EPISODE:5 白亜の襲撃者/Snow white predator

 気がつけば、辺りは炎に包まれていた。


 戦争、あるいは虐殺が行われた後のようだった。建物は全て焼け落ち、もはや悲鳴の一つも無く、ただ炎が天高く燃える音だけが轟々と響いていた。


 大気は高温に熱せられ、息を吸うだけで喉が火傷し、肺が焼ける。人間が燃える焦げ付いた臭いが鼻の奥にこびりつき、満足に呼吸さえも出来なかった。


 焼け落ちた瓦礫の下から人間の手が突き出している残酷な光景を、玄崎明は、煤に汚れた男の視点を通し見ていた。


 瓦礫で出来た道の中、火の粉が舞う中を一歩一歩、男は前だけを見て進んで行く。明確な決意と、それに伴う狂気じみた意思だけが、この果てしない地獄の中で男を突き動かしている原動力だった。その先に、無間にも続く地獄を生みだした破壊の化身が、狂った咆哮を熱風の中に響かせていた。


 レイブン。

 黒き鎧を纏いし、闇の力。


「……■■■」


 歩みを止めた男がただ一言口にすると、怪物は即座に振り返った。

 琥珀色の眼球が、ぎょろりと、こちらを向いた。


「――うわっ!」


 叫び声を上げた途端、教室中の全ての視線がこちらに向いていた。


 当惑して周囲を見回す明を、クラスメイト達が呆気にとられた顔で見つめている。炎に包まれた焼け跡は見なれた教室に変わり、漆黒のレイブンの代わりに数学教師が明を睨み付けている。きょろきょろと首を回す明の様子に、次第にくすくすと笑い声が広がっていく。時計を見ると今は二限目の数学。居眠りするには早すぎる時間だった。しおれるように着席した後にはいつの間にか、耳まで真っ赤に染まっていた。


 授業が再開される。黒板に次々と羅列されていく数式の意味は、居眠りの結果もむなしく、全く頭に入らずじまいだった。


 ――いったい、僕は何を見たんだ?

 訳のわからない夢の意味を考えても、結局、答えは出なかった。


EPISODE:5


『Snow white Predator』


「――それで、居眠りしちゃったんだ?」

「……うん。最近ネットに入り浸りがちで、つい夜更かししちゃって」

「私もよくやる。つい動画とか見すぎちゃって、いつの間にか夜中の三時、とか」


 あれは時間泥棒だよね――天塚翔はけらけらと笑う。


 図書委員の当番が終わり、玄崎明くろさきあきら天塚翔あまつかつばさと二人並んで帰路についていた。八咫第一高等学校から最寄りの鷹宮駅へと続くほんの十五分ほどの通学路。どこか昭和の面影を残す商店街の町並みに、鮮やかな夕暮れが降り注いでいた。


 二人並んでの帰り道は、本当に久し振りだった。


 以前は図書委員の当番が被る度に一緒に帰っていて、正直なところ、明が翔を気になり始めたのもそれがきっかけだった。読書の趣味、選ぶ話題、はにかむ笑顔。少し背の低い彼女の見上げる視線、隣を歩く速度までが、いつの間にか明の心を奪っていて、無意識のうちに、天塚翔を目で追うようになっていた。


 図書委員の当番が被ることはあっても、最近は「ごめん!家の用事があるから」と断られ、一緒に帰ることは少なくなっていた。


 もしかして彼氏でもできたのでは――と思って友人の真山隼人まやまはやとに頼んで探りを入れたが別にそうではなく、単に父子家庭である家が忙しいだけなのだと言う。成績も良く勉強熱心で、おまけに家事もこなしている彼女の大人びた側面に、明は一層惹かれていた。


「でもダメだよ……? 最近玄崎くん、いつも寝てるじゃない? 前はぼうっとしてても居眠りはしなかったのに、なんか調子悪いのかと思って」

「うーん……調子が悪い、というか、単に寝不足、でさ」


 照れ隠しに、頭を掻いた。

 寝不足なのも仕方ないことだと思うのだが、こう彼女に言われては面目ない。


 時間があれば、明は常にレイブン絡みの事件について目を走らせていた。インターネット上の掲示板やSNSの情報は逐一チェックし、少しでも有用な情報があれば腹を空かせた獣のように飛びついた。掲示板には目撃情報を乞うスレッドを立て、興味の無かったSNSのアカウントまで取得した。


 遂にはレイブン絡みの記事を書いたライターにコンタクトを取るため、掲載されていたオカルト雑誌『月刊レムーリア』の出版社へメールまでも送る勢いで、虱潰しにレイブン関連の情報を搔き集めていた。


 そんな事をしていれば、勉強はおろか寝る暇も無く、足りない睡眠時間のつけは授業中に回ってきて――授業中に寝言を言う始末になる。


「つい気になって、ニュースサイトとかブログとか見てると、いつの間にか夜が明けてるというか、そのせいというか」

「それって、例の都市伝説のこと?」


 敢えて言わずに居たことを、天塚翔あまつかつばさは的確に言い当ててくる。女の勘というには大袈裟すぎただろうか。どこか普段から察しの良いところがある彼女に隠し事はできないと諦めて、明はこくりと首を縦に振った。


