海の塩

しおり

第1話

 ここは退屈だ。

 人工の海。電子の泡。偽物の潮。調整された水圧も限られた真四角の水槽も、まるっきり標本箱とおんなじだ。真綿の牢獄、緩慢な死刑台ってところか? 死を待つところにしちゃあ、生ぬるすぎるぜ。

 静かな余生なんて知ったこっちゃねえ。戦わせるために造っといて今さら何ほざいてんだ、ええ? ここはステキな老人ホームってか? それとも理想のホスピスか? てめえ、ライオンに花畑与えて自己満足に浸ってるんじゃないだろうな。

 ──おいおい、ビビってんじゃねえよ、お偉いさん。この水槽がこのくらいじゃ割れねえのはてめえらが実験済だろ? 何せ、対艦用兵器このおれを収容しようってんだ。

 他の奴らはどうしてる? 俺が隔離されて…三日か。そろそろ戻されるかな。あいつらは俺とおんなじだからな……人間は人間同士、兵器は兵器同士、せいぜい仲良くやってやるよ。だが、てめえらの辛気くせえツラなんざ見たくもねえ。とっとと失せろ。……




「何ンだよ。新顔。俺になんか聞きてえのか。トロいだけなら引きずり込んで食っちまうぜ」

 診察に来た博士たちに、変わらず悪辣な態度を取っていた海洋生物兵器No.3──トートグは、問題を起こした収容者が一時的に隔離される水槽の向こう側で低く言った。水の層と厚いガラスを通して、その嗄れた声は頭の中心を揺らした。ただひとり、水槽の前に佇んでいた白衣を着た若者は、少し躊躇ってから口を開いた。

「あの……Ms.トートグ」

 刹那、凄まじいガラスの殴打音が響いた。遅れて轟っと水が逆巻く。夥しい泡と水流がガラスを微かに軋ませた。若者が思わずひきつった顔で一歩後ずされば、爆発的な泡の群れの隙間から刃物のような視線に射抜かれた。

「気安く名前を呼ぶだけでも救いようがねえ不躾な野郎だが、その上Ms.だァ? 一周回って見上げた度胸だぜ。骨くらいは残してやるよ」

「も、申し訳ありません」慌てて頭を庇いながら、若者は謝罪した。トートグが本気で暴れればなんの意味もない、その無力な格好に憐れみを覚えたのかどうか、泡混じりのため息をついてトートグは動きを止めた。次第に濁りは消え、水流も穏やかになっていく。カスミソウに埋もれたような細かな泡のなかで、蒼白いかんばせは変わらず険しげに人間を睨んでいた。

「いつでも自分が憎まれていることを忘れるなよ、若造。アダムとイヴが必ずしも神に感謝してるとは限らねえ。

 俺ァ間違いなくこの箱庭一の大悪党だがよ。だからってテメェら博士にんげんだって同じ穴の畜生だ。地獄でテメェのツラを拝む羽目にだけはならねえよう祈ってるぜ」

 そう一息で言いきると、トートグは十字を逆に切り、唇を歪めて笑った。人間より多い尖った歯が、水の青をかさねてぎらりと光る。逆さまになったかんばせが、水のとばりの向こうで皮肉げにしかめられる。言葉につまり、答えない若者の態度に苛立ったのか、尖った爪で厚いガラスを叩いた。

「自分達を正義だと思い上がるなよ。テメェらも、俺がいた研究所で働いてた連中も似たようなもんだ。あいつらは、俺たちを意思がないモノのように扱ってた。いかに暴発させず、目的地まで輸送して任務を達成させるか。それだけしか考えてなかった。あいつらは俺たちを意思のない兵器だと思っていやがった。そして、テメェらは俺たちをボケた退役軍人、ホスピスの末期患者だと思ってやがる。どのみち、どっちも、俺たちがどう思おうとかまやしねえのさ。近いうちに死ぬんだからな」

「そんなことは──」

 思わず、一歩踏み出して反論しかけた若者に、一閃した尾鰭の鋭さが理不尽に言葉を奪う。正当な権利のひとかけらも赦さぬその不条理さが、獣らしく、兵器らしかった。渦を巻いた泡の壁の向こうで、トートグは腕を組む。

「で、何が聞きたくてひとり残ってんだよ。反省の言葉か? それとも戦争の思い出か? 小学生の宿題じゃねぇんだ、とっとと用件を喋れよ」

「いいえ。いいえ──ただ、あなたのことが」

 気になって、とこぼした声は、水滴よりも心細く室内に落ち、消えた。

 長い沈黙があった。若者が恐る恐る、爪先に落としていた視線をあげると、腕を組んでこちらを見つめている、逆さまのトートグと眼があった。

 手元の端末を取り落としそうになる。

 嵐のように激しいでも、鮫のように鋭いでもなく、ただ無感情な眼がそこにあった。深海生物のようなそれに、若者は息をのむ。人魚の標本だ、と思った。飼い殺しにされ、膜をはられた異形の瞳。

