二番目のわたしと一番の彼

ぺこ07

第1話二番目のわたしと一番の彼1


 梅雨の時期特有の肌に張り付くようなジメジメとした空気が漂う部屋の中、目に入れても痛くないほど可愛いこどもたちの昼寝の姿を横目に見ながらの、午後のひととき、家ではまず食べることが出来ない、美味しそうなスコーンをほおばっている女性がいる。今時にしては珍しい、黒髪に長髪。眉毛に手入れは行き届いておらず、伸び放題になっている、目は両方とも奥二重でそろっている、鼻は高くもなく低すぎることもない、唇は乾燥して皺が目立っている、体型はやや太り気味でヨレヨレのTシャツを着ている、サイズが大きいのか余計太って見える。年頃は20代後半、世間で言うでアラサーというやつだ。


 そう、これはわたしのことである。

わたしは、年の割には同世代の人たちと比べると考え方が少し古いらしい。

例えば、長男と結婚するならば同居は当たり前など。今の時代には少し合っていない、キャピキャピしていないのだ。


10代後半の頃に20代後半に間違われた事があるほど、考え方も見た目も古めかしいわたしは、片手に収まるほどの交際経験しかなく、今になって思えばもう少し遊んでもよかったのではないかと思ったりもする。


 今は素敵な旦那さんに出会い、毎日家事や育児に追われる生活をしている。

そんなわたしにも昔には、男性だがとても仲良くしていた人がいた。

 そうそれは、ずいぶんと前の話だ、たくさんの桜の花びらが舞い落ちる道を歩きながら、三年間通った高校を卒業し、初めて社会人として働くことになった職場で、あなたに出会ったのだ。


この会社に入る事になったのは、当時お付き合いしていた人の家の近くにこの会社があったからというすごく安易な動機だった。もちろん面接でそんな事は言えず、まともな内容を考えたものだ。本当は工場などライン作業を希望していたのだが、高校生の頃はとても人見知りでこのままでは自分が成長出来ないのではないかと危機感を感じ、思い切ってサービス業という職種を選んだのだ。


入社試験を受けた、面接と計算の筆記試験。先に行われたのは、わたしが最も苦手とする計算の筆記試験、計算と言っても二桁の足し算や引き算などが100問の普通の人からすればとても簡単な内容だ。時間は10分、わたしは人生の中で一番集中して計算問題に取り組んだ。もちろん最後まで解く事は出来なった、でも後悔はなかった。そして、面接だ。

50人程だろうか、入社試験を受けに来ていたのは。なぜだかわたしは最後の方のグループに割り振られ面接が始まってから何時間も待たされるという災難に見舞われた。だが、長い時間待っていた事で、面接で聞かれた質問の内容を聞く事が出来たり、緊張がほぐれたりしていい面もあったのだ。

結局、全てが終わったのは入社試験が始まってから半日後だった。

合否の通知が来るまでの一週間はドキドキしっぱなしで勉強にも遊びにも集中出来なかった。ドキドキして待った結果、無事にこの会社に入れることになったのだ。その頃には当時付き合っていた恋人とは終わりを迎えており、この会社を選んだ意味を失っていた。


わたしが入った年に、同じ店舗に配属されたのは、わたしとは異なる部署に配属された、中島さんと武田くんだ。二人とも私と同じ高卒だ。中島さんは今時の女の子で派手な化粧をしていて少しキツそうな印象を受けた、武田くんは背が高くひょろっとしてとても優しそうな印象を受けた。配属された店舗は全店舗の中で売り上げは中の下、品揃えも豊富で、立地も悪くないし社員さんの雰囲気も、とてもわきあいあいとしている。


配属された部署では初めての事ばかりで毎日がめまぐるしく過ぎていった。

仕事の内容や一緒に働いてくれるパートナーさんたちとの交流も少しずつ覚え始めた頃のことだ、仕事終わりの女子更衣室で中島さんが顔を赤らめながらわたしにこう話しかけてきた。


「あたしね、武田くんの事好きになっちゃったみたいなの」


「そうなんだ、かっこいいし優しそうだもんね、応援するし何かあったら相談してよ」


わたしは、そう中島さんに伝えた。武田くんのことを好きになるのは自然なことだと思ったからだ。武田くんは口数こそ少ないが、今時のチャラい男の人とは違いとても真面目で優しそうに見えるからだ。


それから、中島さんと武田くんが付き合うまではそんなに時間はかからなかった。

詳しくはわからないが、きっと中島さんの猛烈アピールに武田くんが押されてしまったのだろうと思う。それまでは、事あるごとに同期三人で武田くんの車で出かけるという事があったが、二人が付き合いだしてからはわたしと武田くんが二人で出かけるという事はもちろんなくなっていった。


