第7話 仮初の世界


 一番最初に思い立って向かった場所は、今まで多くのことを勉強した教室だった。しかし、どの教室が自分にとって縁があるかわからないため、それらしき教室を片っ端から調べることになる。

 学校そのものの構造は変わっていないようだが、どうにも僕自身がこの校舎の記憶が曖昧であるがゆえ、どこに何が配置されているのかわからない。幸い構造は単純なようで、構内のいたるところにはられている校舎の間取り図により、迷うことはなさそうだ。


 この学校は3階建てで、1,2年生が1階を、3,4年生が2階を、5,6年生が3階を使用している。おそらく、同じような流れで僕も進学しているはずなので、すべてを順番に辿っていくことが正解であろう。

 まずは体育館につながる渡り廊下から最も近い、2年生の教室を訪れる。

 しんと静まり返る校舎の中はどこか非現実的で、かすかな恐怖感を与えてくる。その反面、こんな空気感や質感だったと思い起こせば、わずか数年程度の隙間であるはずの生きた時間が心地よく眼前に横たわっているようだった。

 小学校生活にいい思い出があったのかわからないが、こんな懐かしい気持ちになるくらいだから、何かしらの嬉しい出来事があったのかもしれない。そんなひっそりとした期待を込めつつ、僕は2年生の教室の扉を開こうとする。


 だが、教室の引き戸はびくともせず、鉄の扉のごとき佇まいでそこに鎮座するのみであった。

 何かが引っかかっているのだろうか。一瞬そんな思いにも駆られ、持てる力を全て引き戸にぶつけるように、思いっきり扉を引くが、相変わらず扉はびくともせず、嘲笑じみた沈黙を醸し出すばかりだった。

 少々悩んだが、この場所に固執する必要はないため、すぐに隣の1年生の教室の扉を開くことにした。しかし、その扉も同じようにどんなに力を込めても開くことはなく、強烈な違和感のみを僕に与えていた。

 というのも、すべての扉は外側から施錠の有無を確認することができるのだが、どうやらすべての扉が施錠されていないようだ。つまり、鍵がかかっていないのに、扉が固く閉ざされてしまっている。つっかえ棒かなにかで内側から塞いでいるとも考えられるが、その割にはどんなに力強く開こうとして、一切動かないのは不自然である。何かで塞いでいたとしても、これだけの力で扉を引けば、開かなくてもつっかえ棒が動く物音や振動くらいは感じられるはずだ。それすらも、この扉には存在しない。まるで、この扉が作り物と言わんばかりに、沈黙を貫くばかりだった。


 そう、作り物だ。この扉は、実際の扉に鍵をかけたというより、まるで扉の模型をこのままおいているようだ。だから開くこともなく、強烈な違和感のみをこちらに与えてくるのだ。

 でもそれならばなぜ、こんな形で現れたのだろう。この校舎は、瑠璃の弁を借りれば「僕自身が作り出した世界」である。扉がこんな状態のママ個々にあるのも、僕自身がそう望んだからであり、ちゃんとした意味も存在するだろう。その意味が今の段階で理解できるのかはわからないが、ヒントの一つであると理解して僕は先に進むことにした。

 一応、一階すべての扉を開いてみたものの、全てにおいて扉としての体をなしておらず、同じように開かない扉ばかりだった。おそらくは、この世界にとって扉は不必要なものなのだろう。それとも、部屋そのものが存在しないのかもしれない。それならば、この世界は見掛け倒しの仮初の空間をただ見せているだけになるが、それに対しての意味付けはやはりできず、言いしれぬ不快感が体中にまとわり付いているようだった。ただ単純に、不快であるというだけではなく、若干の薄ら寒さを感じるほどの違和を突きつけられているようでもある。


 とりあえず、1階はそれ以上調べることはなく、そそくさと2階に向かった。

 2階は資料室や視聴覚室、パソコン室などの施設が整備されていて、構造上の問題で子どもが利用する教室は最奥に存在する。これをいいことに、片っ端から扉を開こうとするものの、やはり扉は開かない。

 すべての扉が同じようになっているのではないか。ここに来てその不安は激しく強まったものの、他にすることもないので、僕は最奥にある4年生の教室の扉に手をかける。


 手に触れた瞬間、その扉が本物の扉であることがわかった。今まで触れた仮初の扉とは比にならないほどの重量感が手のひらを介して伝わってきて、安心して扉を開く事ができる。

