第6話 暗がりの面


 もう何度ここで意識を失えばいいのか、微かな呆れとともに僕は痛む頭を押さえつけながら目を覚ます。

 未だに頭の中にはあのオルゴールの音色が残響しているようで、巡っていく思考を阻むかのように頭がガンガンする感覚が常に続いている。そんな状態でありながら、僕はゆっくりと立ち上がり、ぐらぐらと揺れ動く視界にピントを合わせる。

 すると、意識を失った場所で目を覚ましたことを理解する。眼前にあるのは崩壊したハニカム構造状の棚であり、不快さを強める臓器が未だに瓦礫から流れ落ちていた。既にそんな異形の光景にも慣れた気もするが、噎せ返るほどの吐き気を覚えて軽い眩暈を感じてしまった。

 倒れ込みそうになる体をかろうじて支え、痙攣するように震えている足をガッチリと掴み、辺りを見回す。


 すると、先程までそばにいたはずの瑠璃がいなくなっていることに気がつく。

 それに気がついた瞬間、僕は底なしの不安に苛まれることになる。この世界の中で唯一僕に味方していた瑠璃がいなくなったということは、この不可解な世界を一人で彷徨うことになる。これからのことを考えるだけで、不安が決壊したダムから流れる水のように押し寄せてくる。

 しかし、このまま漠然と何もせずに佇んでいることも無意味である。どんなに不安があっても、ここから先に進むためには行動するしかない。


 僕は迷子のような不安感を押し殺し、ゆっくりと足を動かし始める。

 最初に、今までまじまじと見ることがなかったこの空間を観察すると、見かけ以上にこの世界が奇怪なものであることに気がつく。

 今僕がいる空間は、正方形状の部屋で、扉の正面には一番最初に目に入ってきた倒壊したハニカム構造状の棚があり、その床一杯が肉壁の如き不気味な蠢きを見せている。もっと深く表現するのならば、人間の心筋を切り取ってそれでカーペットを作ったようだ。しかも、その床は不気味に等間隔で心音を刻んでいるようだった。


「これ……一体何なんだよ……これが僕の記憶に関係しているっていうの……?」

 この世界にあるあらゆるものを認識してしまった僕は、深い恐怖にさいなまれる。果たして、本当にこんなものが自分の求めている記憶に関係あるのだろうか。

 顔だけじゃない。大量に溢れている臓器や心筋の床、その床にぶちまけられているシリンダーオルゴールのシリンダー部分、挙げ句天井には回すもののいないオルゴールがむき出しの状態で残っている。

 その気持をストレートに声に出しても、それに返すものはおらず、無残な言霊だけが異形の室内を何度も反射した後、エコーのかかった声のみが自らの鼓膜に触れる。


 些細な虚しさを感じつつ、いつまでもそこにいようとは思えず、早速外に出ようと扉の前に来る。しかし、ここで問題が発生する。

 扉が閉まっているのだ。いつの間にしまったのかはわからない。部屋を見回している間は、確かしまっていた。それならば、先程意識を失ったときにしまったのだろうか? でもそれなら、どうしてそんなことをする必要があったのだろうか。加えて、そんな事ができる人物はたった一人である。

 今この空間にいない、瑠璃だ。彼ならば、ここから出ていくとともに扉を閉めることはできるだろう。逆にそうとしか考えられない。彼の話をまとめればこの世界にいるのは僕と彼のみであるはずだし、僕はずっと意識を失っていた。

 しかし、そうなると、瑠璃がどうしてそんなことをしたのかという疑問が生じる。彼の言動からして、僕への懲罰としてこんなことをしているわけではないようだ。それならばなぜ、そこで思考が一周してしまい、同じ疑問に戻ってきてしまう。


 その場で呆然と同じ思考を繰り返すのは意味がない。

 とりあえずそう判断して、僕は再びこの部屋の中、特に閉じている扉を調べる。

 鉄製の扉は錆びてこそいるものの、非力な僕の力ではびくともしない。完全に施錠されているらしく、こちら側から開けることは不可能だろう。

 改めてその扉を見てみると、外側から見たときにめり込んでいたクランクがこちら側からも見ることができる。そのクランクは、室内上部のオルゴールの取っ手に似ているような気がする。しかし、それ以上に、このクランクにつけられている模様は見覚えがあるように思えた。それは、クランクの制作会社がつけたものなのか、随分と立派な文様のようだった。心なしか、アラベスク模様にも似ているように思える。

 だが、扉を見て得られた新たな情報はそれくらいしかなく、その情報すらも部屋から出るための情報にはならない。無駄骨と言っていいだろう。


「とにかくここから出ることだけ考えないと……」


 焦りと不安を象徴するような自分の言葉が不意に耳に障る。

 この先どうなってしまうのかわからない不安に押し潰されてしまいそうな気持ちを鎮めようとして呟いたセリフがまったくもって意味をなしておらず、ただ精神状態を悪化させるだけで、僕は疲れたように近くの壁に手をついた。しかし、それが不安定な精神状態を更に壊すような光景へと繋がってしまう。


 壁についた手のひらは、次の瞬間なにかに触れる。その感覚はぶよぶよしたゴムのように不快であり、凍ったように冷たい。それでいて絶妙に気持ちの悪い硬度であり、それこそ死体に触れればこんな気持の悪さを感じるだろう。

 ふと、触れたなにかに視線をやると、壁にかけられたデスマスクのようにこちらを見る人の顔だった。


 僕はそれを見て不意に叫んでしまう。心臓は破裂するように膨張した後、空気が漏れた風船の如く萎んでいく。そんな変化が一瞬のうちに何度も繰り返され、体中の血液が逆流するような錯覚とともに、喉奥からこみ上げる血錆の味が舌下を覆い尽くすようだった。

