置された幾つもの酒瓶、配管のようにあちこちを這うコードの群れ。天井まで届くオーディオラックには、雑多な品々が無造作に詰め込まれている。猥褻なポーズを披露する美少女キャラクターのタペストリーが、さながら守護像のように壁の至るところを埋め尽くしている。

 どれもこれも、私が家に入れている金の、成れの果てだった。

 室内に充満する、古い油を彷彿とさせる汗と埃の不快な臭いが、私の鼻をじっとりと刺激した。思わずむせかえりそうになるも、とっさに鼻腔に力を入れてなんとか堪える。

 娯楽の廃墟とも言うべき部屋の隅。視線の先に映るその人物は、肉鞠とも例えるべき大きな背中をこちら側に向けていた。私の気配に気づく素振りを一切みせず、我欲のままに刹那的快楽を貪っている。

 大型のパソコンディスプレイが放つ、暴力的にして自己主張極まる電子の瀑布ばくふ。その光が醸し出す陰影が、私の弟――木澤孝之きざわ たかゆきのニキビだらけのたるみきった頬肉を際立たせていた。

 弟は食いつくようにしてディスプレイと向き合い、鼻息荒く駄肉の塊を揺らしていた。私の耳が、ギシギシと不規則に揺れる椅子の音を捕えた。ディスプレイ備え付きのミキサーから流れ出る音は全て、弟が装着するヘッドホンを通じて彼の脳内へ染み込んでいた。音洩れはない。だがディスプレイが映し出す、わざとしい可憐さに装飾された二次元美少女のあられもない肢体を覗き見れば、一体画面の向こうでどんな卑猥極まる音声が爆発しているかは、アダルトゲームに疎い私にも容易に想像がつく。


「ふんっ! ぶふぅんっ! ふひんっ!」


 醜い獣のような鼻息を鳴らしながら、仮初の美少女をおかずにして、黙々と下半身の自家発電に取り組む弟の姿を見て、私の心境は毎度のことながら、奇妙な圧迫感に襲われてしまうものだった。

 これが果たして本当に、過去に私がクラスメイトに自慢して回った、利発な弟なのだろうかと。成績優秀で端正な顔立ちをしていた、あの弟本人なのだろうかと。高校を中退し、労働の義務を放棄し、未来から目を背けるような不躾な態度を、あの弟が本当にとるだろうかと。

 しかし、汗でべとついた黒い髪と、脂肪で覆われた肉の向こう側に、血の繋がった兄弟同士にしか分からない微妙な面影を感じ取ってしまうのも、また事実だった。

 それを意識した途端に、これがお前の弟が選んだ道なのだと、誰かに宣告された気分になり、それはもうどうしようもない事なのだという諦めが、胸の内をじわじわと支配していった。

 私は音を立てぬよう細心の注意を払いながら、再びドアを閉めた。自室に戻り、冷たい布団に潜り込んで考える。

 なにもかもが狂っていると。

 そして、その狂気を正す術は、きっと世界のどこにもないのだと。









「木澤、俺、この仕事もう辞める事にしたから」


 数日後、仕事終わりに誘われた飲みの席で、テーブルを挟んで向かい合う私に、先輩はあっけらかんとした様子でそう告げた。


「もう酔いが回ったんですか?」


 いつもの冗談だ。業務内容がもたらす精神的負担のわりに、なかなか昇進しない現状に対する愚痴が漏れたのだろう。私は勝手にそう決めつけて、残り少ない瓶ビールの口元を先輩のグラスへ傾けようとした。

