EPISODE:11 彼の名は黒き影/They Call Me"BLACK SHADOW"

 ――長い、微睡みの中から瞼を開ける。


 深い海の底のような静寂に満ち、懐かしい空気が漂う場所から意識を引き上げると、いつの間にか、馴染み深い図書室の扉が、目の前にあった。


 年季の入った引き戸を開けると、図書室の奥で天塚翔あまつかつばさが、窓の外を眺めていた。オレンジ色の日射しが、夕暮れ時の図書室に淡く差し込んでいた。コンタクトレンズに変えた最近では珍しく、細淵の眼鏡をかけていた彼女の表情からは、どこか憂い気のある物悲しさを感じられた。


「久しぶりだね。玄崎くん」

「……うん、久しぶり」


 ほんの少し目を合わせただけで、それ以上言葉は交わさずにいた。二人は互いに思い思いの本を手に取り、机の上で活字に目を落としている。気まずい雰囲気や話しづらい雰囲気ではなく、単純に二人で過ごす静寂の空間が、いつものように心地良かった。

 それでも翔の様子が気になる明は、彼女の方向をちらちらと見やる。

「あのさ。玄崎くんってさ、将来の夢とかある?」


 明の目線に気付いた翔がふと、口を開いた。


「……夢?」

「この間、進路調査票、出したでしょ。何て書いたのかなって」

「ああ、あれか――」


 そういや、そんなものもあったなと明は記憶の片隅に追いやられた紙切れを思い出す。


「結局、出さなかったんだ」

「出さなかったって、なにそれ」


 明の意外な答えに驚いたのか、翔の口元からくすくすと、笑みが漏れた。


「先生にはしつこく催促されたんだけど、何回言われても書けなかったんだ。最悪空欄を埋めればいいって言われたけど、適当な事を書いて、自分に嘘をつく事だけは、どうしてもしたくなかった」


 ペンを握るだけで、指先が震える思いだった。将来のことを考えられない自分に嫌気が刺し、先の見えない未来を思い浮かべるだけで、どうしようもない不安に駆られた。理想と現実の狭間で身動きが取れず、前にも先にも、一歩たりとも進めなくなってしまいそうだった。


「何ていうか、怖かったんだ。適当な考えのまま紙に書いてしまったら、未来が本当に、決まってしまいそうで」


 おかしいだろ――と明は自嘲気味に笑った。嘘でもいいから適当に、会社員や公務員とでも書けばいい話にも関わらず、結局未提出のまま無視し続けて、教師に呆れ果てられる生徒は、きっとクラスでも明くらいだろうと思っていた。


「天塚さんは、何て書いたの?」

「私は――」


 明がふと、何気ない問いを返した。いつも勉強熱心で、何事にも真面目に取り組んでいる翔が、どんな将来を思い描いているのか。


 しかし、翔は俯いたままだった。長い睫毛を伏せたままで、彼女は小さく、口を開く。


「私ね、司書さんになりたかったんだ」


 それは全てを諦めたような失望が含まれた、天塚翔らしくない言葉だった。


「大した理由は無いんだけどね。ちっちゃい頃に、絵本を読み聞かせてもらうのが大好きだったから。だから私も、誰かに素敵なお話を伝えられて、楽しんで貰えるような人になりたいなって思ってたの」


 素敵な夢だと、明は感じた。図書室でいつも小説を読んでいた翔のことだ。優しい性格の彼女が子供に物語を読み聞かせている光景は、明にも容易に想像できた。


「――でも、お父さんに反対されちゃって」


 寂しげな口調で、翔は語り続けた。


「病弱で、学校にもまともに通えない癖に何が出来るんだ――って言われちゃって。頭も良くないし、特に愛嬌も無い私が、確かに向いていないのは分かっていたけど」

「……そんな」


 肉親の心無い言葉が、何よりも心を切り裂く刃となることを、明は身に染みて知っていた。精神的にも経済的にも未熟な子供に、抵抗する手段が無いのを知って投げつけられる言葉がもたらす痛みは、いつまでも癒えない傷痕として深く、心の奥底に残り続ける。


「ごめんね。こんなこと。明くんに言うべきじゃなかった」


 慰めの言葉が、明の喉元まで浮かんでくる。けれどそれを言葉にすることは間違いだと明は感じた。上っ面な慰め文句で翔の悲しみを癒そうとすること自体が、夢を語る彼女に対する侮辱になる。そんな気がした。