 そして、僕は荒く膨張と縮小を繰り返す肺と心臓に手を当て、ゆっくりと呼吸するように自らに働きかける。そこから冷静さを取り戻すまで恐ろしいほどの時間を要した気がする。

 そんなズタボロの状態で、僕は冷静さを更に自らに問いかけるようにあえて疑問を声に出した。


「これ……まさか、本当に人の顔……? でも、なんでこんなものが……」

 反響した自らの言葉を装飾にして、まじまじとその人顔を観察する。よく見れば見るほどその顔は不気味であり、生きているような形相でこちらを睨みつけている。

 誰の顔であるかはわからない。しかし、その顔が女性であり自分と同じような年齢の子どもであることは理解できる。それによく見ると、デスマスクというよりは、人の顔を模した精巧な作り物のようだ。本物の人の死体で作成されたものではないと感じる。

 それにホッとしたのもつかの間である。壁に埋め込まれた人の顔は、その一体だけでは終わらず、手をついた壁一杯を覆い尽くすように埋め込まれていた。ざっと見ても数十体はいるだろう。それほどまでの人の顔が一斉にこちらを向いて無機質な視線を突きつけてくるのだ。その場にいるだけでも薄ら寒さを覚えるほどの不気味さに、僕はゆっくりと瞳を閉じて180度体の向きを変える。だが、その行動ですら異形の顔から逃れることを許さない。

 方向を変えた視線の先には、壁一面に埋まっている顔があり、その無数の顔と目があってしまう。


「気持ち悪い……なんだよこれ……」


 あまりの不気味さに、僕は体を大きく身震いさせ、そう吐き捨てる。

 正直、こんな不気味な場所からもう立ち去りたい。だけど、出口の存在しない立方体から抜け出すことはできず、途方に暮れ始めたときだった。


 どこからか、がこり、がこりと何かが稼働する音が聞こえてくる。

 その音とともに、今度はばたばたと壁に埋まっていた顔が地面に落ちていき、四方八方を満たしていた不気味なデスマスクの群れは一斉に地に伏していく。すべての顔が壁から剥がれ落ちたと思えば、今度は慌ただしくハニカム構造状の棚の後ろの壁が崩壊し、先に進めるようになった。

 まるで何かのアドベンチャーゲームであるが、僕はここから抜け出すことができることを祈って、ガラスの破片に満ちる棚の後ろへ向かってあるき出す。



 今にも自らの皮膚を切り裂きそうなガラスを掻い潜ってポッカリと空いた壁の先に足を踏み込むと、ぐちゃぐちゃとグロテスクな造詣を持っていた先程までの部屋とは打って変わって、安定したフローリングを思わせる感触を靴底に示していた。

 しかしその感触とは裏腹に、眼前に広がっているのは居心地の悪い闇のみである。その黒色の光景は一切の感覚を拒絶するようで、なんの気配すらも感じない。あるのは陰惨な空気感と自らの息遣いのみであり、何もない空間をただ茫漠と歩いているようだった。

 暫くの間続く連続的な暗闇を抜けると、辺りは全く異なる姿を見せ始める。そこは、見覚えのある校舎の廊下だった。ここは、僕が小学校時代を過ごした、少しだけ懐かしさを感じる校舎である。


 先程まであった暗がりの道は既に消えていて、後方には整然と並んでいる窓ガラスに包まれる廊下のみが延々と続いている。一体、自分はどうやってここまで来たのだろうか、そんな当然な疑問すら感じることはなかった。

 ここでは非現実的なことが起きすぎる。僕は自らの心に不自然なくらい適当な整合性を付け加えて、そそくさと今見える校舎をゆっくりと見回した。


 あたりは何も変わったところがない、ありきたりな小学校の一部だった。今立っている場所は、体育館へ続いている通路の道中だ。僕の通っていた小学校は確か、体育館と校舎が別物になっていて、渡り廊下のような形状の通路を通ってしか体育館に行くことはできない。向きとしては体育館側の方に向いていて、これでは体育館に行く途中に立ち止まっているような状態だろう。


 ふと、その場に立っていると不思議な感覚に襲われる。体育は嫌いだった。運動神経はお世辞にもいいとは言えず、おまけに小学生同士のスポーツなんて、できなければ碌なことがない。

 特にドッジボールや、サッカーなどの団体戦はかなりの地獄だった。たった一人のミスで試合に負けたりなんかしたら、まさに「戦犯」と言わんばかりに責められ、何度も陰惨な言葉を浴びせられたことを今でも覚えている。

 運動をしない奴から言わせれば、こんな球蹴りや玉あてゲームの楽しさがこれっぽっちも理解できない。それこそ、気の合う友達同士で喋ったり、興味のある科目の授業を受けいてたほうが遥かに楽しい。しかしそんなことを共有できることなどなく、僕は小さく孤独を噛み締めていた。

 だが、その感覚は、僕にとって初めて「生前の記憶」を思い出したことに繋がる。


「……僕、運動嫌いだったんだ」


 一切意識していなかったが、今の感想は明らかに今まで思い出せなかった生前の記憶と感情である。

 ようやく自分の記憶への糸口を見つけたことに、少しだけ安堵するものの、状況的にはあまり改善することなく、この変質を繰り返す世界に翻弄されている感覚は否めない。

 そうは言っても、記憶の片鱗を見つけ出すことはできたのだし、早速僕はこの校舎の中を歩き回ることにした。

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