 だが、先輩はおもむろに右手の平をグラスの口に被せて、蓋をしてきた。ここから先の会話に、戯言を入れ込むつもりはないと主張するかのように。


「……先輩?」


「酔ってねぇよ。マジな話だ」


 若干の戸惑いを覚えながら瓶ビールをテーブルに置きつつ、私は先輩の顔を見た。引き締まった頬は赤らんでいたが、二重瞼の瞳には、いつになく真剣さが宿っていた。


「しつこいようですけど、マジなんですか?」


「ああ、大マジだ。明日人事課から告知されるだろうけど、その前にお前にだけは話しておこうと思ってな。一ヶ月後には最終出社日を迎えることになる」


「もしかして、ここ最近有給を取っていたのって……」


「転職先の面接を受けに行っていたんだ。隣街にある個人会計事務所。そこでアルバイトすることになった」


「会計事務所って、なんでまた」と疑問を口にしながら、アルバイトとはいえ、よく転職に成功したものだと感心してしまう。


 何も先輩を小馬鹿にしているわけではない。どんなに有能な逸材でも、転生稼業に勤めていたという事実が全てを台無しにする。次跳車を乗り回していた過去が人生の汚点となると半ば常識化されている現代において、別業種への転職がいかに難しいものであるかは明白だ。

 人殺しの真似事をして銭を稼いでいた者を雇うなど、とんでもない。世論の大多数はそんな論調で、大半の企業もそれに習っている。だから私も、他の仕事へ鞍替えするつもりなどないし、出来るはずもないと考えている。

 だが、先輩は違った。この人は人生の飛躍に成功したのだと、この時の私は思った。いや、先輩が転職先に選んだ会計事務所の社長さんの人柄もあるのかもしれない。きっと、経歴だけでその人の全てを測ろうとしない、人間の出来た方なのだろう。


「俺、もともと公認会計士を目指していたんだよ」照れ臭そうに先輩は笑った。「高校出てから二回挑戦したんだけど、結局受からなくてさ。それで今の会社に入ったんだが、やっぱり夢を諦めきれなくて。事務所でバイトしながら勉強を続けて、今度こそ会計士になってやるって、決めたんだ」


「夢……」


「そう。夢。この年でまだ追いかけるのかって笑われそうだけどな。給料は今よりガクッと下がるし。でもよ、俺、今けっこう充実した気分なんだよな」


 先輩は背もたれに体重を預けながら、大きく伸びをした。その仕草は芝居掛かっているようで、剥き身の本心が顕れているように見えた。そんな態度を先輩が取った事が、私には意外に思えた。

 少なくとも先輩は、私よりもこの仕事に……人を轢いて異世界へ送る業務に、正面から向き合っている感じがしていたから。何より本人だって、自分を器用な人間だと口にしていたではないか。


「自分で自分のことを器用で世渡り上手な奴だって意識していたんだが、どうも思い込みだったみたいだよ」


 まるでこちらの気持ちを察したかのように、先輩は小さく苦笑いを浮かべた。私はなんと返答して良いか判断にきゅうした。

 先輩は服のポケットから煙草を取り出しながら続けた。


「俺さ、今まで結構、仕事の事でお前に偉そうなこと言ってきたじゃん? もっと使命感を持てとか、緊張感を常に保てとか。でもさ、ふとした時に、今後の事を考えてみたんだ」


 先輩は煙草をふかしながら、遠くを見るように目を細めた。


「そうしたら、ちょっと怖くなっちまってな」


「今の仕事を続けていけるかどうか分からなくなって、自信を失くした。そういうことですか?」自分でも驚くほど、感情のない声が出た。


「ずいぶんストレートに言うなぁ……まぁでも、本当の事だからどうしようもないか。お前からみりゃあ、俺は裏切者だもんな。途中で逃げ出したように映っても仕方ない」


「いや、私は別にそんな」慌てて取り繕うも、先輩は構わず続けた。


「でもよ、悪ぃ。やっぱ俺、今の仕事をずーっと続けていく気にはなれない。高校卒業してから六年経つけど、ここいらが潮時だ」


「先輩……」


「このまま三十、四十、五十って歳を重ねていった時に、自分が今も、あんなおっそろしい車に乗って人を轢いて金を稼いでいるのかと思うと、すげぇ虚しく思えてきてしょうがないんだ。上手く言えないけど、爺さんになってから、もっと自分には他の生き方があったんじゃないかって、後悔するのだけは嫌なんだよ」


 先輩の心の発露を受けて、足元が揺らぐような衝撃に見舞われた。私の意識はその時、先輩だけでなく、この居酒屋にいる全員へと、ごく自然に向けられていた。お喋りの合奏に耽り、疲れ切った羽を癒す為に酒を嗜んでいる、有象無象の姿へ。

