第22話

 泣いている千明をあやし、崩れた化粧を整えるとのことで、男ふたりは対岸鹿乃によって夜天の下に放り出された。


 締め切られたドアに、ふたり並んでもたれかかる。

 歪ながらも旧知の仲ではあり、遺恨を持っていたネロとイグニシアではあったが、あえて語ることはなにもない。互いの過失を、咎めることもしない。何もかも今更親しみ憎しみを込めて語ったところで、白々しいだけではないか。


「もう帰れよ、用件は済んだろ」

「いいや、新たな疑問が沸いた。おそらく今生の別となろう。それに答えて貰わぬことには、退けん」


 ……とそう思っていたのはネロだけのようで、向こうにはまだ承服出来かねることがあるらしい。


「なんだよ」とうんざりした語調で問う彼に、イグニシアはまじめくさった様子で目を向けた。


「貴様あの娘に惚れているのか?」

「ただでさえ回路数が少ないオツムの、いったい何がどこをどう回ったらそんな疑問に行き着くんですかねぇ」


 極力悪意を込めて韜晦したが、ダイレクトに悪意の通じる相手ではないし、遠慮するような慎ましさがあれば、ここまで話は拗れていない。


「で、どうなのだ」

「答えるか! なんでマッドマックスの出来損ないみてぇなカッコの脳筋野郎とこんな時に恋バナしなきゃいけねぇんだ!」

「そうだな……歓談するには、己たちはあまりに時を逸しすぎた」


 かなりピントのズレた感傷を抱くイグニシアだったが、その口ぶりはまるで『自分も悪いがお前も悪い』とでも言いたげだった。


「恋愛感情は抜きにしても、貴様の言動は仕事仲間や契約関係を逸脱しているように思える。何故あの女にかくも入れ込む」


 諦めもせず、同郷人は食い下がる。

 だがその問いかけはハードルを下げて、多少はマシにもなった。

 ネロはため息を落とす。自身の前髪をくしゃくしゃと揉み潰す。そして、口を開いた。


「……今でも、迷っている」


 答えてもらえるかどうか、己の内でも半々だと踏んでいたのだろうか。イグニシアはわずかに目を見開いて聞き手に回った。


「すべてを喪った俺が、初めて出会ったのがあいつだった。すべきこともなくなった無用者の俺だったが、生きながら焼かれる少女に、自分の使命を見出した。そしておそらくが、俺の最初の、自発的な」


 言葉を詰まらせた。そんな自分に、ネロは少なからず驚きを覚えた。


「善意、だったんだと思う」


 だが、と言葉を継ぐ。


「そんな俺の身勝手であいつは生き地獄を味わっている。……あいつが抱える秘密が、おそらくはあいつの両親を殺した相手にとって不都合で、命を狙われ続けている。こんな他人の、すでに始末のついたはずの政争にも巻き込まれている。無理もさせた。堪えきれなくてさっきみたく泣かれもした。今まで判断を誤ったことがない俺だが」


 イグニシアの目が、何かいいたげに歪められた


「……と自分では思っている俺だけど、初めて変身させた日、感情が決壊して泣かれた日、俺は初めて自分の行いを悔いた」


 初めて。そう初めてだった。

 おそらく似たようなケースは今までいくらでもあったはずだった。皆、表面上は笑顔で喜んでいた。

 だが、実際はただの傲慢だったのではないか。仕事だなんだと言い訳をつけて、本当に負うべき責務から、逃げていただけではなかったか。


「だから決めた。俺はあいつを幸福にする。少なくとも、あいつが第二の人生を人並みに生きられるように最大限の配慮と努力をすると」


 自分では明確に、イグニシアの疑問には答えたはずだった。だが、彼の目つきは変わらない。

「ネロ」と彼の口が動く。半身をずいと乗り出す。


「己が問うているのは、貴様が、どう思っているかだ」

 と彼は言った。


「善意であれ悪意であれ、善行であれ悪業であれ、人とは何者かに迷惑をかけながら生きている生き物だ。だが、そのすべてに、無作為に、心なく責任という燃える十字架を負い重ね続ければ、いずれ耐えきれずして自分自身に焼殺される。救いは、責任感それ自体ではなくそれらをどう受け取りどう進むかという人の信念にこそある」

