第3話

 歩いて二十五分ほど経過した頃、私は待ち合わせ場所に指定されたファミレスのドアを潜っていた。店員の歯切れの良い挨拶を聞き流し、ぐるりと辺りを見渡す。名前の通り、ファミリー層で賑わっている店内。その一画にある窓際の席に、彼女がいた。

 栗色に染めたワンレングスを、ハイネックの厚手のセーターの中に隠し、折原麗菓おりはら れいかは何をするでもなく、両手を膝上に置いてじっとしていた。手元に置かれたコーヒーの中身を見つめているようで、実は何も見てないのだと、彼女に近づくまでもなく私は悟った。

 それと同時に、彼女が今日、なぜ私をここに――私たちが初めて知り合った想い出の場所に――呼び出したのか、ほとんど合点がいっていた。


「お待たせ」


 コートを脱ぎながら近づいて声を掛けると、はっとした風に彼女がこちらを見上げてくる。少しぎこちなく口角を上げ、「ごめんね、急に呼び出しちゃって」と、あくまで『悪いのは私なのだ』と言いたげな風に告げてきた。

「気にしなくていいよ」コートを椅子の背もたれにかけながら、私も頑張って笑みを浮かべた。上手くできたかどうかは、分からない。愛想笑いというのは、どうも昔から苦手だ。

 注文をとりにきたウエイトレスに「ブレンドコーヒーを一つ」とだけ伝えてから、私は椅子に腰かけた。

 いま、我々の距離を隔てているのは、簡素で小さなテーブルだけだ。けれども、麗菓は私から視線を外したままで、なかなかこちらを見ようとはしてくれなかった。


「仕事、順調?」


 当たり障りのない話題を放り投げると、麗菓は黙って頷いた。綿菓子のようにほんわかとした雰囲気。それが彼女の持ち味だが、今はどこまでも硬い印象を与えた。それをほんの僅かでも良いからほぐしたくて、私はあえて明るい調子で続けた。


「それならよかった。看護師の仕事って大変なイメージがあるけど、人間関係とかさ」


「そのあたりは問題ないかな。みんな優しくしてくれるし。最初は婦長さんからの苛めとかあるのかなーって怖かったんだけど」


「ドラマの見過ぎだよ」低く笑った。「麗菓はさ、いろいろ心配し過ぎなんだよ。もっと気楽に構えていけば大丈夫だよ、きっと」


「うん……そっちは、どんな感じ?」


「相変わらずかな」今日、異世界に送ってやったあの高校生の顔を努めて思い出さないように、意識の蓋を締めながら私は答えた。


「相変わらずなんだ」


「うん、そう、相変わらず」


「お母さんとか、弟さんも?」


「そうだね。いつも通り」


「そっか」


「うん」


「……ねぇ、光一君」


「なに?」


「あたしと、別れて」


 少し上目がちな目線で、彼女は口をきった。その瞳には、決意と後悔と自責とがない交ぜになっていて、彼女がいま、どれだけ重大な選択を手に取ったかを、如実に物語っていた。

 不意打ちを突かれて、胃がきゅっとせり上がる感覚があった。

 いや、予想はしていたのだ。きっとこんな展開を迎えるであろうことは。冷たい秋風の洗礼を受けながら歩いている最中、何度も予感は脳裡を過ったはずだ。

 しかし、私はいま確かに、麗菓の発言を受けて狼狽し、なんとかそれを表情に出さぬよう必死だった。そんな反応をしてしまうあたり、私は心の片隅で、まだ彼女との関係を継続できるだろうと楽観視していたか、あるいは希望を見出そうとしていたのだろう。

 何とも愚かな話だった。

 自分が今、どんな立場にある人間なのかをよくよく鑑みて、彼女の父親が代々続く名匠を背負う大工であり、人道を重んじる方であることを今一度思い出せば、むしろ訪れるえにしの崩壊に、覚悟を以て臨まねばならないはずだ。

 重い沈黙に包まれた私たちの空間。だが、ウエイトレスは場の空気を読まず、そそくさとブレンドコーヒーを運んできた。あえてこの修羅場を見守ろうとでもいうのか、ウエイトレスはゆっくりと落ち着いた仕草で私の前にカップを置いて、それからガムシロップはこちらですとか、砂糖とミルクはあちらにあるからどうたらこうたらとか、非常にどうでもよい説明を長々と続けた挙句、最後にゆっくりとお辞儀をして「ごゆっくりどうぞ」などと口にしてから、ようやくその場を後にした。

 私は……その去ってゆくウエイトレスの背中に、熱々のカップの中身を思い切りぶちまけてやりたい残酷な衝動に駆られながらも、一つ、大きく息を吐いた。荒ぶる気持ちを静めるために。


「そうか……」


 ようやく出た言葉がそれだった。

 奥歯で頬肉を甘噛みする。自分で自分を殴りたくなった。きっと今の私は、どこか訳知り顔な表情を浮かべているに違いない。望んでいなかった結末を無理やり握らされて、「まぁしょうがないか」と、納得したふり・・をして。