 だから明は、自分の言葉を少しずつ、紡ぎ続けた。


「……自分に何が出来るかなんて、僕にもまだ、よく分からない」


 答えなんてすぐに出せる訳がない。誰にも、未来なんて見ることはできない。

 だからきっと、先を見据えて歩き続けていくしかないのだと思う。常に自分に出来ることが何か考え続け、一歩一歩を進み続けるしか方法は無い。それこそが、今、この時を生きる最善の道なのだと。


「特別やりたい事も無いし、僕に目立ったとりえがあるわけじゃない。だから、天塚さんに偉そうなことは何ひとつ、言うことは出来ないけれど――」 


 命を懸けて戦い続ける中で、明は何となく、自分なりの答えを見つけていた。


 ──最初は、よく分からなかった。


 どうして僕が戦うことが出来るのか。顔も名前も知らない誰かの為に、傷つくことを厭わず、迫り来る敵に立ち向かう事が出来たのか。


「――誰かに必要とされる人間になろうとする気持ちは、きっと、誰にも邪魔されるべきじゃないと、思う」


 父親だろうと誰であろうと、翔の未来を奪う権利は誰にも無い。

 


「きっと、天塚さんを必要としている人が、いるはずだから」


 ――僕がそうであるように。

 いつか、彼女の笑顔が本当の意味で必要とされる時が来てほしいと、明は願う。


「優しいんだ。玄崎くんは」


 くすりと、翔が笑う。


「そんなんじゃないよ。ただ、思うことを言っただけだ」

「ありがとう。なんだか、ちょっと元気出たかもしれない」


 憂いを帯びていた翔の表情に、彼女らしい明るさが戻ってくる。翔が見せた朗らかな笑顔に合わせて、明も同じように微笑んだ。


 すると、何処からか明を呼ぶ声が、聞こえた気がした。自分にしか聞こえない、切羽詰まった声の主には、間違いなく聞き覚えがあった。


「――ごめん。もう行かないと。僕を呼んでる、人がいるみたいだ」


 助けを求める少女の声が、明の衝動を突き動かす。


「うん。それじゃ、またね」


 手を振る翔をよそにして、明は扉の外に駆けて行った。


「……やっぱり、君はとても、優しい人だから」


 それが、微睡みの狭間にある夢うつつだと気づいていたのか、いないのか。


 玄崎明が自らを呼び求めるものの元へと走っていった後、二人が居た夕暮れの図書室が、硝子細工のような破片と化し壊れていく。


「――そうやって、私を置いて行っちゃうんだね。玄崎くんは」


 天塚翔は真っ暗な空間で、一人寂しげに呟く。

 翔の言葉は、去りゆく明の背中には、最後まで届かなかった。


 EPISODE:11


『They Call Me"BLACK SHADOW"』


 新都心での戦いが終わり、既に一週間が経過した頃。


 涼城飛鳥と古嶋晴臣は鷹宮駅前再開発地区一帯に広がる、旧工業地区跡地へと足を運んでいた。


 シルバーのSUVから降りると、辺りには廃墟と化した無人の工場地区が広がっている。夕暮れ時にも関わらず、周囲は既に薄暗くなっており、廃工場の中に足を踏み入れてしまえば、明かりはほとんど届かない。飛鳥はポケットから小型のフラッシュライトを取り出すと、暗闇の中に光を向ける。


「ねえ、玄崎くんの容態は?」


 工場内部を探索しながら、飛鳥は何気ない口ぶりで、晴臣に問いかけた。


「経過は良好だよ。脇腹をごっそり持っていかれたにも関わらず、たった一週間でほぼ完全に再生している。さすがの回復力だ」


 玄崎明は、以前にスノーホワイトと交戦した後から現在まで昏睡状態に陥っている。目覚める気配は未だ無く、しかし重傷を負った彼の体は人間では考えられないほどの回復速度で再生し、今はほとんど健康体の状態で眠り続けていた。


「なのに、どうして目覚めないわけ?」 

「単純に力の使い過ぎだろう。レイブンと二連続で交戦したうえに、その後に行った局所的な肉体変異――彼はレイブンとして驚異的なまでの成長を遂げている。がゆえに、生身の肉体にかかる負担が大きすぎるんだ。そろそろ目を覚ます頃合いだとは思うけどね」


 幸い、彼が昏睡状態に陥ってからの一週間、新たなレイブンが街中に現れる事は無かった。世間は鴉ヶ丘市新都心に現れた合計三体の怪人についてこぞって話題にし、しかし警察はあくまで「通り魔殺人事件」と発表、頑として未確認生物の存在を世間一般に公認せず、捜査中として沈黙を保ち続けていた。