 私は、彼らの人生にぼんやりと想像を巡らせた。この場にいる客全ての。そこには先輩も含まれていた。とにかく、数多くの見ず知らずの人々の事を考えた。

 だんだんと酔いが醒め、周囲がクリアになっていく感覚があった。それと同時に、沸々と泡のように疑問が湧き上がってきた。

 それは、人が一生のうちに一度はふと抱くであろう普遍的な謎かけに等しかった。ここにいる一人一人が、大筋は似通っているとはいえ、誰とも違う人生を歩んでいる。その中に、果たして自分の歩みに自信を持てている者がどれだけいるのだろうかという、そんな疑問だ。

 そうだ。俺も含めて。

 俺は果たして、自分の人生を歩けているのだろうか。

 死の床に横たわって、これまでの人生を思い返した時、どれだけ後悔せずに臨終の時を受け入られるのだろうか。


「どうした? ぼーっとして」


「あぁ、いえ、なんでもないです」


 ふと黙ってしまった私に向けられる、先輩の訝しげな目線。それから逃げるように、私は焼酎の入ったグラスを口に運んだ。もうほとんど酒が入っていない、氷が溶けかけているだけの、そのグラスを。

 先輩は二本目の煙草に火を点けながら、おもむろに訊いてきた。


「木澤はさ、いつまでこの仕事続けるつもりなの?」


「いやぁ」私は曖昧な笑顔を浮かべて、グラスのふちを軽く舐めた。「私にも分からないというか、まぁ、いけるところまでいこうかと」


「やりたいことがあるなら、さっさと挑戦したほうがいい。時間は有限なんだからさ」


 紫煙に乗せられて飛び出した先輩の言葉に、私はどう反応して良いか分からず、また曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。

 そんな私の態度がどことなく不満に思えたのか、先輩は次に、私の心を深くえぐるような、何とも答え難い問いを投げかけてきた。


「そーいやお前、昔は考古学者になりたかったとか言ってたよな? 遺跡とか発掘したいって。今から目指してみたらどうだ?」


「何言ってんですか。もうそんなのを目指す歳じゃないですよ」


 先輩の言葉に、どことなく無責任な雰囲気を感じて、私はちょっと声のトーンを落として答えた。


「それに、こんな仕事についている奴が、いまさら他の業界で食っていけるわけないでしょう? 誰にも相手なんてされないですよ」


「おいおい、それは俺へのあてつけか? 面白いじゃないか。転生稼業から考古学の世界へ……人の未来を手助けする仕事から、今度は人の過去を暴き立てる仕事に変わるんだ。なかなかユニークな職歴だと思うけどな」


「暴き立てるって……言い方、もう少しなんとかなりません?」


「そうクサクサするなって」


「クサクサ?」


「曇り顔って意味だよ。なぁ、それよりさ、真面目に考えてみたらどうだ? お前、まだ二十三だろ? 人生これからじゃないかよ」


「それは……」


 確かに今の貯金額から考えれば、学費は余裕で払えるだろう。寝る間も惜しんで猛勉強すれば、もしかしたら、万に一つあるかもしれない。

 それでも、喪われてしまった夢への熱量だけは、どれだけ金と勉学を積んでも蘇らない。かつて抱いていた未来への希望は、まるで恐竜の化石のように、過去という名の地層に呑み込まれたままだ。それを掘り起こさないことにはどうしようもないのだ。

 だが今の、何となく日常に流される毎日を過ごす私に、化石の発掘に従事するだけの精神的体力や情熱などあるはずもない。時間の流れが恐ろしい冷気となって、私の心を凍りつかせたせいか。それとも、心が壊れた母や、未来を捨てた弟の姿が脳裡を掠めるせいだろうか。