それからしばらくして、中島さんから武田くんとうまくいっていないと相談をされたので武田くんにそれとなく聞いてみたり、二人の仲を取り持つ役割になった。

中島さんの言うことも、武田くんの言うこともどちらも正しい。どちらの肩を持つこともできず困り果ててしまっていた。


 しばらくそんな役回りをこなし、同時に仕事やコミュニケーション能力を高めていった、気が付くと青々とした葉をつけていた木々は葉を落とし、痛いぐらい冷たい風が吹く季節になっていた。この頃、武田くんがわたしと二人で出掛けたいと言い出した。もちろんわたしはその申し出を断った。中島さんとの仲がこじれるのがめんどうだったからだ。


武田くんは曇った顔になり、仕方なく二人の休みが重なる日にご飯を食べに行く事にした。


武田くんの車で、武田くんの地元のファミレスに行く事になった

武田くんがお店の扉を開けて中に手招きしてくれる、店内を見回すと。

平日の夕方なのに、ファミレスの中にはポツポツと客がいた。家族連れや女友達同士で大きな声で話している集団、イチャイチャとしているカップル、一人でワインを嗜んでいる老人。


店員が話しかけてくる、その時店内の客がこちらを見ているような気がして見回すも、誰一人としてこちらのことなど気にかけていなかった。席に案内され腰を落ち着けてとりあえず武田くんとメニューを開いた。メニューの表紙にはあたたかそうな湯気をだしているグラタンやドリアが大きく載っている。メニューにはオムライスやパスタ、ピザや定食、サラダやデザート、ファミレスの定番のメニューがずらりと並んでいた。


何にしようかと考えながら、武田くんの顔をメニュー表の上から覗き見た。

困ったような表情でメニューを見ている、ふいに武田くんと目が合う。

武田くんは恥ずかしそうに照れ笑いをして、わたしから目線をそらし、またメニューに目をやった。


「何にするか決めた?」


わたしは武田くんに聞いてみた


「うーん、まだ決められないなー」


「えー相変わらず優柔不断だよねー武田くんって」


わたしは、おかしくて吹き出してしまった、前にもこんなことがあったな、わたしは少し昔の事を思い出すことにした。二人で映画を見に行くことになった時、まずは何を見るのか何時の映画にするのか、決めるだけで何本も映画を見逃してしまった、あの頃から武田くんはあまり変わっていないようだ。

武田くんは顔を赤らめてちょっとふくれたような顔になっている。それでも怒っていないということはわかっていた。それからしばらくくだらない話をしながらメニューを決める。


わたしは女の子はみんな好きであろう、オムライスを頼むことにした。

悩みに悩み抜いて武田くんが決めたのは男の子らしい、カツ御膳だ。

テーブルの隅に置いてあるボタンを押すと、しばらくして店員がきた。武田くんは自分の分とわたしの分をスマートに注文してくれた。

二人で話す事も、とても久しぶりだったので注文したメニューが届くまで、お互いの近状を話しあった。話に花が咲いた頃、頼んでいたオムライスとカツ御膳が運ばれてきた。おいしそうな匂いが漂ってくる、あたたかそうな湯気もたっている、王道のオムライスという感じだ、ケッチャップライスに半熟のふわふわとした卵が乗っている、更にその上にはデミグラスソースがかかっていて食欲をそそる。武田くんの前に運ばれてきたカツ御膳、どんな感じなのかと見てみた。おいしそうな湯気をだしている白米、お味噌汁に口直しのお漬物そして、メインのとんかつは食べやすいように切られており、上には大根おろしと刻みネギが乗っている、さっぱり食べられそうだ。


 あまりにもわたしが見ているので武田くんが、不思議そうにたずねてきた。


「どうしたの?もしかして食べたいの?」


「ううん、どんなのかなって思ったから見てただけだよ、でもそう言うなら食べてあげてもいいよ?」


わたしはいたずらっぽくTくんに言う、武田くんは笑って


「いいよ、じゃぁ半分こして食べよう?」


そんなつもりはなかったのだが、断る理由が見つからなかった

わたしは微笑みながら答えた。


「うん、いいよ、半分こしよう」


武田くんは少し驚いているように見えたが、微笑んでうなずいてくれた。

お互いのご飯を半分こして食べることが中島さんへの裏切りになるのか、冷静に考えてみたが問題ないだろうと判断した、お互いに食べさせ合うという訳ではない。それにわたしと武田くんが黙っていればいいだけの話だ。