 ただ、それはあくまで表向きの話。

 偽りの平穏。その足下には、おぞましい光景が広がっている。

 飛鳥と晴臣が廃工場の中へと足を進めていく。

 すると工場の奥に、無残にも損壊された死体が姿を現した。


「――っ」


 二人は反射的に鼻と口を覆い、息を詰まらせた。辺りには鼻が曲がるほどの腐臭が漂い、死体には大量の蛆が湧き、蠅が無数に飛び交っている。


「ここにもか。これで、三件目ね」


 男性の死体だということが、まだ原型を留めている顔の半分から確認できた。体全体の肉という肉が食い千切られ、後に残された白骨に腐りかけの肉が僅かにこびり付いているだけの食べ残しに等しき亡骸が、廃工場の片隅に横たわっていた。もはや見慣れてしまった猟奇殺人の手口。レイブンによる捕食痕であることは、まず間違いなかった。


「これを見てくれ」


 漂う腐臭に顔をしかめながら、晴臣は損壊された死体の近くに落ちていた、小さな破片を手に取った。風化した骨のようにも、砕けた貝殻にも見える白い欠片に、飛鳥と晴臣は見覚えがあった。


「スノーホワイトの、甲殻……やっぱり、奴が」

「ああ。流石に確定だろう。スノーホワイトはレイブンだけじゃなく、人間までもを捕食対象として狙い始めている」


 晴臣は死体の周りに散らばる破片を幾つかつまみ、小さなビニール袋に入れると、慎重な手つきでポーチに収納する。


 この一週間、飛鳥と晴臣はスノーホワイトを追い、調査を続けていた。先日、鴉ヶ丘新都心付近で交戦した時以来、街中を虱潰しに探してもスノーホワイトの姿を捉えることは出来なかった。その代わりに、今までの行動から分析したパターンに沿って捜査を開始するや否や、捕食痕と見られる死体が立て続けに発見された。


「でもどうして。奴は徹底的にレイブンだけを狙って行動してたはず。それがなんで、いきなり人間を襲うように……」

「おそらく体内に潜む寄生体が、宿主から主導権を奪い始めたんだ」


 晴臣は死体を細かに検分しながら、研究者然とした表情で言った。


「スノーホワイトは、実験段階の時点で生物兵器として実用化できる代物じゃなかった。最強のスペックを誇る兵器として調整された反面、人間に寄生させた時の定着率は極度に低い数値を示した。一日持たないか、もって三日……拒絶反応で死亡した被験者が二桁を超えた時、開発計画は別方向にシフトした。ただ人間に寄生させるのではなく、他の生物――昆虫や爬虫類、両生類などの動物の遺伝子を配合し、宿主との適合率を高める方向に向かった。それほどまでにスノーホワイトは、驚異的な侵食力を持つレイブンなんだ」


 カマキリ、蜘蛛、コウモリ、甲虫。今まで玄崎明が倒したレイブンたちは、確かに人間以外の特徴を備えていた。生物兵器としての安定性を高める為に生み出された複合体キメラであるが故のおぞましい姿が、スノーホワイトの実験失敗による産物だと知った飛鳥は、眉間に皺を寄せた。


「始めは宿主側が自我の支配権を有していたが、侵食が進むにあたりレイブン側の意識が宿主を乗っ取った――と考えれば、前は意図的にレイブンのみを狩っていたスノーホワイトが人間を襲い始めたのにも説明がつく。もっとも、スノーホワイトが目撃され始めてから既に二ヶ月以上が経過している。寄生体の侵食にそこまで拮抗している時点で、変身者はきっと、ただものじゃないだろうね」


 おそらく、何らかの医学的処置を受けた人間か、尋常じゃない体力と精神力の持ち主だろうと、晴臣は推測していた。


「タチの悪いことに、他のレイブンも同じだ。研究所から解き放たれてしばらく経つ。宿主への侵食が進んだレイブンは、更に自身を進化させる為、より多くの養分を求め始めているはずだ。人目を忍んで獲物を狩り続けていたレイブンが、この間みたいに大っぴらに表に出てきたのはそのためだ。だから、これからが本番だぞ。すぐに手を打たなければ、より多くの死者が出る」

「だったら、尚更早くスノーホワイトを見つけなくちゃ。実は、奴の正体にちょっと心当たりがあって――」


 飛鳥の言葉が突然、途切れた。彼女が何かに気付いたように顔を上げた途端、表情がみるみる間に硬くなっていく。


「飛鳥ちゃん、いったい――」

「やばい、誰か来る」


 気付くのがあまりに遅すぎたと、飛鳥は顔をしかめた。複数の車が停車する音が外から聞こえた数秒後、工場内に武装した集団が統率の取れた動きで侵入してくる。頭から足の先まで真っ黒な装備に包まれた全身に加え、目元はスモーク張りのゴーグルで隠されており、相手が何者かは推察出来ない。