 私が前へ進めないのは、いったい誰のせいなのだろうか。

 グラスを弄りながらあてのない思索に耽っていると、先輩が思い切ったように口を開いた。


「一度よ、はらくくって、後ろを振り向かないで突っ走ってみろって。転んだっていいじゃないか。また起き上がればいいんだから」


「いや、でも私なんかには……」


「そうやって自分の能力に線引きしちゃあ駄目だ。もったいないだろ。一度きりの人生なんだから」


「異世界への渡航が流行って、二回目の人生が獲得できる今の時代に、その謳い文句はもう死語ですよ」


「へぇ」意表を突かれたように目を見開くと、先輩はやや前のめりになって、意地悪そうに笑みを零した。「なにお前、やっぱり本当は異世界に行きたいんじゃないか」


「え?」


「違うのか? 今の発言を耳にした限りじゃ、異世界に行きてーって気持ちが見え隠れしてるようなもんだぜ?」


「なんでそんな話になるんですか」


 予想もつかないところから飛んできた言葉を前に、私は口を尖らせる以外になかった。心の鏡に小石をぶつけられた気分だった。その鏡がいかような輪郭を象っているか自分でも把握できていないぶん、なんとも奇妙で、なんとも歯がゆかった。


「先輩」


 私はグラスを見つめながら、呟いた。


「やっぱりあなた、酔ってますよ」


「んなこたねぇよ」


 先輩は笑いながら厨房の方を振り向くと、「おばちゃん! ビール追加!」と大きく声を上げた。その口調が、迷いをかなぐり捨てるように吹っ切れていて、堂々としていたものだから、私は改めて感心してしまった。この人は自分の人生を歩くために、必要な事と不必要なことの分別が、きちんとついている人なのだろう。


「話は変わるけどよ」


 先輩はキュウリの浅漬けに箸を伸ばしながら訊いてきた。


「なんですか?」


「お前、この仕事する前は何してたんだ?」


「高校を卒業してすぐの頃は、電機メーカーとか産業機械メーカーとか……そういうのが多かったですね」


「ああ、そういえばお前も孝之も機械科だったな」


 孝之、と私の弟の名を口にしかけた時、先輩はほんの少しだけ私から目を逸らした。


「ええ。だからまぁ、学んだことを活かそうと思って」


 自分で言っておきながら変な話だが、これは本心ではない。

 高校を卒業後、どうしてそんな道を最初に選んだのかは、いま思い返しても分からない。ただ、あの時頭の中を支配していたのは、どうやって家族を食わせていけばいいか。それだけだった。

 精神状態から考えて母が働きに出るのは無理であったし、その時高校二年生だった弟は既に引きこもりになっており、社会との関わりを持たせるのは、それこそ絶望的状況にあった。

 家族三人分の生活を支え、母の通院にかかる費用を捻出し、蒸発した父の代わりに家のローンを支払う。その三つを滞りなくこなすために、たくさんの金を稼がなくてはならなかった。

 だから、昼も夜も働いた。休みも返上して働いた。家族のために。ただ家族のために。汗水垂らして毎日毎日、上司のいびりに耐えて耐えた。だが身入りは良いとはいえず、働きながらも求人募集に目を通す毎日が続いた。


「この仕事を選んだのは、給料が段違いによかったからですよ。初任給が四十万以上だったときは、さすがにビビリましたね。中途採用とはいえ、二十歳そこそこの若造に出す金額じゃない」


「今でも若造じゃないか」


「先輩だって」


 笑って返すと、先輩は運ばれてきた瓶ビールを手酌で注ぎつつ、うんうんと嬉しそうに頷いた。その言葉を待っていたのだとばかりに。


「そうだ。俺もお前もまだ若い。だからまだまだやり直しは効くんだ」


 一杯飲み干してから、先輩は唇を舐めた。その目はしかし、さっきとは打って変わって、寂しそうな色合いを含んでいた。

 まだ若い。だからやり直しが効く。そのフレーズを口にした途端、浮かび上がってきてしまったのだろう。私の弟にして、高校時代にバスケ部の主将を務めていた先輩が、一番可愛がっていた後輩のことを。

 今の私も、先輩とおなじ目をしているに違いなかった。

 若いのだから、まだまだやり直しは効くはずなのだ。だがきっと、あの愚弟は口で言ったところで分かってはくれないのだろう。もう何年もろくに口を訊いてない兄の言葉を素直に受け入れられるだけの器があるなら、そもそも引きこもりになどなってはいない。

 アイツをどうにかすれば、私の道も切り拓けるかもしれない――

 不意打ちのように過った可能性を、だが拾う勇気は、やはり私にはなかった。

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