2 彩音
求人内容から目を離し、腕を組みながら天井を見上げ、彩音は考える。
ネットワーク環境とそれなりの端末さえあれば、システム開発は勤務地を問わないというのは、現代のIT産業の一つの真理だが、それにしてもこの内容には胡散臭さがつきまとう。
都市圏であっても、IT技術者で年収1500万となると、大規模な基幹システムの設計SEクラスの厚遇。
それが、地方の離島で。
確かにAI開発はまだ未成熟な技術であるし、彩音が考案したAIは、この先少なくとも五年は誰にも真似出来ないものと自負しているとはいえ……。
決してゲームマニアではない彩音でも、仕事柄、用語ぐらいは分かる。
MMO。多数の人間がネットワークを介してプレイするゲーム。
そこに『仮想現実』がキーワードでついているということは、いわゆる没入用のゴーグルやセンサーデバイスを使うVR、つまりバーチャルリアリティによる仮想空間が舞台ということか。
仮想現実とAIは融和しそうなキーワードではある。そんな漠然とした興味もあったが、彩音がこの胡散臭い求人に惹かれたのは、内容や給与面だけではない。
必要だったのは、環境。
一定の役割、水準、地位、そういう固定観念にとらわれた生活様式が理想とされている社会が苦しい。
なぜこうなったのか。
自分の身体のことは、どうにもならないことではある。
しかし本当にそれだけだったのか。
考えるときりがなく自分を追い詰めるスパイラルに陥っていく。
婦人科でも精神科でも言われた。
自分に問題があると考えることをやめさない、と。
自分と合わなかった相手に問題があると考えておきなさい、と。
その解釈には少し救いがあるが、では、自分が受け入れられる場所は、いったいどこにあるのだろう。
海は穏やか。
少しうつらうつらとした。目を閉じているとそれだけで心が落ち着いた。
アナウンスが聞こえてきた。
夢を見ているのか現実のことなのか戸惑う、あの独特の感覚を経て、現実に引き戻された。
智峰島が見えた。
建物はあまり見当たらず、緑がほとんど。本当に小さな島なのだろう、港からすぐに二等辺三角形の尖った山が盛り上がっている。おそらく、標高は200メートル足らずか。
事前に調べた情報では、島を全周しても三キロ程度しかないそうだ。平地などほとんどないだろう。
智峰島に降りたのは、彩音を入れて二人だけだった。
高校生ぐらいのような少年。
大きなリュックサックを背負い、さらにスポーツバッグを背負っているから、本土の高校にでも通っている生徒なのだろうか。
背はそこまで高くないが、少しだけ陽に焼けていて爽やかな容姿。きっとモテるだろう。
港は、折り返しのフェリーが出ていくと、静かになった。
人がいない。
怖ろしいほど誰もいない。
コンピュータの画面と、繁華街の雑踏に疲れている彩音には、心地よかった。
自分の頭でゆっくり処理できる範囲の情報量しか、ここには存在しない。
かすかに春の花の香りが漂う静かな島。
スマホで、待ち合わせ内容を確認する。
この港、この時間で合っている。迎えが来るはずだ。
空を見上げる。
雲がぽつぽつ。穏やかだ。
海を渡る風も心地よい。四月も近い清々しい陽気だった。
彩音と一緒に降りた少年も、どこにも行かずにぼうっと立っている。
ときどき、お互いに意識するほどでもないが、ちらちらと見合ってしまう。
自分はともかく、この子はなぜ動かないのだろうか、と彩音は訝しんだ。
まさか、自分と同じプロジェクトの参加者で、迎えを待っているなどということは……。
いやいや、それはない。
あれは求人広告なのだ。
彼はどう見ても学生。何かの用で本土に出かけて、島に戻ってきた学生、ただそれだけのこと。おそらく、迎えの家族が遅れているのだ。
しかし、やはり気になってしまう。
こういうとき、人見知りをしない社交性が高い人間なら、声をかけたりするものだろうか。
自分のほうが年上で、相手はただの学生なのだ。何をためらう必要があるというのか。
と、思ってはみても、大人はそう簡単には変われない。引き続き、人間観察をするばかり。
先入観は捨てるべきかもしれない。
対象はゲームだ。
デバッグやプログラミング、デザイナーとなると、学生にいくらでも優秀な人材はいる。
自分だって、はたから見ればまさかのAIエンジニアだろう。
と、電気自動車のものらしい静かな車の音がした。
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