第24話
その夜、アカシヤグループ本社社長秘書、谷尾歳則の私室は、その権能に反して簡素なものだった。
清貧、というわけではない。スーツ類一式はさすがに地位に合わせすべてオーダーメイドであるし、時計、サイフなども世界的に見ても一流のもので、彼の体躯と身の丈に合ったもの、特に上司の矜持を刺激しないことを念頭に置いたチョイスとなっている。
だがこの部屋には、私物というものがまるでなかった。
古ぼけたトランクケースにここに越してくる前の私物は、郷愁とともに押し込められて、クローゼットの片隅に、極力視界に入らないスペースに納められていた。
それ以外は何もない。
物欲がないのか。それとも『この世界には蒐集する価値のあるものなどまるでない』という気からか。それは彼自身にもわからないことで、また時間をかけてまで自己分析をする気もないことだった。
そんな彼が業務用の端末から報告書を入力していた時、ふと通知が入った。
それは彼の主人たる赤石永秀でさえ知らない、この街張り巡らせた独自の『網』に、半自動的に引っ掛かったものだった。
それは、郊外の港、その倉庫で起こった中規模程度の爆発事故の映像だった。
もう十分もすればそれはニュースとして取り上げられるが、万民が視聴しても受け入れやすい、当たり障りのない説明と、それを証拠づける無難なものへと差し替えられたものとなるだろう。
彼の下にもたらされたのは、その編集の手が入る前のものだった。
数秒にも満たない映像を、再生する。
それは監視カメラが捉えたもので、そこには『魔法少女オーバーキル』などと沙汰される不審者の姿があった。
だが、そこに映った別の影に、ありとあらゆるものを傲岸に見下す彼の表情が、怪訝と驚愕へと変わった。
無論、火の大剣を担いで暴れ狂う甲冑騎士の姿など誰がどう見ても現実とは信じがたい、奇異なものではあった。
だが彼の興味はそこからすぐに移り、別のものを捜し始めた。
目を皿のようにして画面に食いつき、片手でモニターを引っ掴み、マウスで一部のクローズアップと画面移動、彩度や明度の調整を繰り返す。そして見つけた。
カメラのレンズが爆風によって割れる直後、倉庫から脱する、猫のようなフードを被った別の怪人の姿を。
谷尾は湧き上がる歓喜にこらえる事ができず、打ち震えながら笑って声をあげた。
・・・・・
――ふと、背に悪寒を覚えた。
だがネロは、それを払拭することにした。
彼は自分の才能ほどに、自分の直感というものを信じてはいない。
彼の世界……であった別次元においては、霊視霊感の類は一技術体系として確立されてこそいたが、そういう思い込みとの明確な線引きがないものとは距離を置いていた。
だいたいその分野に自分が長じているのならば、イグニシアの襲来を予期してもよさそうなものだ。
よってその奇妙な感覚を杞憂ということで結論付けて、心のダストシュートへと放り込んだ。
今彼が直面しているのは霊的な課題ではなく現実的な問題であった。
目の前に広がるのは、彼の『工房』であった人造世界だ。
どの並行世界とも等しく距離を置き、かつ隔絶された空間。ネオンサインの輝く、孤立した領地。
普段彼はここより千明たちの世界を眺望し、アバターによって干渉してきた。そして、コスチュームを縫製する作業をするのもここだ。貯蓄しておいた資財を流用して。
……のはずだったのだが、その資財も、ツールも設備もサポートボットも、イグニシアとの戦闘で多くを焼失させた。
外界に極力影響を及ぼさないようにという配慮からここへ相手を誘い込んだわけだが、結果としてその悉くが裏目に出た。あの脳筋王の、度を超えた浅慮さを軽く見積もっていた。
こうなってしまった以上は、生き残った分だけでやりくりするほかあるまい。
幸いにして、千明に埋め込んだ『ケージ』本体は彼女自体に問題が発生しない限り半永久的に魔力を供与し続けるものだ。デバイスもあらゆる状況に対応できるだけの種類がすでにロールアップされている。
「まぁなるようになれだ」
「何が?」
背後からかけられた問いかけに、ネロは驚いた。