「……お前が言うと説得力すげぇな……」


 いや、逆に「お前が言うな」とツッコミを入れたくなるような。

 重たく感じる頭を、ドアに押し当てる。

 反響するように、その裏で物音が立った。


 扉を隔てて、誰かがいる。

 おそらく息を整えた誰かが、詫びもかねて、自身で迎えに来た何者かが。

 そして衣と鉄が擦れる音が聞こえ、ネロのすぐ真後ろで止まった。

 ドア越しに、背を合わせていると感じ取る。


 ネロは浅く呼吸をした。

 誰に命じられたわけではない。イグニシアに促されたからではない。自身の本心を、気持ちを、率直に多くを誤解させてきたその誰かに伝えるために。


「……楽しいよ、千明との生活は」

 ぎしり、と背で音がする。


「笑って、泣いて、ケンカして。互いにめんどくさくて。何もかもを無くした俺だったが、だからこそひとりの人間として生の充実を肌身で感じられた。勝手な話だが、感謝してるぐらいさ」


 でも、と後ろ手でドアの下部をさする。

 裏側で、同じようにして少女の指先が触れるのを感じた。


「だからこそ、この問題が片付いてあいつが腹の底に笑える暮らしができるようになったら、俺たちはいつかは離れなきゃいけない。あいつはどこでもいる女の子で、俺らみたいな存在は、まぁ思春期に見た夢のようなものだ。そんなものを日常にしちゃいけないんだ」


 それにグラシャのこともある。

 この馬鹿が散々痕跡を残してきた以上、遠からず彼女もここの存在を嗅ぎつけるだろう。そうなった場合、最悪の手段を講じてくる可能性がある。

 イグニシアのように楽観的かつ無責任にはなり切れない。それまでに、一度千明の下を離れ、成さねばならないことは多くある。


「それに俺もな」


 這わせた指を、さらに強く押し付ける。


「今日のあいつを見ていて、どんなに理不尽な状況を誰かに押し付けられても自分の意思で生きようとする千明を見て、胸を張って、新しい人生を人間らしく生きたいと思った。そうしないと、あいつとちゃんと向き合えないってな。……千明なら、わかってくれると思う。――俺が人になれたのは、千明のおかげだ」


 声はない。答えはない。そして、聞くまでもないことでもあった。

(せっかくお色直ししたってのに、泣いてどうする)

 ずるずると崩れる体躯の音。すすり泣く声。それを背に受け、ネロはほろ苦く笑った。


 イグニシアの巨体が、持ち上がった。シルバーのついた腰のベルトに無理やりぶち込んだ鉄棒の切っ先を鍵穴をこじあけるように動かすと、マンションの手すりの前に円形の門が揺らぎながら現れた。その先に、イグニシアの故国、ネロも幾たびかは来訪した懐かしの情景が広がっていた。


「納得はしたのか」

「細々とした理屈なんぞは知らん。だが、腑には落ちた」

「そうかよ」

「貴様のほうは? 貴様の跡を継いだノイエ殿に、託すことは?」

「何もない。別れも詫びもすでに済ませた」


 一瞬、元の世界から発つ瞬間の、少女のことを想った。

 妹は守成の人間だ。最善手は選べずとも、最良の方法を取れるはずだ。

 不憫だとは思うが、グラシャが技術力の湧泉であるフォングリンを徹底して破壊するとも思えない。騒動は続くだろうが、大過なく務めるだろう。


 ぐるぐると棒を回し、まるで飴細工でも練るような手つきで、異界へつながるゲートを拡張させていく。そして自身の体格がようやく通れるサイズになったところで……彼は、ぽいと、みずからの武の象徴であるそれを、ネロへと投げ渡した。


「その剣は返す。己には最早持つ資格のないものだ」


 そう語るイグニシアの肩は、こころなしか低く落ちている気がした。


「ではな、ネルトラン・オックス。――みずからの意思で決めた以上、必ずあの娘を幸福にしてみせろ」


 それだけ言い置くと彼は、故郷への門扉をくぐり抜け、やがてその向こう側より口を閉ざした。

 存在そのものがはた迷惑の化身のような大男は、この世界から消えた。

 嵐のごとく現れておきながら、去り際は、凪のように静やかだった。


「――だから剣じゃねぇって……」


 毒づきながらもネルトラン・オックスだった少年は、自身のかつての作品を見つめ、かつての故郷の気配の名残を、完全にかき消える最後の一瞬まで感受していた。


 すでに日は改まり、いずれ陽は上る。

 そして今のネロにとっての現実が、新たな一日を始める。


 何も見聞きしていないように必死にごまかそうとする、自分と同じくどこまでも不器用な、その少女とともに。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る