 少なくとも、まともに言葉が通じる相手でないことは、明らかだった。


 二人は工場の資材に身を隠し、相手の様子を慎重に伺った。レーザーサイトと減音器サプレッサが装着されたクリス・ヴェクターを構えながら、工場内を隈なく精査するように動き回っている様子から見るに、既に自分たちがここに居る事は彼らに明らかなように思えた。


「なに、あいつら!」


 小声で晴臣に囁きかけると同時に、飛鳥はホルスターからベレッタPx4を抜き放つ。反射的にスライドを引き、慣れた手つきで薬室に初弾を送る。


 飛鳥の隣で顔を引きつらせている晴臣には、襲撃者の心当たりがあった。


S.W.E.E.Pスウィープだ……!メトセラが絡んだ事件の証拠隠滅や目撃者の口封じまで何でもやる汚れ仕事専門の私設非正規部隊イリーガルだ。ボクらを狙ってるだろうなと思ってたけど、タイミングが悪すぎる!」

「知ってるなら早く言えっての! このままじゃいずれ見つかる。車まで向かうから、何とか援護して!」

「ああもう、こういうのが嫌だから、研究職に就いたのに!」


 悪態を吐きながら、晴臣はジャケットの内側から掌サイズ大の小型拳銃――グロック26を取り出す。いざという時の為に撃てるよう練習はしてきたが、出来るだけ使う目には遭いたくないと思っていた。しかし生き残る為、背に腹は代えられない。


 飛鳥は目を閉じ、深く息を吸う。

 そして覚悟を決め、一目散に走り出す。


 資材の影から飛鳥が飛び出した。暗所へとレーザーサイトの光線が無数に飛び、遮蔽物へと移動する飛鳥を追ってクリス・ヴェクターによるフルオート射撃が見舞われる。が、それと同時に物陰から晴臣が数発発砲。素人に毛が生えた程度の腕前で流石に命中こそしないものの、ほんの僅かな間、相手の射撃が鳴りを潜める。


 それが飛鳥の狙いだった。

 標的を見失い、辺りを見回すS.W.E.E.P隊員の足下に、何かが転がる軽い音が響く。

 その音で察した隊員が存在に気付き、


「フラッシュバン!」


 大声を上げた時には、既に遅し。

 飛鳥が投擲したスタングレネードが足下で炸裂、耳をつんざく爆音と共に放たれる眩い閃光が、S.W.E.E.P隊員の視覚と聴覚を瞬時に奪い去る。前後不覚に陥った彼らの隙を飛鳥は見逃さず、死角から銃撃を見舞う。


 混乱の中で数人が倒れる。


 銃撃が止んでいるほんの少しの隙を縫い、飛鳥と晴臣は工場の外に逃げ出した。

 案の定、工場の外には別働隊が複数人で待ち構えていた。工業地域の外部に出る入り口は漆黒の装甲車で塞がれ、車で逃げる選択肢は封じられていた。


 銃弾が驟雨の如く降り注ぐ中、無我夢中で走りながら乗ってきたSUVに到着。トランクの中に置いてある樹脂製ケースの蓋を開けると、カスタム仕様のアサルトライフルが顔を出す。コルトM4A1カービン。マグプル製フォアグリップやストックが装着されたそれを手に取ると、チャージングハンドルを引き、薬室に初弾を叩き込む。

覚悟を新たにした飛鳥は、思い切ってボンネットの上から身を乗り出した。


「くそっ、こいつら!」


 ホログラフィックサイトの光点越しにM4A1のセミオート射撃を放つ。5.56mm弾を断続的に撃ち放ち、正確な射撃で応戦するも多勢に無勢。目の前の数人を無力化したと思えば、その倍の人数で撃ちかえして来る無数の相手に、飛鳥たちが乗ってきたSUVは即座に弾痕の穴だらけと化してしまう。


「リロード!」


 既に三十発を撃ち尽くした空の弾倉を足下に落とすと、飛鳥はショートパンツの裏ポケットから弾倉を引き抜き、手慣れた動作で挿入する。マグチェンジの隙をカバーする為に晴臣がグロック34を発砲するも、数発の後にホールドオープン、スライドが後退したままで止まり、射手に弾切れを示す。


「こっちも弾切れだ! ここに留まってちゃまずい!」


 懸命に応戦しながらも、胸の内で万事休す――と歯噛みする飛鳥。何もしないまま手をこまねいているわけにはいかない。立ち向かうか逃げるかの瀬戸際で迷っているうちに、秒読みで選択肢すら奪われていく。