その接近と、後ろに出没した人間自体に対して。
彼が望まない限り決して立ち入ることを許されないはずの空間に、パジャマ姿の赤石千明が茫洋とした様子で立っていた。
「お前、なんでここに」
仰天の声はかろうじて自制し、だが強張った調子で、問う。
「なんでってここは……うわっ、なんじゃここ!?」
そこでようやく、夢見心地であった彼女もまた、完全に覚醒したようだった。
(無自覚でここまで来たのか)
ネロは呆れると同時に、ある可能性について考えなくてはならなかった。
この領域は、基本的にはネロの許可したものしか入ることは許されない。基本的には。
だが領域間に設置したアクセスポイントに高密度の魔力を注ぎ込めば、その出入り口を無理やりに拡張させることは出来る。
「用があったのを思い出して、気になったらなんとなく寝付けなくてさ。で、ネロを起こそうとしたんだけど」
と彼女は弁解する。だが起こされた覚えはない。
おそらく彼女がネロと同一視しているのは、アバターに用いている人形だろう。
そしてそれこそが、件のアクセスポイントのひとつ、メインゲートでもあった。
以前ネロは、対岸鹿乃が『オーバーキル』の正体に感づきかけていたのはイグニシアの無節制に放出する魔力を浴びたからではないかと推論を立てた。
そして今、あの男と至近で戦った千明にも、同様の変化が起こっているのではないか、と。
それが良いことなのか悪いことなのかは、まだ判然としないが、それでも。
(また、自分の責と科とが増えた)
頭の痛くなるような思いで、所在なさげに佇む少女を見た。
とは言え秘密主義を咎められたばかりの身の上。憶測とは言え伏しておくわけにはいかなかった。
「それはおそらく」
「あのっ!」
タイミングがかぶった。
気鬱なままに、ネロは「どうぞ」とクライアントに促した。
「あっ、あの……だよ。こういうところで言うべきことじゃないとは思うんだけど、でもこういうことは今後付き合っていくうえでちゃんと言っておかなきゃって思うし」
千明はしどろもどろになりながら、指を組んだり解いたりして、視線をさまよわせている。
次第に頬にもほんのり紅を差した彼女を前に、ネロの背は自然とまっすぐに伸びた。
「貴様、あの娘に惚れているのか?」
無思慮に放った男の一問が、少年の頭の中で反芻させ、一瞬だがその思考を乱した。その手足をびくりと強張らせた。
「僕の事故のことなんだけど! ……ってなにやってんの」
激しい脱力感と自己嫌悪に襲われたネロは、抱えた頭を壁に打ちつけた。
「……まぁ気にするな。思春期の男子特有の舞い上がりってなもんだ」
「そういう言い回し自体がなんかもう思春期だよね」
「うっせぇや。で? 事故というと、お前とお前の両親の話か」
「うん」
コクリ、と千明は神妙な顔をして首肯する。
「色々あったし、無闇に疑うのもあんまり良くないことだから言い出せなかったんだけど……あの事故の直前、ある人に個人的に車検を頼んでた」
重い口調で、少女は震える唇を無理やりに動かして語り始めた。
「その人は当時は自動車工場の経営者でさ、パパは車とか他には頼まずにいつもその人に修理とか検査とかを任せてたんだ」
身体や言葉が揺れるのは、辛い事故を思い出しているためでもあるのだろうが、それ以上に誰かを告発するということは、赤石千明という人間には相当に勇気の要る行為でもあるのだろう。そうネロは思った。
やがて少女は息を大きく吸い込んで顔を上げた。
いつものようにおっかなびっくり、しかし覚悟だけはしっかりと決め込んで。
「叔父さんだよね、僕を殺そうとしたのは」
「……だろうな」
そして千明の両親を、焼き殺したのは。
誰が何を想おうと、何を為そうとも、為さずとも。
現実は止まることなく、坂に置いたガラス玉のように確実に決着へ向けて転がっていく。
どの世界にも通じる基本則を、結末が近いことを予感したネロは、あらためて噛み締めた。
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