口をつける前に、半分こする事にした。付き合っているわけでもない、嫌いなわけではないが武田くんの食べかけをわたしが食べるのも、わたしの食べかけを武田くんが食べるのも少しおかしな話だと思ったからだ。

まずは、自分で頼んだオムライスを一口食べた、予想通りおいしい味がした、オムライスを食べるといつも思うのだが、どうしてこんなにもほっぺが落ちそうになるのだろう。わたしは、少しにやけて言った。


「んー美味しい、なんでこんなに美味しいんだろうね?」


武田くんは微笑みながら答えてくれた。


「なんでだろうね?すご腕のシェフが作ってるとかかな?」  

       

「えーそうだったら嬉しいけど、多分バイトの人じゃない?」


武田くんは、少し考えて苦笑いしながら、頷いた。

武田くんとわたしは、声を出して笑った。

いつの間にか少し離れた隣の席に座っていたサラリーマンにチラ見されてしまった。

 こんなにも楽しい時間を過ごすのはどれぐらい振りだろうか?

そういえば、仕事に必死で恋人というものの存在を忘れてしまっていた。好きな人すらいないのだ、これは若い女子としてはいかがなものだろうか。

自分の女子力のなさに笑いがこみ上げてくる。武田くんは不思議そうな目でわたしを見ていた、わたしは慌てて話した


「ううん、こんなに楽しかったのはどれぐらい振りかなーって考えてたの、ごめんね?」


「そうなんだ、楽しいって思ってもらえて嬉しいよ、ありがとう」


武田くんとわたしは微笑みあった。

食事もあらかた食べ終わり、のんびりと過ごしている時、わたしからTくんに話を切り出した。


「そういえばさ、最近中島さんとはどうなの?」


「うーん、普通かな?」


「なんていうかさ、わたしが口を出すことでもないんだけど‥‥」


「ん?何かな?なんでも言ってよ」


わたしは勇気を出して聞いてみた


「中島さんにね、最近二人がうまくいってないんだって相談されてて、わたしは二人には仲良くしててほしいんだ、武田くんは本当のところはどうなの?」


武田くんは困ったような表情になった


「うーん、うまくはいってないかな‥‥」


そういうと武田くんはうつむいて黙ってしまった


「ごめん、やっぱりこんなことわたしが聞いていいことじゃないし、気分を悪くさせてたらごめんなさい」


わたしは慌てて武田くんに謝った。すると武田くんは顔をあげてなにかを決意したような表情になった。


「あの、俺さ、本当は君の事が好きなんだ、中島さんと付き合うことになったのは本心じゃなくて押しが強くて断れなくて、何度も別れようって言ってるんだけど、話を聞いてくれないし、泣きそうになられると何も言えなくなっちゃって困ってるんだ。」


少し大きい声で、いつもよりも早口になって武田くんが言った。

わたしはしばらくの間武田くんの言ったことが理解できず、会話が途切れてしまった。何か、何か武田くんに言わないと思うだけで俯いたまま口をモゴモゴさせている事しか出来ない私に武田くんが優しく話しかけてくれた。


「大丈夫?ごめんね、急で驚かせちゃったね」


わたしは嬉しい気持ちでいっぱいだった、でも武田くんの気持ちを素直に受け入れることは出来ない。


「そんなこと急に言わないでよーびっくりするじゃん?大体なんでわたしのことなんか好きになるわけ?別に同期の二人から必ずどっちかを選べって言わてるわけでもないんだし」


わたしは内心ドキドキしていた、そしてひどいことを言ってしまったと後悔もした。


「ごめん、でもずっと言えなくて、言うなら今しかないかなって思って。なんで好きになったかなんて簡単だよ、優しくて面白くてそれに可愛いから、君のこと好きになった、もちろん同期で選ぼうなんて思ってもいないよ、これでわかってもらえたかな?俺の気持ち」


武田くんは優しく微笑みながら、強い口調で話してくれた。


「でも、わたし優しくもないし、面白くも可愛くもないのに。」


わたしは武田くんの顔を見ることが出来ずに目線を下に下げてモゴモゴと話す。


「いいの、俺の中で君が一番可愛いんだから、本当に優しい人ってのは自分の優しさには気が付かないものなんだよ?」


いままでの武田くんとは思えない程、饒舌になっていた。ストレートな気持ちを伝えられたわたしは、ドキドキが止まらず胸がぎゅっと苦しくなるのを感じながら顔を赤らめていた。


