『もしも、あの天色が…』
きおり
1.梅雨
「
目を覚ましたのは、上か下かもわからないような暗闇の中でひとり彷徨っていた私を、そっと誰かが呼んだから。
差し込んだ目映い程の光に徐々に順応して、私が初めに目にしたのは、見覚えのある高い天井。
水色のカーテンに四方を囲まれた白い空間。
辺りを見て回そうとも、思うように
ここはどこだろう、と考えようとするだけで、頭がズキンと刺すように痛んだ。
太い血管を凄まじい勢いで流れゆく血液が、拍動してこめかみの辺りを更に締め付ける。
もう少し休んでいようと諦めて、私は柔らかい枕に頭を預ける。
さっきまで部員の仲間たちとグラウンドを走っていたはずなのに、どうして私はこんな所にいるんだろう。
つい先日梅雨入りしたばかりだというのに、雨もほとんど降らず、じと、とした嫌な暑さが続いていた。
外に出れば、立っているだけでじっとりと肌が汗ばんでくるほど。
夏の大会に向けて頑張ってきたのに、散々な記録ばかり。
「天?」
高めの声に呼ばれ、首だけを巡らせて声の方を見ると、
「大丈夫?」
今にも泣き出しそうに声を震わせる彼女に問われて初めて、私は自分が大丈夫ではない状況にあると気づかされた。
「朝希、ずっといてくれたの?」
「うん、突然倒れたからびっくりしたよ」
「ごめんね」
妙に身体が気怠く金縛りにあった時のように、首から下が意思に反して動かせない。
私はベッドで横になったままで謝罪する。
すると、浮かない表情だった朝希に少しだけ笑みが戻った。
彼女は同じクラスで同じ陸上部。部ではマネージャーをしてくれている。
「
「え?何で奏多が?」
「天ってば愛されてるぅ」
「はぁ?」
私はとっさに声を荒げてしまっていた。
思わず身を起こそうと力を入れると後頭部から首にかけて激痛が走る。
「ッ!」
「天!急に起きちゃダメだよ」
声も出せずに無言で悶えていた私は、口を尖らせた朝希に怒られてしまう。
「大人しくしててよ」
「だって私、愛されてなんかないよ」
軽くたしなめられながらも、すかさず間違いは訂正する。
「奏多の彼女じゃないし」
「じゃぁ何?」
「んーわかんない」
「もぉ照れちゃって!」
くすくすと楽しそうに笑い出す朝希。
黒髪のショートヘアーが、彼女に合わせてさらさらと揺れる。
「みんなは奏多に騙され、」
そう言い掛けた時、ベッドの四方を囲むカーテンの向こうで、ガラっとドアが開く音がする。
そして、
「何が騙されてるって?」
低い男の声がするのとほぼ同時に、水色の薄いカーテンが開かれる。
私は思わず、息を呑んだ。
「あ、奏多先輩!今、先輩の話をしてたとこですよ。天は先輩に愛されてるって話。ね?天」
「そ、そうだっけ?」
突然朝希に話を振られ、私は言葉に詰まる。
「やだなぁ~天ったら。恥ずかしがっちゃって!邪魔だと思うから、私戻るね」
奏多と私をその辺の普通の恋人同士だと完全に思い込んでしまっている朝希は、何とも迷惑な気を回して腰を上げた。
「後はごゆっくり♪」
なんて、こそっと場違いな耳打ちをして保健室を出て行った彼女。
「ちょっと、朝希?」
「朝希ちゃんは良い子だね。俺のこと優しい先輩だと思ってるのか」
「そうそう。まんまと騙されてんの」
「へぇ。…で?朝希ちゃんにホントは何を言うつもりだったわけ?」
ちらりと見上げた奏多の表情は、冷ややか。
「正直に言えば許す」
奏多は先程まで朝希が座っていたイスに掛けて、もともと緩めの制服のネクタイを、更に緩める。
「べつに、何も」
「じゃぁ俺が誰を騙してるって?」
「しっかり聞いてたんじゃん!」
「随分強気な発言だなー天。いいのか、そんなこと言って」
「 何よ!」
「へぇ~」
一体どこからくるのか、根拠のない自信に満ち溢れいつも強気な奏多の表情。
明らかに人を蔑む眼差しなのに、切れ長な瞳や薄く優しげな口元、細い顎、笑った時にちらっと見える白い歯、もう一度見たいと願ってしまったあの日から、私は彼の虜。
少し長めの前髪から覗く鋭い色の瞳。つい見惚れてしまっていて、私は「ありがとう」という言葉を言いそびれた。
「ごめんなさい」
「よろしい」
「やめて」
自然と近づいてきた顔をやんわり避ける。
「何だよ。俺には天しかいないんだからなー」
「棒読みじゃん!」
「うるせーな。せっかく彼女のピンチを救ってやったのに、礼もなしかよ。キスぐらいいいだろ」
「どうせ私じゃなくてもいいにくせに…それに、誰か来たら」
「来ねぇよ」
私が動けないでいることをいいことに、ゆっくりと手が伸びてきて、意外と長い指が髪に触れ輪郭をなぞる様にたどって唇に触れた。
「や、やめ」
「嫌?だったら、仕方ない。やめるけど?」
耳元で囁かれると、体中の細胞が一気に騒ぎ出すように、ざわざわっと鳥肌が立つ。
「どうする?」
「え?」
「天が決めていいよ」
元から細い目を更に鋭くして、奏多は片頬だけでニヤリと笑う。
感情のない、冷めた瞳。
焦らすように、指の動きが止まる。
そこに触れるか触れないかの距離で彼を感じて、つい欲しくなる。
嫌なのに、恥ずかしいのに、心に反して身体が彼を求めている。
我慢などできなくて、呼吸が乱れる。
熱く。
もう、どうなってしまってもいいと思ってしまう。この人に一瞬でも愛されるなら。
例え、何もかも失っても。
「やめないで」
結局私は、彼から離れられない――。
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