「……ごめん。天塚さんには良い気分じゃない、話だよね」

「あ、ううん……気にしないで。私はもう、大丈夫だから」


 長い睫毛を憂いげに伏せて、翔は俯きげに呟いた。ばつが悪くなった明も、同じように顔を背けてしまう。


 天塚翔の友人はレイブンに殺されている。あの廃工場で天井に吊るされていた女子生徒の蒼ざめた表情は、今も明の脳裏に焼き付いて離れない。翔は今でこそ気丈に振る舞っているものの、大切な友人を失った痛みがそう簡単に癒える訳もなく、隠し切れない哀しみが、翔の振る舞いのそこかしこに見え隠れしていた。


「やっと少し、落ち着いたところだけど、やっぱり不安……なんだ。まだ事件は解決してないし――それに、ほら、また変な噂が、話題だから」

「変な噂?」


 ぎくり、と心臓が高鳴る。天塚翔の口から出るにはおよそ相応しくないワードに、思わず息が詰まった。


「最近、話題じゃない? 怪物と戦う黒い怪物の姿が目撃されているっていう話。この近所でも目撃例が出てるみたいだから……ちょっと気になって」


 レイブンハンター。

 それは夜な夜な怪物を殺して回る漆黒の狩人に名付けられた呼称。レイブンを狩る新たなレイブンの出現を、恐れる者もいればまた崇めるものもいた。正義か悪か、あるいはその両方か。インターネットや社会の裏側で密やかに議論されるうち、鴉羽色の怪物は、新たなる都市伝説の影として闇の中に生まれ落ちた。


 しかし、自分自身が都市伝説として噂されているのは、正直、変な気分だった。

「……それが、どうかしたの?」


 明は翔から目を逸らしながら問う。


「関係ないと、思ってたから」


 夕暮れ時の日射しが、翔の横顔に影を差す。


「怪物のウワサとか、都市伝説とか、ぜんぜん興味無かったから。けど、実際に友達が死んじゃってから少しずつ、そういう噂話が、もしかしたら本当なのかもしれないって思い始めて。無関心だった自分が、いつの間にか、許せなくなって」


 こんな話、玄崎くんの前でするものじゃないよね。と、翔はつい表に出てしまった感情を隠すように、作り笑いを浮かべる。


「天塚さんの……せいじゃないよ」

「ねえ、玄崎くん」


 翔は不安げな視線で、明を見上げた。


「もし本当にレイブンが現れたとしたら、玄崎くんは、どうする?」

「……どうするって、僕は」


 現実にレイブンがいたらどうするかなんて、自分が一番良く知っている。都市伝説の怪物が、実は自分のクラスメイトだと知れば、果たして天塚さんはどう思うだろうか。捉えどころのない複雑な感情が胸の内で渦巻き、淀みはじめる。


「なんて言うか、その……よく分かんないや。この街に怪物がいるなんて、僕も未だに、信じられないし」


 うまく言葉にすることが出来ず、曖昧な物言いで濁した。


「じゃあ、別の質問。もし、レイブンに私が襲われたとしたら」


 言い淀む明に対し、先を歩く翔が、どこかこれ見よがしに振り返る。


「――玄崎くんは私のこと、守ってくれる?」

「……えっ?」


 不意の質問に虚を突かれた明は、呆気に取られて足を止めた。


「ごめんね、変なこと言って。それじゃ、私こっちだから」


 翔は「ばいばい」と手を振り、明を置いて駆け出した。


 駅前の交差点で、明は呆然と、青信号にも関わらず立ち尽くしていた。


 笑顔で手を振る翔の表情には、やはりどこか、以前とは違う影が差していた。友人を亡くしたばかりにも関わらず、気丈に明るく振る舞う彼女に対し、気の利いた言葉のひとつもかけてやれなかった自分に、言いようのないもどかしさを覚えた。


 天塚翔の後ろ姿が人混みに消えた。明は再び、前を向いて歩き出した。


 ――彼女の笑顔に、嘘を付かせたくないと思った。


 全ての発端は、の存在にある。この街を内側から蝕む悪しき怪物、レイブンの存在が、天塚翔あまつかつばさを笑えなくしている理由ならば、僕はそれを殺さなくちゃならない。


 なぜなら、僕は狩人レイブンだ。自分自身の体に染みついた呪われた力、レイブンとして得た力で奴らを全員狩るまでは、おちおち眠っている暇なんて無い。怪物を全て狩り殺すこと、そして天塚翔の笑顔を守ること。それこそが僕という人間に与えられた、生きる上での存在意義なのだから。


 そんなのは最初から、分かりきっていたことだった。

 

                 