「あっ、ごめん。俺ちょっと調子にのりすぎたよね。」


わたしが何も言えないままなので武田くんが慌てているようにみえる。

わたしは、ゆっくりと深呼吸して武田くんに話しかける。


「そんなに謝らないで大丈夫だから、ごめん。わたし本当に驚いちゃって。頭の中が真っ白になっちゃって‥‥でも、武田くんの気持ちすごく嬉しいよ。わたしもきっとNさんが好きになったって言わなかったら武田くんのこと好きになってたと思うから、ありがとう。」


武田くんは嬉しそうな表情になって、わたしの手を優しく握った。わたしは戸惑って武田くんの振り払ってしまった。


「ごめん、でもまだその気持ちには答えられないよ、中島さんとの仲がこじれちゃうのも困るし、裏切ることもしたくないよ」


「そうだよね、わかった気持ちだけわかってくれたらそれでいいよ。中島さんとの関係が解消されたらまた告白してもいい?だって嫌いにはなれそうにないからね」


少ししょんぼりしてしまった武田くんの顔をわたしは見ることが出来なかった。


「わかった、それまでフリーでいたらOKしてあげるね」


武田くんは、顔を上げてパッと明るい笑顔を浮かべた。

それからは、いつもの武田くんに戻った。私の話をうん、うんと相槌を打って聞いてくれる、口数の少ない武田くんに。

人は見た目ではわからないものだなと思った、あんなに草食系男子だと思っていた、武田くんもやる気を出せば肉食系男子になるのだ。

驚きとドキドキで私は少し舞い上がってしない、すっかり遅くなってしまったので、自宅まで武田くんに送ってもらうことになった。武田くんの地元からわたしの地元までは車で1時間弱だが快く送ってくれることになった。

お店を出ようと準備をし始めると、武田くんは私の分までお金を出すと言ってくれた。わたしはそれは悪いよと断ったのだが、こうゆう時は男が払うもんだよと強引にお会計を済ませてしまった。同い年の武田くんは平成生まれなのに昭和

生まれの男性のようなしっかりした面もあるんだなと感心した。

 二人で武田くんの車に乗り込む、長時間ファミレスにいたので車の中はすっかり冷え切っている。いくら暖かい服装をしていると言っても、冷え切った車内はとても寒さを我慢できる状況ではなかった。わたしは車に乗り込むとまだ暖かい風が出るはずもないエアコンの送風口に手をかざす。武田くんの方を向いて、わざといたずらっぽく寒いと文句を言うと、武田くんは笑いながらわたしの冷えた手の上に少し暖かい自分の手を重ねてきた。わたしはドキドキして何も言えなくなってしまった。


「どう?あったかい?」


「う、うん‥‥」


わたしは、こんなにも急に積極的になった武田くんに動揺しっぱなしだった。

どれくらい経ったのだろう、エアコンの送風口から暖かい風が出はじめた。


そろそろ手も温かくなってきたので、武田くんにお礼を言って手を離そうとすると


「あっ、いつまでもごめんね。あったまったならよかったよ」


少し残念そうな表情で武田くんは手を離した。

わたしは、出来るだけ動揺と恥ずかしさを隠そうと精一杯の笑顔で武田くんにありがとうと伝えた。先ほどの残念そうな表情がパッと明るい笑顔になった、

そんなこどもっぽい武田くんを見て、きっと仕事場の同期として武田くんと接していたら見ることのできなかった表情を、この温かな感触を今こうして感じていることを。この瞬間がとても幸せなんだと気が付いた。こんなに表情豊かな武田くんの側にいることが。

