第7話
早朝、その老人が車椅子を女性に車椅子を引かせて銀行のホールに入ると、皆が出迎えた。列を成した。
「頭取!」
「おはようございます!」
だがそれはマニュアルや太鼓持ちに示唆されての行動ではなく、行員個々人が一定の緊張感と畏敬による、自主的な行動に過ぎなかった。
「先日は、大変だったようだね」
当日、たまたま会合でその場を離れていたその老人、白泉内記は、常日頃と変わらないおっとりとした口調で気遣った。
大槌による爪痕がまだ残るホールを見渡しながら、嘆息した。
今日もまた内々の業務のみで、諸々の受付は各支店に代行させることになりそうだった。
「はい、まさかあんなことが起こるなんて、当銀行始まって以来では、頭取」
「さて、どうだろうね。私は、ずっとここにいた訳ではないから」
自分がまるで不死の身で、開設以来ずっと頭取としてここに住まっているかのような物言いに、内記は苦笑した。
言い放った女性行員は、自身の失言を恥じるようにしながらも、居合わせた当事者としての興奮を隠しきれないでいた様子だった。
「強盗もそうですけど、あの魔法少女もなんだったんでしょう。なんかニュースだと変な風に話逸らされてましたけど、あれは、その……『ホンモノ』のように見えたんです。トリックとか手品とかじゃなくて。……どうなってるんでしょう、最近のこの街は」
どう思うか、と彼女の目が問う。
対して老人は、微笑を浮かべたままに留め、不確定要素に対して意見を述べることは控えていた。
その意図を汲み取ったのか。ハッと息を呑んだ彼女は、それ以上は口を噤んで公人の顔を作った。
だが、彼女はそれ以上は察しえなかった。
自身のオフィスへと向かう老人こそが、その場に居合わせていた誰かよりも遥かに事態に聞き感を覚えていることを。
そして、この街がどうにかなっているのは、基よりのことであると。
・・・・・
秘書の束本に介助されて、内記は自身のオフィスに着いた。そこに通された彼は、デスクに置かれた、自身の裁可を待っていた書類や稟議書に目を通すなり、息を吐いた。
「昨日の永秀氏の件ですか」
嘆息の理由に見当をつけて、束本は尋ねた。
デスクワークにおいて彼が露骨に労苦を見せることはない。それを知っているがゆえの、推測だった。
昨日、浄都銀行頭取のホットラインにアカシヤグループ本社社長から直々に糾問があった。
曰く「赤石永燈の遺産の件を、姪に漏らしたのか」と。
何を想ってそう電話してきたのかは知らないが、益体もない言いがかりだった。一笑に付し、適当にあしらって終わったが、それでも最後まで納得した様子ではなかった。
さらに付け加えるならば、強盗に前後して不審な西洋人が数人、交代しながら自分たちの様子を陰ながら窺っていた。
「どうにも、『ご家族』の方のようです」
とは、調べた束本の言。
本来であれば疑惑について情報担当としてアカシヤグループが精査し、罪ありきと証拠に基づいて公正な判断が下されれば、『ファミリー』には赤石による経済的、あるいは県警による法的、場合によっては『泰山連衡』による物理的な制裁が加えられることだろう。
だが、永秀の代になってその処理能力は劇的に低下した。もはや裁定役の用はなし得まい。
他の組織も、この一件に関しては不気味なまでの沈黙と静観を続けていた。
(何やらきな臭い動きが浄都銀行周辺に起こり始めていた矢先に、これだ)
若かりし頃はともかくとして、老人がデスクワークに辟易したことはない。量としても大したことはない。その点において束本嬢は正しく見ていたが、それでも実は、難儀だと思ったのは今回は一通の書類が原因だった。
いや、それと前後の事情が重なった結果、彼はそれを苦渋に感じたと言って良い。
それは一通の稟議書だった。まさかその問い合わせを受けたオペレーターも頭取の手元にそれが届くとは思っていなかっただろう。
ただ、『彼女』からの問い合わせはいくつかの支店やネットワークを仲介して、最終的に白泉内記のもとに届くようになっていた。
