第5話

 その外人が現れたのは、会計しようかというその時だった。


「あはーはぁー!」

 上機嫌なノリ、今にも抱きつかんばかりに両腕を広げて、黒い服の部下を伴って近づく彼に、叔父は苦い顔で脇目を向けた。


「ナガヒデ、どうしたんだいこんなところで? うちでランチなら、せめて声をかけてくれりゃあ良かったのに」


 流暢に日本語を操るその声は力強く、明るく、軽い。

 が、妙というものがない。人の必要最低限な重みに欠けている。

 人相見ではない千明ではあるが、包み隠さない表現をあえてするのであれば、そんな印象を受けていた。


 叔父はしばらく懐のサイフに手を留めたままに、無言で立っていた。

 完全に無視しようかどうか、そこまで悩んでいたようにさえ思える。


「えーと、知り合い、ですか?」

 永秀がそんな調子であったために、場の空気を保つために千明があえて問うた。


「そ、ブルーノ・セルバンテスだ。よろしく」

「あ、どうも……」


 長い身の丈を折りたたむようにして、その外国人は目線を合わせた。だが、その次に自分がどうリアクションを取るべきか分からず、千明は硬直してしまった。掌にキスさせるべく差し出すのがマナーだろうか。それともハグでもお返しすべきなのだろうか。

 こんなことなら外国の文化を知るべく『ローマの休日』あたりでも見ておけばよかったと、

 ブルーノと名乗った彼は、それ以上は自分から求めることも踏み込むこともせず、肩をすくめて退いた。

 そして得心が言ったように、まじまじと少女の顔を見つめたままに、うなずいた。


「なるほどねぇ……キミか。例の」

「千明。俺は支払いついでにこいつとちょっと話があるんだ。先に帰っててもらっていいか?」

 険しい表情のまま、叔父が言った。ブルーノに直接用があるとは伝えず、千明を介して間接的に。

 ブルーノも少し意外そうに、そのオリーブを埋めたような目を軽く見開いていた。


「え、でも」

「あとはもう良いから」


 有無を言わせない強さがあった。わずかに立ち止まることも許さない。そんな圧を感じた。


〈ここは素直に従っておけ。俺たちにとっても時間は惜しい〉


 腰元のネロにもそう促され、あいまいな表情とあいさつとともに千明はその場を立ち去ることにした。


「ねぇ、時間が惜しいって、どういうこと?」


 店から距離を置き、人の比較的少ない通路を選びながら、千明はネロに尋ねた。

 携帯を耳元に当てて、違和感がないように極力努めつつ。


〈さっきの態度見ただろ。やっぱり浄都銀行には、何かある。奴の手の出せない赤石永燈の隠し資産あたりがな。そしておそらくそれは、永秀の座を揺るがすほどの致命的なものらしい〉


 永秀。その名を聞いて、ホテルを出ようとしていたその足が止まる。

 急な立ち止まりによって追い越した数人の肩に半身を小突かれ、睨まれながらも少女の心は煩悶する。


 赤石永秀。自分の両親を裏切った男。殺した仇。

 そして、血のつながった、唯一の肉親。

 だが実際に殺したところを見たわけではなく、自分が今まで見てきたのは温かくこと街に出迎えてくれた叔父としての顔。

 慣れない社長業に必死に食いつこうと努力し、かつ亡き兄に少しでも報いんとして身を削る男の姿だった。


「――ねぇ、やっぱり」

〈殺しなんてやってないんじゃないか、なんて日和ったことは今更言うなよ〉


 ネロは千明の思案、逡巡を先回りし、釘を鋭く刺してきた。


〈あれは黒だよ、十中八九。ほら、足を止めんな〉

 促されるままに、エスカレーターに乗る。自動で流れていくのに任せている千明に、ネロはあらためて続けた。


〈そりゃ人を殺すぐらいだ。動機も覚悟も、相当なものだったろうさ。けどそれは、あいつの都合だ。奴の正当性や潔白を証明するようなもんじゃない。猜疑心を中途半端にくすぶらせておくとどういうことになるかお前、イグニシアと俺の件でさんざん痛感しただろうが〉

「それ、君が言う?」

「俺だから、言えるんだよ」


 ネロはあえて、発声して即答した。

 自分の立場を全力で棚上げにした正論ほど、この世で厄介なものもないと思う。


「どっちにせよ、もう間もなく答えは出るだろうさ。俺たちはこれから銀行に問い合わせをする。真正面からな。そして当然、その問い合わせに前後してその遺産を狙う連中もこっちの動きに気づくだろう。そうなれば……隠されていたものや思惑は、白日のもとにさらされる」