 それこそ、私がこれまでの人生経験で知った、最も忌み嫌う仕草ではなかったか。建前にも届かぬ戯言を吐き出して、自分はどんな理不尽や苦境に陥っても、いつでも身軽に振る舞えるのだと高を括っているかのような、虚栄の態度。

 今まで反吐が出そうなほどに遠ざけていたそんな態度を、まさかよりにもよって、こんな場面で、この私自身が取る事になろうとは。

 麗菓はじっと唇を噛んでいたが、やがて耐え切れなくなったのか、さめざめと涙を零し始めた。


「ごめんない。本当に、ごめんなさい」


 目尻から溢れる滴の一つ一つが、やけに緩慢な速度に映った。その涙が、私の胸中を知りながら、ひどく責めてくるような錯覚を覚えた。

 どうして本心を打ち明けてくれないのかと。「別れたくない」と一言いってくれればいいのにと。

 分かっている。分かっているよそんなことは。私だって、このまま彼女の関係を終わらせたくはなかった。洗いざらい、本音をぶちまけるべきだったたとえ君の父親に反対されようとも、そんなことは関係ない。毅然とそう言い放ち、豪気に任せて彼女の手を握り締めるべきなのだ。

 だが、私にそんな勇気はなかった。無かったのだ。不思議な事に。ほとばしる熱情はしっかりと意識していながら、どうやってもあと一歩が踏み出せなかった。頭の中では理解しているのに、いつの日からか心が妙な癖を覚えてしまったせいだ。本心を押し殺して人と接するという、悪い癖を。


「あたしのせいなの。お父さんの事、説得しきれなくって……別れなかったら親子の縁を切るって言われて……」


 白い喉をしゃくりあげながら続ける彼女の顔を、私は直視できなかった。彼女の父親の言っていることが十分に理解できたし、なにより納得してしまっていたからだ。

 異世界転生や異世界転移に積極的に関わる私の仕事は、言ってしまえば殺人の亜種のようなものだ。世間一般的にも、そういうイメージが根付いている。特に、彼女の父親のような年配者からは白い目で見られるのが常だ。

 実際に人を轢き殺す訳ではないが、迷いない速度で車を人にぶつけるという光景は、嫌でも殺人を想起させる。遺体どころか血痕一つすら残さないが、『この世から人を消す』という事実を引っこ抜けば、殺人と同じではないかと糾弾されても仕方がない。

 法律に抵触していないとは言え、人道的に考えれば疑問符が残る。肩身の狭い職業である。だが転職という選択肢は私の中にはなかった。そんなことに取り組んだって、どうせ結果は見えている。


「君のせいじゃない。謝る必要なんてどこにもない」


 慰めの言葉をかけると、彼女は、そんなことないとばかりに首を振った。大きな瞳から滴が散って、テーブルを叩いた。


「悪いのは俺だ。俺がもっと誠意を見せていれば、お父さんも理解を示してくれたはずだ」


「そんなことない! 光一君は出来る限りのことをしてくれたよ!」


「いや、でも……」


「そもそも、光一君は何も悪い事なんてしてないじゃない。全部お仕事でやってることなんだよ? それは私、よく理解しているつもりだもの」


「でも、お父さんはそうじゃなかった」


「うん……何度もしつこく言って聞かせたんだけど、あの人、あたし達の仲を絶対に認めないって頑なで……」


「お父さんの方が正しいよ」振り切る様にして言った。「どれだけ言葉を尽くしても、俺がやってるのは人殺しの延長さ。人を轢いて金を稼いで……それを野蛮なことだって捉えるのは、人として当たり前のことなんだと思う」


「……どうして、そんな風に言うの?」


「え?」


 麗菓が、少し恨めしそうな目で言ってきた。


「なんでそんなに、物分かりが良さそうな反応を見せるの?」


「そんな。俺は、ただ……」


「光一君」


「うん?」


「光一君はすごく優しくて、いつも私のこと気遣ってくれるけど、だけれども」


 彼女は少し俯いて、絞り出すように口にした。


「もっと色々、ぶちまけてくれたらいいのに」


 体の奥が、カッと熱くなる感覚があった。まさに気に病んでいた事を突かれたことに対する動揺と否定の感情が湧き上がってくる。

 だけれども、


「……ごめん」


 やっぱり、私は一歩を踏み出せなかった。

 麗菓とは付き合って五年になる。その間、私たちは数多くの言葉を交わしてきた。互いに愛を囁き合って、夜を共にしたことだって何度もある。

 それだけの蜜月を過ごしても、心の距離まではどうしても埋まらなかったらしい。わがままな部分も卑しい部分も、全て彼女に見えないように隠してきたのだ。無意識のうちに。そうしているうちに何時の間にか、私の心は強固な殻を形成してしまったのだろうか。

 どこかで、私は人生の選択を間違えてしまったのかもしれない。

 だが、その分岐点が果たしてどこにあったのか。

 考えてみても分からなかった。

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