「くそ、せめてこんな時に――」


 こんな時に、彼さえ居れば――と玄崎明の顔が、脳裏に過ぎった。しかし彼は今、長きに渡り昏睡状態に陥っている。名前も知らぬ誰かの為に戦い、結果傷だらけの状態で眠り続けている彼を、再び鞭打って戦わせることなんて出来ない。


「明くん……!」


 それでも、玄崎明の名を呼ばずには居られなかったのが、飛鳥の弱い部分だった。ただでさえ復讐の道具として一方的に明を利用している自分が、都合の良い時に彼の名を呼ぶだなんて、馬鹿げている。せめて彼が休んでいる時くらい、頼らずに戦わなければいけないのに――と飛鳥は再び、銃を持つ手に力を込める。


 しかし。

 どうやら晴臣は、そうでなかったらしい。


「――飛鳥ちゃん」


 呼吸を荒くして、晴臣は飛鳥の目を見ずに呟く。


「悪いけど、ボクは投降させてもらう。こんなのうんざりだ」

「……え?」


 唖然とした顔で、晴臣を見る。一体彼は、何を、言って――


「君たち! 撃つのを、撃つのをやめろ!」


 一歩間違えれば瞬時に蜂の巣にされてしまう銃弾の雨の中、両手を上げて叫びながら、晴臣は車の影から表に出る。反射的に発砲された銃弾が晴臣の横顔を掠めるが、手を上げて投降の意を表する彼を見ると、すぐに銃撃の嵐が止む。


「――ああそうだ。お前たち、ボクを消す前に、知りたいことがあるんじゃないか!?」


 晴臣が上げた右手の中には、白いUSBメモリがあった。


「ここに黒いレイブンと、スノーホワイトの情報が入ってる! メトセラの上層部でさえも知り得ない、最重要機密の研究データだ。こいつを奪えばいいってもんじゃないぞ。勿論これには何重にもセキュリティが掛かってる。ここでボクを殺せば、お前らが葬りたい真実は、全部水の泡だぞ」


「ちょ、ちょっとハル! あんたどういうつもり!」


 晴臣の突然の行動に、飛鳥は目を白黒させて慌てふためいた。


「悪い飛鳥ちゃん。


 鋭い視線で、晴臣は飛鳥に目配せする。眼鏡の奥に潜む目が一瞬、突拍子も無い行動の裏にある真意を伝えている気がした。彼は普段こそ間が抜けているものの、考え無しに動くような人間ではない。元メトセラ製薬の研究員として持てるカードを利用し、駆け引きに出ようとしているのかもしれない――と、飛鳥は晴臣を信じて、ぐっと唇を結んだ。


 S.W.E.E.P隊員たちが通信機で何処かに指示を仰いでいる。すると彼らはクリス・ヴェクターを突きつけながら、手を上げた晴臣に近づいてくる。晴臣の目配せに従い、飛鳥もM4A1を地面に置き、両手を上げて降伏の意を示した。黒ずくめの男たちにタイラップで手首を結ばれながらも、飛鳥は「痛いんだけど」と、強気で悪態を吐き捨てる。


 装甲車の後部に押し込められた二人は、見張りを付けられて何処かへと運ばれていく。既にS.W.E.E.P隊員の数名を射殺した二人だ。タダでは帰してもらえないだろうことは明らかだった。飛鳥は後ろ手に縛られた状態の中、ひとり尋問にかけられている晴臣の言動に、黙って耳を傾けていた。


「話せ、奴は何処にいる」


 流暢な発音だが、どこかイントネーションに違和感を感じる日本語だった。ヘルメットの下にバラクラバを被っているため顔は見えないが、おそらく高給で雇われた外国籍の傭兵だろう男が、晴臣に詰問する。


「焦るなよ。どうせメトセラの施設に連行するつもりなんだろ」


  強い口調で問い詰める男に対し、晴臣は軽薄な態度で受け流す。


「道中は長い。せめてこの時間くらいは、お互いに良い関係を築こうじゃないか」

「無駄口を叩くな。情報を持ってると言うから生かした。何も喋らないなら今すぐ殺してもいい。あの小娘と一緒にだ」

「メトセラは何を狙っている? お前らに命令しているのは誰だ?」

「聞こえなかったか? 無駄口を叩くな。質問するのはこっち側だ」

「……勘違いしているようだけど、情報を持ってるのはボクだ。下っ端のお前たちには、元から何も話す義理はないんだけどな」

「貴様、もしかして初めから――」

「当たり前だろ。だってもう、射殺命令は撤回されてるんだろ? そんな余裕な状態で話すメリットなんかどこにあるんだ。というか知らないよ。彼の居場所なんて。今頃どっかで遊び歩いてるんじゃないか?」