 ううぅ、と千明は軽くうめき声を漏らした。

 たしかに真実は自分が求めたことだ。だが予想のハードルを余裕で上回る速度で、物事は速く、かつあわただしく動き出そうとしていた。心も体も、追いつけていない。

 脇腹を痛めながら、鉄の階は少女を下へ下へと、一方的に運んでいった。


 ・・・・・


 赤石永秀は厨房に通された。

 白く立つ湯気は、満腹だというのに食欲を刺激すつさまざまな料理の匂いを運んでくる。特にイタリアンということで、トマトと魚介の匂いが主流だった。


「で、用ってのはなんだい? また銃の調達かな? それとも会社の仕入れ先でも探してるのかな?」


 表裏の用向きを適当に列挙するブルーノに、永秀はおもむろに口を開いた。


「牛だ」

「――なんだって?」

「あのカプレーゼのモッツアレラは牛乳でできていた。水牛じゃない。他も、どれもこれもが、旬を過ぎたクソみてぇなまがい物だった」


 自分たちのテーブルに出されていたものと同じ料理が、傍らに出来上がっていた。冷ややかにそれを脇目で見ながら、率直に苦言を呈した。


「何が『来るなら言ってくれれば』だ。どうせ最初からここに来たことを知ってたんだろうがボケ。所詮成り上がり者には味が分からないから適当に出しとけば良いとでも考えてたか、あぁ?」


 姪のいるところでは決して見せないだろう口汚い悪態にも、欧州のマフィアは肩をすくめてみせた。


「……すまなかったよ。けど、悪気があったわけじゃないんだ。ちょっと天候不良で良い品が手に入れられなくてね」

「ハンマー持った白熊は取り寄せできるのにか?」


 そう、何も姪と団欒をしたいわけでも、つまらないクレームをつけに来たわけでもなかった。

 互いに不干渉の律を破り、傭兵をひそかに雇い入れて銀行にある『アレ』を狙った背信行為。それを咎めるために来た。


「うちは腐っても情報担当だぞ。あの『戦場鎚』はお前が呼んだんだろうが。ふざけやがって、そしてあわよくば千明まで確保で一挙両得ってか?」


 永秀の見立てでは、そこでブルーノは驚き、慄くはずだった。

 軽く動揺こそした。だが永秀を見返すその眼光にはなお、餓狼のごとき貪欲さが閃いていた。


「――へぇ、なんのことかは知らないが、いたんだ。その時、チアキが」


 問い返されて、永秀は自分がしゃべりすぎたことを自覚し、後悔した。

 勝勢に、手札の強さに驕り、切ってはいけないカードを、場に出してしまった。


「なぁ、ナガヒデ」

 親しい友の名の如く彼は呼び、肩に身を寄せ手を置いた。


「あの強盗が誰の仕業にせよ、もうそろそろ、タイムリミットじゃあないのかい? もし万が一、法で縛ることができる警察や荒事担当の泰山連衡が『アレ』を手に入れてみろ。ますます調子づくに決まってる。あの金貸しのジジイだって怪しいもんさ。そもそもチアキをそそのかしたのは、あいつかもしれないぜ」


 ブルーノの物言いにはある程度道理が通っているかのように聞こえた。

 そしてあの日銀行に行ったのが千明の自発的な行動による偶然なのか、あるいは誰かの糸に操られた必然だったのか。それはさておき千明は真実に近づきつつある。そのうえで彼女が『アレ』を欲すれば、白泉内記は一も二もなくその庫を開くだろう。


 それだけは阻止しなければならなかった。

 たとえどんな手を使っても、たとえ誰と、手を組むことになろうとも。


 ありとあらゆる局面での自身の不手際を悔いて立ちすくむ永秀に、ブルーノはトドメの一言を呉れた。


「ここはお互い仲良くしといた方が得だろう? オレたちは、『家族ファミリー』さ」


 ――そう、これが決定打となった。これがトリガーだった。

 肩に置かれた手。家族という言葉。


 二つの要素が結びついた瞬間、永秀は見ていたのはにやにやと笑うイタリア人ではなかった。過去の、兄の姿だった。


 それは兄が守ってきたものに対するせめてものケジメのつもりだったのか。

 あるいは自分より立場の弱い人間に対する蔑みや優越感が、身勝手な兄の幻影と重なったのか。

「断る」

 いずれの感情に起因するものなのか起因しないうちに、永秀は手を振り払って拒絶の意志を示した。


「俺が嫌いなもの、知ってるか? 量も質もねぇのに値ばかりはるイタ飯と、ナメた態度をとるシチリア人だよ」


 精一杯の虚勢とともに、永秀はブルーノを睨み据えた。

 そして数秒間たっぷり使って睨み合い、いずれとも互いに断りを入れるわけでもなく、踵を返したのだった。。

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