 案の定、その感覚通りに扉はすんなりと開き、黄金色が乱反射する教室が目の前に飛び込んでくる。

 時間は黄昏時なのか、窓から差し込む光は若干の陰りを感じさせ、連続的に変化している光が机を鮮やかに照らしている。普段殺風景に見える教室を見事な絵に変えているようで、少しだけその光景に心奪われそうになる。しかし、それよりも目が行ったのは、窓際で本を読む金髪の少年だった。

 少年は、窓際の席で膝を立てながら何やら難しそうな本を読んでいる。それもそのはず、その本は全文英語で書かれた本で、当時はおろか今の僕ですら読むことはできないであろう代物だ。彼の鮮やかな頭髪を考慮すれば、恐らくは彼の母国語が英語なのだろう。


 そこで、僕はすぐにその少年が、先程見た僕の記憶に深く関与した人物である「優一」だと理解する。相変わらず、その顔はえぐられたように存在しないものの、近寄りがたい雰囲気と顔は確認できなくても強烈な圧は、容易にその容姿を想像させる。

 そこまでいっても、僕は彼の顔を思い出すことができなかった。そして、彼との間にどのような関係があったのかも。想定できるのは、良質な関係が取れていた可能性であるが、実際あの記憶すらも、本当に現実であるかわからない。すべて、自分の妄想であるという可能性だって十二分にあるのだ。そのことを思えば、僕は心の底から苦しみにさいなまれる。

 あの記憶が、現実であってほしいという気持ちと、それとは裏腹に、妄想であってほしい気持ちが同時に混在していた。あの記憶を信じるとすれば、僕は大好きだったはずの優一を自らの手で突き落とした、つまり殺そうとしたことになる。一体どのような背景でそのようなことをしたのかはわからないが、どんな理由があったとしても、最愛の人物を殺そうとしたなんて信じたくない。非現実の産物であるのなら、ただの悪趣味な妄想で終わってくれる。彼が、優一が傷つくこともない。


 しかし、その思いを壊すように、僕の視界はぐらぐらと揺らいだ。三半規管がかき乱されるような気分だった。グラグラと平衡感覚がなくなっていき、立っていることすらやっとの状態の僕を、すり抜けていく何かを認識するまで、自分の身に何が起きているのかわからなかった。

 一方、すり抜けていった何者かが、本を読んでいる優一に近づき、喋りかけたことで僕は、自らの身に起きた異変を察知する。



「優一、みんな帰ったよ。一緒に帰ろう?」

「やっと来たか。遅い」

「ごめんごめん。いつも待たせて、ごめんね?」


 2人はそんな会話をしながら、教室を後にするように歩き出す。

 それに呼応するように、あたりはひしゃげていく。

 一瞬にして世界がゆらぎ、次に現れたのは見覚えのある町並みだった。そして、そこには夕闇迫る空に背をむけて歩く、幼い日の優一と自分がいた。


「優一〜、どうしてみんなと遊ばないの?」

「楽しくないから」

 ぶっきらぼうにそう答える優一は更に続ける。

「折人以外とは話したくない。話し方だって、やたら速いし、喋り方も言われる」

「そんなことないよ。日本語上手だし、すぐに仲良くなれると思う」

「友達は折人以外いらない」


 異常なほど頑なな優一を見て、少しずつ彼に対する記憶が戻ってくるようだった。

 彼は、小学校4年生の春にイギリスからの転校生だった。人種としての問題により、うまく人間関係を作ることができなかったということと、言語的な経だりの問題で交友関係の乏しい人物だった。僕自身、人間関係を作るのが苦手で孤立していたことに加えて、朝顔を植える校外学習をきっかけに仲良くなったはずだ。

 僕と付き合うようになってから、彼は様々な面を見せてくれたが、依然として彼は他の人間と付き合うことはしなかった。それどころか、次第に依存的になっていったことは印象深い出来事だった。


 僕の気付きに反応するように、世界は一瞬にして学校の校舎に戻っていく。

 そして、あの音が同時に鳴り響く。不快感を強めるオルゴールの音色。アラベスク第1番を奏でるオルゴールの音色はほぼ完全な旋律に則って演奏されているものの、不気味に響き渡る音色はあまりにも不釣り合いで、僕はその音の正体を確かめようとすぐに教室を出た。


 廊下に出ると、その音色はちょうど真上の階層から響き渡っていることに気がつく。

 この位置の真上にあるのは、音楽室である。おそらく、そこが音の根源であろう。

 そう判断して、僕はすぐさま音楽室へと向かう。

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