 トートグは静かに口を開いた。鑢のような歯がちらりと覗いた。

「俺の何が聞きたい」

「え、えっと──」

 若者は返答に窮した。こんなに素直に反応されるとは思ってもいなかったのだ。それに、実際のところ若者の気持ちはあまりに感覚的で霧のなかにいるようで、具体的にトートグへ質問を投げかけるには漠然としすぎていた。

「戦争の任務のときは、おひとりだったんですか」

 しばらくしてから、若者がやっと口にした疑問に、トートグの薄い瞼が痙攣した。首元の鰓がわずかに動き、なぜそんな質問を、とあきれたような、あるいは人間の考えることはわからない、と愚痴をこぼすような表情をして、肩をすくめた。

「……いや。基本は、複数での哨戒さ。三人一組、群狼ウルフパックを組んで、ざっと三ヶ月」

「三ヶ月……」

「母艦に乗って出港して、目的の海域についたら、艦を離れる。まあ五十日くらいの作戦行動があって、帰投して治療や補給を受ける。言っとくが、この間の食糧調達やら怪我の処置やら危険の回避は自力だからな。ったく、クソみてぇな環境だったぜ」

「それは、海のなかで長期間戦闘状態を保つということですよね? そんなことが……」

「俺たちはかなり高機能だったからな。耐圧深度も、航行速度も、潜水艦レベルだ。まあ、知ってるだろうが」

 若者の手に抱えた電子端末を一瞥し、トートグは顎をあげた。若者は思わず頷く。電子カルテには、かつての戦時中、彼女が造られた研究所での耐久テストの結果なども載っている。

「俺のパックのメンバーは、アルバコアとフラッシャーっていう奴らだった。これは自慢だが、いっとう優秀なパックだったぜ。資料に書いてあんだろ」

 顎で指され、若者ははっと手元の端末に触れた。暗号化されているが、研究者たちには難なく読める兵器たちの過去の資料を呼び出すと、No.3-Tautogの戦果についてのページを開く。膨大な数が記載されたそこには、彼女と同じ所属で戦っていたメンバーの顔写真と名前もあった。Albacore, Flasher....

 二人は、トートグと同じように、十代から二十代の少女のような顔をしていた。

「俺たちは兵器の輸送船なんかをよく狙った。ときどき、俺たちみたいな生身の兵器との直接戦闘もあったが、大抵こっちが爆雷やらデカい武器を背負ってたからな。……」

 くるり、と水中で一回転したトートグの、オーロラ色の鰭が夢のように漂った。その自然の優美さとは裏腹に、記録された内容は驚くほどに凄絶だ。海の獣という呼び名に相応しい、殺戮の記憶。

 通常の海獣が耐えられない水温、耐えられない水圧の深海域が、彼女たちの戦場だった。人間と変わらない体格と、女性的な骨格からは想像もつかない強靭さが、彼女の攻撃性を鎧っている。妖精のドレスのような鰭の輝きは、ヴァルキュリアの甲冑の光なのだ。

 石も藻もなく、他のいかなる海洋生物も存在しない、ただひたすらに青く、暗い水槽こそが、彼女の棲みか。

 トートグは一度天井近くまで水を蹴って舞い上がり、それから重力に従って、頭からゆっくりとおりてきた。毛先は銀色に透けて輝き、瞳は変わらない温度で、水槽の外の若者を観察している。まるで、自分の所業に対する若者の反応を知りたいかのように。

 そのとき、初めて若者は気がついた。

 彼女の眼は無感情なのではない。

 あまりに思いが底深く、永遠のような水の闇に沈みすぎているだけなのだ。

 何人も覗けぬ、深海の心。

 若者は唇を引き結んだ。その眼が一体なにを見てきたのか、なにも知らない人間が、なにも言ってはいけない。ただ、答えてくれてありがとうございました、と頭を下げるだけだ。

 若者の反応は、トートグの逆鱗に触れることはなかったようで、ただ軽蔑に似た無表情を浮かべたまま彼女はゆっくりと鰭を動かした。

「おい、音楽かけろよ」

「え?」戸惑った若者の手元の端末を、トートグは顎で傲岸に指した。「それ。音楽とか聴けねえのか」

「あぁ、聴けますよ」

「ラ・クンパルシータ、かけろ」

 若者は数秒、躊躇したが、トートグの鰭が不穏に蠢いたのを見てとって、慌てて上司に連絡を入れた。

──トートグから、音楽を聴きたいとの要求が

──許可する

 拍子抜けなほどあっさりと許可を出され、若者は面食らった顔をしながら言われた通りの曲名を入力した。少しの間のあと、流れ出したのは、古い音質のタンゴだった。ひび割れたバンドネオンの音色が、微かな空調と泡の音と混ざって響く。