そんなことを考えているうちに、もうわたしの家の近くまで来ていた。

考え事をしていて気が付かなかったが、武田くんの車の中で流れている

CDはいつも同期3人でカラオケに行っていた時によく武田くんが歌っていた曲だった、今流行りのグループだ。


「あっ、これっていつもカラオケで歌ってる曲だよね?」


わたしは武田くんに聞いた


「うん、そうだよ。よく覚えてるねーこの歌好きなんだよね」


「今、改めて聴くとすごくいい曲だね」


「いつも、君の事を思って歌ってたんだよ?気付いてた?」


武田くんは運転中なのに、チラッとわたしの方を見て微笑んだ。


「えっ、なんで?気付いてなかったよ」


ちょうどその時、曲のサビの部分が流れ出した。武田くんはCDの音量を少し上げ歌を聴いてとジェスチャーで伝えてきた。

曲に耳を澄ます

コンビニや飲食店などでよく流れている曲で聞き覚えがある、今改めて歌詞をよく聴いて意味を考える、ただのノリのいい若者向けの曲かと思っていたが

恋愛ソングで片思いのもどかしい気持ちや勇気を出して告白するといったストーリー性のある歌詞だった。


「この曲って‥‥もしかして、ずっと好きだって伝えてくれてたの?」


「うん、そうだよ。カラオケに行く度に歌ってるのに全然気が付いてくれないんだもん、すごくモヤモヤしてたんだよ?」


「あっ、ごめん。だってこの歌流行ってるし武田くんが歌ってるからって、わたしのことを想ってくれてるなんて考えもしなかったの」


「鈍感なんだね、そんなところも可愛くてやっぱり好きだよ?」


武田くんは微笑んで、ハンドルを握っていた左手でわたしの右手を優しく包むように手を重ねてきた。わたしは驚いたが武田くんの気持ちが嬉しくて悪い気がせず手を重ねたままにした。


「もうちょっとで家に着いちゃうね、このままどこか遊びに行っちゃおうよ?」


「えーでも、明日も仕事でしょ?武田くんだって朝早いでしょ?無理しないほうがいいよーわたしもう眠いし」


「そうだよねーごめん、今日すごく楽しかったから帰っちゃうのがなんだか寂しいなって思って」


「楽しかったって思ってもらえて嬉しいよ、でも無理はよくないよ?また一緒にどこか出掛けよう?」


「えっ、いいの?」


「うん、もちろん中島さんには内緒だよ?面倒な事になると困るしね?」


Tくんは満面の笑みになってわたしの提案に頷いてくれた。

そんな事を話しているうちに、わたしの家の前に着いた。


「ありがとう、わざわざ遠いところまで送ってくれて助かりました」


「いいんだよ、君のお願いならどんなことでも叶えてあげるよ?」


わたしと武田くんは目を合わせてクスクスと笑いあった。

車から降りて運転席に座っている武田くんに見えるように少し腰を屈めながら手を振った。武田くんもわたしのことを見ながらこどもみたいにいっぱいに手を振り返してくれた。わたしは微笑んで、武田くんの車が見えなくなるまで手を振り続けた。

 そんな甘い出来事があった日からずいぶんと季節は流れて、暑い日差しが照りつける季節になった。武田くんは別の店舗に異動することになってしまった。あの出来事以来、武田くんは中島さんともうまくいっている様子だ。もちろんわたしとも練絡を取ったり何度も二人で出掛けたりもしたけれど。悲しい気持ちがわたしの心を満たしていった。でも、悲しんでいる暇はなかった、なぜなら中島さんが武田くんの異動を知り動揺しわたしに相談をしてきたからだ。

中島さんは今にも泣き出しそうな顔でわたしにアドバイスを求めてきた。


「ねーどうしよう?武田くん他のお店に異動になるんだってー今までみたいに毎日会

えなくなると寂しいし、浮気とかされたらどうしよう?」


一気に話をされて、頭の中がパニックになったが、恋人が他の店に行くという現実がまだ受け入れられないのだろう、わたしはとにかく冷静にアドバイスをすることにした。


「そうなんだってね、寂しくなるよね。でも他のお店に行くことによって武田くんにとってもいい刺激になるかもしれないし、悪いことばっかり考えちゃダメだよ。武田くんが浮気なんてすると思う?わたしは思わないけど不安ならちゃんと武田くんと話しなよ?」


わたしは偉そうなことをいいながら、内心とてもドキドキしていた。

武田くんが浮気をしないんじゃないかとNさんに言ってる自分が武田くんと浮気紛いな行動をとっているからだ。


「そうだよね、悩んでても仕方ないよね、ちゃんと武田くんといろいろ話してみるね!ありがとう!」


中島さんは嬉しそうな安心したような顔でわたしの前からスキップでどこかへかけていってしまった。

やはり自分がしている事は世間一般的には浮気の類に当たるんだと改めて痛感してしまうと中島さんへの申し訳ない気持ちと 武田くんのわたしへの気持ちいろいろな気持ちが混ざり合ってわたしはどちらにも連絡をすることが出来なくなってしまった。

日々、中島さんから送られてくるTくんとの関係についての相談メール、武田くんから届く一緒にどこかに行こうと誘われるメール。正直困り果ててしまい、仕事もろくに手がつけられなくなってしまっていた。

だけど、まだわたしは新人社員の身、仕事とは関係のない事で仕事に支障をきたす事は絶対にあってはならない。仕事を覚えどんどん一人でやらなければいけない業務は増えていく、わたしの部署の先輩たちはほとんどが男性社員でその中に一人混じって仕事をするのは精神的にも肉体的も堪えていた。

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