彼はそれを、秘書に差し出した。
一礼とともにそれを一読した彼女もまた、表情の曇りを隠せずにいた。
「赤石千明嬢から問い合わせがあったそうだ。『父の遺したものに、何か自分宛のものを預かっていないか』とのな」
そしてその概略を、あえて口頭で内記は説明した。
「それは……」
目を書面から持ち上げた束本は複雑そうな顔のままだ。
叔父や弁護士を介さずして、この曖昧な問いかけである。十中八九、ここに何かが残っていることに感づいていなければ、まず送られてこない質問内容だった。
「また間の悪い……いや、だからこそ彼らは動いたのですか」
「さぁてね、細かい流れは前後しているかもしれないけども」
もし現時点で永燈の遺言を履行しようととすれば、赤石永秀は『浄都銀行は姪をたぶらかして自分が持つべきものを横取りしようとしている』という邪推が当たっていたと思い込むだろうし、ブルーノは自分たちの牽制によって内記たちがアクションを起こしたのだと考えるだろう。
そしてその結果、強硬手段に出る可能性が高い。
「返答は、差し控えるべきですね……」
「いや、圧力や外聞を気にしていては、いつまで経っても彼女は真実に辿り着けないだろう? 出来るだけ早急に彼女と会う。その段取りをつけてくれないか」
「頭取」
束本は静かに嗜める。
下手を打てばその身さえ襲われかねない。そのことを、彼女は危惧しているのだろう。
そんな彼女をやんわりと制しながら、
「お茶を淹れてくれるかな」
と頼む。
訝しげにしながらも、彼女は隣につながる給湯室へと向かった。
「束本くん、金融業において、もっとも大切なことはなんだと思う?」
戸棚から紅茶の缶を迷わず手に取る彼女の背に、彼は問いかけた。
「流通経済に対する機微、あるいは俗っぽい言い方をすれば資産運用能力でしょうか」
部屋越しに、彼女は答えた。
「うん、まぁそれも大事なんだが、つまるところ『信頼』の一言に収束すると私は思うんだ」
束本はそれについて、特に何かを返すことはしなかった。
湯を適温で沸かし、茶葉をゴールデンルールに従って適量を蒸らし、丁寧に淹れる。
戻ってそれを差し出したところに、
「青臭いことを、と思うかね」
内記は続けて問うた。
「もちろん何も私も、無条件で人徳というものを信頼しているわけではないよ。しかしたとえば、だ」
一旦言葉を切って、彼はソーサーとカップを手に取った。
短い時の間に作られた、一分の隙もない香りを楽しみ、一切の妥協のない味に日常の幸福を見出す。
「君はこうして今の私好みの紅茶を飲ませてくれる。だから私もあれこれと注文をつける手間を省略した。そしていつもは細心の気遣いでもって足となり、私の届かない場所に目を配ってくれる」
「……恐れ入ります」
「そこには信と、そして頼がある。君が先ほど答えた機微と能力も、私の定義の内に含まれていると思っている。融資し、増やし、利息を返す。互いにそう出来ると信じ、頼みとするからこそ我々の事業は成り立つ」
「……その理屈が、赤石や『ファミリー』の当代に当てはまるとも思えませんが」
「この場合相手とは、亡き永燈とその息女だ。そしてその永燈は我々にとって多くの期待に応えてくれた上客だった。ここで誠を尽くさねば、彼の、そして我々自身の信頼を裏切ることとなる。相手や己への信を喪った者の末路を、凋落を、今我々は目の当たりにしているじゃないか」
「赤石永秀氏、ですか」
内記はあえて名指しすることはなく、苦笑をこぼすのみだった。
「因果な商売ではあるが、いやだからこそ、その一線はしっかりと守っておきたいと思うのだが、どうだろう」
「――仰せの旨は分かりました。段取りはお任せください……ですが、警備はお付けください。五龍恵署長の指揮系統に入らない人員を、ツテを使って当たってみます」
「任せるよ」
己に応えるべく動き出した秘書に対し、内記はその一言に全幅の信頼を置いた。
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