 飛鳥は隣で聞いていて、初めて晴臣の真意に気付く。


 晴臣が情報を持って投降した時点で、S.W.E.E.P部隊に指令を出している何者かは射殺命令を撤回、二人を捕らえるようにと指示を転換させたはずだ。その時点で彼らの生命は、少なくとも道中の間は確保されているという事で間違いない。


 晴臣がした時間稼ぎのおかげで、飛鳥は犬死にせずに済んでいるのだ。

 けれど、あくまで晴臣の行動はその場しのぎに過ぎない。激昂したS.W.E.E.P隊員の男が、晴臣の胸ぐらを勢い良く掴み上げる。


「お前らが知らないはずは無い。あの黒いレイブン――"BLACK SHADOW"を、お前たちは一体、何処に匿っている」

「……ブラック、シャドー?」


 一体、何の話だと聞き返した晴臣の頬を、隊員は思い切り殴りつけた。唇が切れ、口元に赤い血がじわりと滲むが、晴臣は呆けた顔で男を見つめていた。


 すると突然。

 晴臣の口角が、弓なりに上がる。


「っはははははははは……!」


 拘束された上に、痛めつけられた状態。にも関わらず、古嶋晴臣は腹の底から込み上げるおかしさを堪え切れずに、堰を切ったように笑い始めた。


「何がおかしい」

「――なるほど傑作だ。君たちはあのレイブンのことを、そう名付けたのか」


 不自然に哄笑を続ける晴臣に苛立ちを見せた男は、ホルスターからグロック19を取り出し、晴臣に突きつける。銃口が頭に突きつけられているにも関わらず、晴臣は怖気づくどころか、くぐもった笑い声を絶やさなかった。


純白の雪スノーホワイトに対する漆黒の影ブラックシャドー――ああ、星から星へ、生物から生物へと宿主を乗り換え続ける渡り鳥レイブンに相応しい名前じゃないか。だったらボクも、遠慮なく彼をそう呼ばせてもらおう。レイブンを狩るレイブン。そうだ。彼こそがその異名に相応しい」


 流暢に喋り続ける晴臣は、銃口越しに男を挑発的に睨み付ける。隣で黙ってやり取りを聞いてた飛鳥も、普段と違う晴臣の凄みに、いつの間にか気圧されていた。


「――だとしたら、油断が過ぎたな」


 銃を突きつける男の眉が、マスクの下でぴくりと、反応した。


「お前らの失敗は、奴を侮ったことだ。ボクたちは知っている。奴はいつだって、闇の中に、そして影の中に潜んでいる。都会の暗闇に紛れて、奴はボクたちが創り出した狂気の怪物を狩り続けた。この街で悪が蠢き続ける限り、奴は絶対に、その存在を許さない。ああ。奴のことを知りたいなら丁度いい」


 晴臣の視線が、一際鋭く、男を射貫く。



 男の苛立ちが頂点に達した。

 鬱陶しい。殺してやる――と、男が拳銃の引き金に指を掛けたその時だった。


 男たちの頭上で「ごん」と何かがぶつかったような音がした。

 反射的に見上げたが、それ以上は特段何も聞こえない。間もなく男が耳に嵌めていたヘッドセットに、後部車両に乗る仲間から無線通信が届く。


『こちらチャーリーからブラボー。聞こえるか、聞こえてたらすぐ応答しろ!』


  常に冷静沈着な隊員たちにおよそ相応しくない、切羽詰まった声色だった。


『こちらブラボー2。どうした。そんなに焦って。一体何が……」

「上だ、上に、奴が――」


 既に夕暮れ時は終わりを告げていた。人気の無い工業地区には明かりも無く、夜の帳が辺りを闇色に閉ざし切っている中に、ヒトの形をした影が蠢いていた。


「――どうやら、賭けに勝ったのはボクたちのようだ」


 飛鳥や晴臣が乗せられている装甲車の上に、漆黒の怪人が張り付いていた。鴉羽色の甲殻を身に纏いながらも騎士然とした姿の異形は、身長二メートル越えの巨躯を夜闇の中に溶け込ませ、気配を殺して現れた。


 ――彼の名は黒き影。

 闇夜に駆ける漆黒の幻。

 レイブン・ブラックシャドー。


 黒きレイブン=玄崎明は右腕のブレードを展開、運転席上部の装甲板に突き立てると、飴細工のように引き剥がした。幾ら装甲車とは言えど車体はアルミ合金製。レイブンと化した明にかかればハリボテに等しい。怯えきった顔で悲鳴を上げる運転手を金色の瞳で睨み付けると、肩口を掴み上げ車体の外へと無理矢理に放り出す。


