第5話

 灯浄アークライン。

 この名に親しみのない人間は空港か、それともそこから発せられるツアーかと勘違いする者が多いが、その正体は観光バスである。

 二階建て構造で、上階は屋根が取り払われてオープンになっていた。

 3.5mの車高は象にも例えられる。そのシックなデザインの赤いボディは、異国情緒あふれる異人街や旧駐留地を、その景観をそこなうことなく一時間近くかけて周遊する。


 今日も四十名近い座席は埋められて、二階には少女、赤石千明もいた。

 桜が散る前に乗ることができて僥倖だったと思う。銀行や歴史的建造物の立ち並ぶ街道の狭間で咲く薄紅の美しさは、むしろ満開であることよりも趣がある。


 オープンになった二階。自分にとっての最適のポジションのシートを確保し、紅茶を一飲み。ふっふー、と満悦の吐息をこぼす。


「ゴキゲンな休日だ」


 ショッピングの戦利品を家宝のように抱えるなか、それに圧迫された形で隅に追いやられたネコのぬいぐるみ、のような少年は言った。


「そうだな。平日は学校が始まったことだし、こういう時間は久々だもんな。で、つかぬことを聞くんだけど」

「ん? なに?」


 繋がってもいないスマホを耳に当てながら、千明は問う。

 これは自分との対話中に周囲に不審がられないようにという、ネロの提案だった。

 ともすれば、千明自身のために俺を人扱いするな、とさえ言いたげなアイデアである。みずからを貶めてまでこういう配慮のできる彼には、申し訳なさと感謝を


「ゴキゲンな休日とやらに付き合ってくれる友達はまだできねぇの?」


 ……感じない。そんなものは今この瞬間に吹き飛んだ。


「はははは……ほんっとーに口だけはムダに達者なネコさんだこと」


 大物ぶって千明は笑い飛ばそうとした。だがその表情筋は引きつり、まるで焼きすぎたベーコンのようだった。


「で、どうなんだ実際のとこ。……まぁ、今の反応見りゃ大体わかるがな」

「しっ失礼なッ! ただほとんどアウェーみたいなもんなんですよ! 僕だけ高校デビューべリーハードみたいなもんなんです! だからちょっと人より打ち解けるの時間がかかるんですゥ!」

「……そっか……」

「その憐れみの目やめろォ! だいたい、きみはいっつも僕を隠キャみたく言うけれど、見てよコレ。オシャレな服着てしゃれたバスに乗ってショッピングのあと優雅なティータイム。まさしく陽キャですよ」

「陽キャ。個人経営の店は怖いからとイオンのライトオンで妥協して、それでも店員の目怖さに安いチュニックだけ買って、アニメキャラのご当地コラボを買いあさりながらもちょっとシャレたスタバに気後れして脇の自販機で午後ティー買うような奴が、陽キャ」

「キッキサマッッッッ!! 隠キャ相手に言っちゃいけないことのオンパレードを!!」

「認めてんじゃねーか」


 巧妙なる挑発に引っかかって、ぐぎぎと千明は歯を絞る。


「てゆーかそっちこそ! いろいろとオブラートの包めないお方こそ友達がいると思えませんけどね!」

 このままでは一方的に負けだ、という思いから攻め口を変え、そこに舌鋒をねじ込んだ。


「……まぁな」


 功あり。

 やや苦味を帯びた調子でふっと視線を外へとそらし、ぽつりと低く小さく肯定を漏らす。


「作れるような環境でも、なかった」


 追い討ちをかけようとした千明は、何気なく続けられた答えによって踏みとどまった。

 ごく当たり前のように呟かれたからこそ、そこには真実の重みがあった。


(ずるい)

 千明は言葉にせず、視線だけで彼を責めた。


 千明の孤立にだって、言い分はある。

 彼女は事故に遭う以前から、物心つく時分から、社の貿易部門の重職にあった父に付き従って、転校をくり返してきた。そのこと自体に後悔はない。

 だが一つ同じ学校に留まることのなかった少女は、距離感や空気の読み方など、長期間共同生活してこそ成熟するコミュニケーション能力を身につけられず、また趣味や嗜好を相手に合わせる術を持たず、幼さから卒業できないままに成長した。


 だからこそ、環境による孤立を痛いほど理解してしまえる。そこを揶揄するわけにはいかなかった。


(でもこいつ、いったいどこの誰なんだろ)


 本来ならとうに聞き出しているであろう、当たり前の疑問へと行き着く。そして問い詰めれば、腕を組んで傲然とこう答えるに違いない。


「俺は、職人マエストロだ」


 それ以上は聞くな、踏み込むなという言外の圧力とともに。


(自分は、平然と首を突っ込んでくるくせに)

 卑劣ではない。だが、卑怯だとは思う。


「俺じゃなくて、街の景観を見ろよ」

 そう促され、あわてて端末をしまいこんで、居住まいを正す。

 そうしているうちに、バスは市街地を抜けた。一度ふ頭手前の駐留所でその身を休め、人が入れ替わる。

 それから中央区の離島、そこをつなぐ真っ赤な大橋へと向けて発車する予定だ。


 彼女の手前で、男が止まった。

 間違いなく東洋人ではあるのだが、日本人ではなさそうだということ以外不明。

 また顔の凹凸はとぼしく、これといった特徴もないから印象も弱い。年齢も三十そこそこといったあたりで、視線を外せば数秒後にはスーツの質が良かったことと背筋がピンとしていたことぐらいしか覚えていられないような顔立ちだった。


 席取りで迷っているのか、それとも次の目的地を模索でもしているのか。空きがあるにも関わらず、彼女の前でガイドブックを拡げたままに立往生している。


「…………」

 ネロはそんな彼の、本の表紙で隠れた手元をじっと睨んでいた。


「ネロ……?」

「頭下げろ」

「え?」


 千明は聞き返したが、二度は言わなかった。

 ネロは実力行使に出た。横合いから千明の髪を引っ張るや、頭の角度を変える。


 そして彼の直感による警戒は、的中していた。

 次の瞬間、ガイドブックに穴が開いた。空気が抜けるような音が聞こえた。

 ページの裏に仕込まれていた、消音器付きの22口径が、弾を音速で吐き出した音だった。


 そしてそれは、まっすぐな弾道を描いて、千明の額に食いつかんと迫っていた。

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