 合格だ、というように、ぐるり、と天井近くまでトートグは旋回した。光を尾鰭が透かし、一瞬だけ翡翠色の光が部屋を照らす。

「音楽はいいもんだ」弦楽器の豊かな旋律の合間に、ぽつりとトートグは呟いた。「人間が造ったもののなかで、唯一評価できる」

 若者は思わずこうべを垂れた。なぜかはわからないが、目の前のこの存在が、人間の造ったものをひとつでも認めたことが、なにか意味のあることのような気がしたのだ。

 曲が終わる。最後の下降スケールが余韻を残して途切れたあと、少しの沈黙が残った。変わらず、空調と泡の音が、白い部屋には響いている。

 若者が口を開こうとした瞬間、「ミロンガ・トリステ」と別の曲名を投げつけられる。若者は口をつぐみ、渋々また端末に入力した。綴りがわからず、二度間違えた。

 やがて流れ出した旋律に、今度は歌がついていた。やはり音質は古く、かすかに擦りきれたようなセピアの音楽だ。だが、その調べはいまだ瑞々しく、聴くものの心を打つ。

y llevamos tu silencio

al sonar de las campanas.

La luna cayó en el agua,

el dolor golpeó mi pecho.

Con cuerdas de cien guitarras

me trencé remordimiento...

 不意に、トートグが声なくこの歌を口ずさんでいることに気づいた。目を閉じ、真珠のような泡を吐く唇て、どこか苦い表情で歌っている。その音は人間には聞こえなかった。だが、泡が音符のようにのぼっている光景ばかりが、若者の目に焼きついた。

 歌声で船乗りを惑わすセイレーンの伝説にあるように、彼女も歌を聞くことができたなら、自分も水の底へ引きずり込まれてしまうのだろうか。……

 名残惜しそうなノイズが二、三音響いたあと、曲が終わった。次の曲を指定しなければ、音楽は続かない。黙って泳いでいるトートグに、若者は視線を向けた。

 しかしトートグは、片目だけをうっすら開けて、低く告げた。

「テメェが選べ」

 は、と震える声が漏れた。怯えたわけでもなかったが、一瞬、理解できなかったのだ。

「私が、ですか」

「他に誰がいるんだよ、木偶の坊も大概にしろ。使えねえ耳なら千切りとってやる」

 かちりと牙を鳴らされ、若者は急いで端末に指を滑らせた。分厚い強化ガラスも大量の水も、トートグが不意に放つ物騒な気配を遮らない。

 薄く発光する画面をスクロールし、アルファベットを目で追う。タンゴのアルバムから再生されていたようで、並ぶ文字はどれも知らない曲名だ。言語もわからない。

 そのとき不意に、指が止まった。目に引っかかった文字列に触れる。

 Por Una Cabeza.

 流れ出した音楽に、トートグが動きを止めた。ロマンチックでもの悲しい、セピアの旋律。抑えられたメロディが徐々に盛り上がり、頂点に到達した瞬間、蝋燭の火がはじけるように美しいヴァイオリンが溢れる。水のなかで静止したトートグが、目を開いて、ガラス越しに若者の方を見た。その瞳は、先程までの無感情のそれではなかった。

「………お前は、この曲が好きか」

「はい。タンゴは詳しくありませんが、昔、寝る前に母が歌ってくれまして」言葉はわかりませんが、と恐る恐る告白すると、トートグは目を閉じ、身体から力を抜いた。ゆっくりと、その人魚の肢体が、泡に包まれながら浮上する。

 目線の高さで、夢のような鰭が幾重にもかさなってひらめいている。無音の、膨大な質量の水に支配された水槽が、別の世界のように見えた。

 そのとき、ガラスの向こうから、若者に手がさしのべられた。

 白い指先が、青い水を透かして揺れている。若者が戸惑い、その指から視線を上へたどらせれば、トートグは目を閉じていた。白い指がわずかに曲げられ、鰭に包まれた脚が、バレリーナのそれのように水を蹴る。くるり、と、海月のように彼女の身体が回った。腕は海蛇のように見えないなにかに寄り添い、支え、鰭はドレスの裾のようにねじれて脚に絡みつく。すべてが、光と泡のなかで、暗い水に閉じ込められた夢のようだった。

 誰かと、踊っているのだ。

 若者は惚けたように、たったひとりの鑑賞者となって、その光景に見いっていた。脳の奥が、ぼんやりと淡く、暗く、美しい幻に浸されていく。

 水の底を照らす花火が消えるように、曲が終わる。見えない相手と踊っていたトートグは、天井に限りなく近いところで、彫像のように天を仰いで静止した。その一瞬の、光を浴びた身体が不意に脱力し、腕や腰がたなびく鰭に隠れた。そのまま、また、暗い水の底へゆっくりと沈んでくる。若者のもとへ、沈んでくる。

 逆さまになったまま、鱗のような光沢の髪をかきあげ、トートグは目を開けた。彼女から目を離せなかった若者の瞳を捉え、血と珊瑚の色をしたその一対が瞬く。

 はたして、トートグは、もう一度若者に手をさしのべる格好をした。白い指が、水の向こうで揺れていた。

「気が変わった。少し、昔話に付き合え。

 ──お前たちが見ていない、海に沈んだ俺たちの罪を、教えてやる」

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