 運転手を失った装甲車はコントロールを無くし、急激な蛇行を繰り返して停車する。明が車両後部の天井を破壊すると、その瞬間、内側からフルオートで射撃が見舞われた。飛鳥と晴臣の脇で恐慌状態に陥ったS.W.E.E.P隊員の男が、震える手でクリス・ヴェクターの銃口を向けていたが、明は意にも介さず男の顎を掴み、空中に持ち上げた。


「き、貴様……」


 明は無言で男の目を睨み付けていた。琥珀色の無機質な眼光に射貫かれた状態で、生殺与奪の権利が怪物の側に存在する絶望感は計り知れず。男は頸部を締め付けられたまま、泡を吹いて失神する。明は気を失った男を無造作に放り投げると、車両の後部ドアを無理矢理こじ開けた。


「明くん……!」


 二人の無事を目視で確認すると、明は再び車両の上に飛び上がった。

 飛鳥たちが乗せられた車両の前後を走っていた装甲車がそれぞれ停車すると、無数のフラッシュライトが明の姿を煌々と照らし出す。


 周囲を睥睨し、それぞれに脅威判定を下す。敵の数はおよそ八人。その全てが銃器で武装した状態で明を狙っているのを視認した直後、無数の銃口が火を吹いた。閃光が闇の中に交錯する中で、明=ブラックシャドーは既に車上からは姿を消していた。標的の姿が消えた事に戸惑いを見せるS.W.E.E.P隊員たち。彼らが自らの迂闊さに気付いたのは、黒き幻影が、再び目の前に姿を現してからだった。


 人間の反応速度を遙かに凌駕した動きで敵の懐へと潜り込むと、同士討ちを恐れた隊員達の挙動が僅かに鈍る。接近さえしてしまえば、もはや明の独壇場だった。レミントンACRを持つ男の腹部を殴りつけると、昏倒した男を投げつけて二人目に激突させる。恐慌状態に陥った隊員をラリアットで地面に叩き付け三人目を無力化すると、明の強化された聴覚が、不穏な音を感知する。


 装甲車の銃座に据え付けられたM134ミニガンが、明のほうへ銃口を向けていた。明が殺気を感知した時には既に、予備動作は始まっていた。少しでも反応が遅れていれば、幾らレイブンの甲殻で守られている明とて無事では済まなかったかもしれない。六本の銃身を高速回転させ放たれた7.62mmの弾丸は、秒間百発の超速度ですぐさま駆け出した明の姿を追い、アスファルトの地面を残忍に抉り立てた。


 生身の人間であれば痛みを感じる間も無く挽肉ミンチと化してしまう暴力の波濤が、凄まじき爆音と共に明を追いかける。


 だが、。明は車両の正面を避け、一瞬で側面に移動すると、右手にを握り締めた。


 レイブン・ソード。粒子状に磨り潰されたレイブンの甲殻を柄に収納、電気信号に反応し甲殻細胞が増殖することで鋭利な刃が形成される対レイブン用カウンター・ウェポン。明が柄に据え付けられたトリガースイッチを押し込むと瞬間、漆黒の長刀が顕現する。その刃渡りは二メートルに近く、以前明が使用した時よりも更に長く、鋭い。まさに斬馬刀と呼ぶに相応しい威圧感を持つそれを、明が天高く振り上げると、


 装甲車が、真っ二つに切り裂かれた。

 分割された鉄の塊と化す装甲車。同時にM134ミニガンの銃身も両断され、内部で暴発した弾丸が火花を上げると、引火したガソリンが炎の柱を上げる。


 ――静寂が、工場地帯に再び訪れる。


 S.W.E.E.P隊員の全員が昏倒しているが、生命反応は確かに感じられた。少なくともここに居た隊員達は殺さずに無力化することが出来ていることに、明は安堵する。幾ら飛鳥たちを殺そうとした刺客たちとは言え、もはや容赦の無い飛鳥とは違い、生身の人間を容易に手に掛けられるような覚悟を、明は未だ決められずにいた。

 装甲車の後部ドアを開けると、飛鳥と晴臣が明に顔を向けた。


「ごめん、遅くなった」


 明は変身を解いて、飛鳥に手を伸ばす。飛鳥は「明くん……!」と満面の笑みで手を握るが、次の瞬間、さっと表情が青ざめる。


「――その、目」

「……え?」


 飛鳥が明の顔を震える手で指さした。一体何のことだと明は戸惑い、装甲車のサイドミラーを覗いた。


 鏡に映し出された明の目は、


「間違いなく侵食度が上がっている。君の中の寄生体レイブンが、より君の肉体に定着した印だ。その証拠に、君は以前よりも急激に強くなっているはずだ」


 苦い表情で晴臣が告げた言葉は、紛れも無い真実を示していた。確かに、レイブンに変身して戦い続けるうちに、その力が加速度的に馴染んでいくのを実感していた。

 ゆえに、能力ちからの代償を払わねばならなくなる時が来るのも分かっていた。

 だとすれば。


「じゃあ、いずれ僕も」


 そのうち理性を喪くした怪物として、自分も人間を襲う羽目になってしまうのか。


「それは分からない。君は特別なレイブンだ。寄生されながらも強固に自らの自我を保っている。侵食に拮抗出来る強い何かを持っているのか、あるいは別の理由があるのか……とにかく、まだしばらくは大丈夫だろうが、レイブンとして戦い続ければどうなるのか、ボクが断定できる材料は無い」


 晴臣が眼鏡の位置を直しながら、沈痛な面持ちで目を伏せた。


「……それでも、僕にはまだ、やるべきことがある」


 幾ら人間から逸脱し、自分の体が怪物に成り果てようとも、戦い続ける覚悟を、明は口にする。人間からかけ離れつつある肉体を度外視し、あくまで為すべき使命を果たそうとする明の横顔は、昏睡状態から目覚める以前の彼よりも少し、大人びた物悲しさを湛えているような気がした。


 飛鳥は明に近づき、両手でそっと、彼の手を握った。


「……来てくれてありがとう。正直、君が居なければ、どうなるか分かんなかった」

「僕を、呼んだだろ」

「……え?」

「永い夢を見ていたんだ。幸せな夢だった。このままずっと眠っていても良いと思ったけど、声が聞こえたんだ。君の、声が」


 飛鳥は呆気に取られていた。確かに、明の事を呼んだのは間違いない。けれどそれは窮地に陥った自分の独り言で、明確に彼に来て欲しい呼びかけたわけではなかった。


 あるいは、遙か遠くで眠る明に、飛鳥の気持ちが届いたのか。


「君は僕を助けてくれた。今度は僕が助ける番だって、ずっと思ってたから」


 一方的に利用しているだけの関係――と飛鳥は思っていた。しかし明からしてみれば、彼女は命の恩人だった。何度も危険な場面を助けてくれた飛鳥に、明はいつか借りを返さなければいけないと思っていた。今夜がたまたまその時だった。それだけのこと。

 レイブンとしての能力が明を再び戦いに駆り立てたのか、それとも飛鳥の純粋な気持ちが明を呼び戻したのか。どちらにしても本当の意味で明と気持ちが通じ合えた気がして、飛鳥は今まで後ろめたく思っていた明に対し、正面から向き合えそうだった。

 しかし、微笑み合う二人をよそに、状況は予断を許してはくれなかった。


「玄崎くん、飛鳥ちゃん。悪い知らせだ」


 装甲車の内部にある通信機を操作しながら、晴臣が額に冷や汗を滲ませている。


「スノーホワイトが現れた。場所は鷹宮駅前交差点だ。既に死傷者が複数出ていると警察に通報が入ってる。どうやら警視庁の銃器対策部隊と特殊急襲部隊SATが出動済みらしい。まずいぞ。幾らSATでも暴走状態の奴には太刀打ち出来ない。このままじゃ、前よりもっと多くの犠牲者が出る」


 一週間前、鴉ヶ丘新都心に出現した後、何度も人間を襲い続けたスノーホワイト。もはや暴走した本能を抑えきれなくなった怪物は、更に多くの獲物を求めて、人口密集地に現れたに違いない。


「行かなきゃ。僕が行って、今度こそやっつける」

「待って」


 衝動に突き動かされ、闇雲に走りだそうとした明を、飛鳥が強い口調で呼び止める。


「このままじゃ前の二の舞じゃない。何の策も無いまま、結局無様にやられるのはもう、見てらんないんだから」


 悔しいことに、飛鳥の言うことは事実だった。レイブンとして能力が向上しているとは言え、眠りこけていた一週間の間に戦力差を埋められるほど、スノーホワイトは甘い相手ではない。一度目の戦闘では右腕を飛ばされ、二度目には脇腹を削がれた後に、今度こそ命を奪われない保証は何処にもなかった。


「だからって、何もしないで待ってろって―――」


 しかし、飛鳥は笑っていた。


「作戦がある。今夜こそ、私たちであの天使を堕としてみせる」


 飛鳥は自信ありげな表情で、そう言い切った。

 流行る気持ちを抑え、明は彼女を信じて頷いた。


 ――今度こそ、タダではやられない。

 飛鳥の顔には、既に不敵な表情が浮かび上がっていた。


EPISODE:11 End.

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