                  *


 午後十一時半、鴉ヶ丘市中央区新都心。


 高層ビルの屋上に立つ玄崎明は、霧雨が降る夜の街を俯瞰していた。

 初めてレイブンに変身してから二週間で、四体のレイブンを狩った。昆虫や甲殻類など、生物的な意匠を含んだ怪人との戦いは、いずれも簡単なものでは無かった。最初に戦ったカマキリ型のレイブンがコンクリートすらも易々と裂く鎌を有していたように、他のレイブンも同様、生物固有の特性を顕出化させた能力を持っていた。ゆえに正面から戦えば、再び血を見る戦いを強いられるのは解っていた。


 だから、


 要領を掴めば、位置を特定するのは簡単だった。目を閉じる。瞼の内側に広がる暗い海面に、一滴の雫を垂らすイメージ。水面に広がる波紋が何かにぶつかり跳ね返った場所が、即ちレイブンの大まかな居場所だった。あとは本能が全てを教えてくれる。特定した場所に近づくにつれて、鼓動が少しずつ高鳴っていく。鼓動が絶頂に達したその瞬間、レイブンが、すぐ近くにいる。


 全自動探知機とでも言えば簡単だろうか。自分が探知能力に特化しているレイブンなのか、それともレイブンは全て探知能力を有しているのか。それはまだ解らない。けれど、相手が自分の位置を把握していない状態で、こちらが相手の位置を分かっているという優位な状況で、選択肢はただの一つ。


 


 眼下に怪物を目視した。両手と脇腹の間に翼膜を持ち、褐色の甲殻を身に纏った様はコウモリの姿と酷似している。コウモリ型レイブンは仕留めた獲物を大事に抱え込み、首筋を咥え込む形で吸血していた。


 路地裏に面した雑居ビルの非常階段は、コウモリ型レイブンの営巣地と化していた。踊り場には白骨化した死体が散乱している。街の人間を攫い、餌としていたのだろう――養分を吸い尽くされた女性が怪物の手の中で徐々に水分を失い、乾ききったミイラと化していく。


 ――また、間に合わなかった。


 明は両手の拳を強く握った。爪痕が赤く、掌に滲んだ。明がレイブンと化してから二週間。助けられたヒトもいれば、そうでないヒトもいる。全てを助ける事は出来ないと分かっていても、それでも自分が巧くやれていれば、一秒でも早く駆けつけていられればと考えずにはいられなかった。


 後悔と怒りを糧にして、闘争本能が奮い立つ。

 決意を胸に、一歩踏み出したその直後。


「――行くぞ」


 明は生身のまま屋上から飛び降りた。


 闇夜の狭間に誘われし眼下への墜落。逆さまの全身が都市の虚空に解き放たれ、重力に体を委ねた自由落下のその最中。


装殻レイブン


 僅かに呟くと、明の全身を漆黒の甲殻が覆い尽くす。着地する目前に右腕の甲殻を延伸させ長大な刃を展開、落下の勢いを殺さぬまま、


 ――装甲の隙間を狙い、一寸の狂い無く突き刺した。


 コウモリ型レイブンの体をクッション代わりに着地の衝撃を軽減する。突如上空から現れた襲撃者に一切対処できず、頸椎部を貫かれたレイブンが甲高く絶叫する。


 営巣地化した非常階段が落下の衝撃で破壊され、アスファルトの路地裏に瓦礫ごと落ちる。垂直落下してきた明=黒きレイブンに抑え込まれ、四つん這いにさせられた状態で、うなじに突き立てられた漆黒の刃にコウモリ型レイブンは為す術もなく足掻き狂う。


 自慢の滑空能力も地べたに押さえつけられては形無しだった。苦痛にもがき続けるレイブンを明は硬質化した左手で殴り付ける。後頭部を狙い何度も、何度も、何度も、徹底的に、相手が動きを止めるまで。


 標的が特性を発揮する前に確実に仕留める――これがレイブン狩りの鉄則だと、これまでの戦いで明は理解していた。


「ハァ、ハァ、ハァ」


 完全に標的の動きが止まった時には、既にコウモリ型レイブンの頭部は原型を留めておらず、ひび割れた頭蓋から灰白色の中身が覗いていた。


 戦いは終わった――拳を下ろし、全身で息をする明。今回こそは無傷で敵を仕留められたことに安堵し、ずるりと、鮮血に濡れた刃を引き抜いた。右腕のブレードを収納、立ち上がって変身を解除しようとした。


 その時。


  使姿


 磨き上げられた大理石じみた白亜の甲殻、人型の彫刻を思わせるシルエットを覆う一対の翼。生物の化石を連想させる頭殻部から覗く琥珀色の瞳――白きレイブンの眼光が、明=黒きレイブンを一直線に射抜く。


「お前、は」


 ――あの時の、レイブン。


 クモ型のレイブンに致命傷を負わされ死に体だった明の前に現れ、圧倒的な強さを見せつけた、白き姿のレイブン。天使の如き美しい姿は相も変わらず暗闇の中で眩く輝き、圧倒的な存在を霧雨の中に際立てていた。


 ずっと、こいつを探していた。


 明の運命が変わったあの日。この白きレイブンは怪物の魔の手から自分の命を助けてくれた。実際の真意はどうあれ、奴が居なければ自分はとっくに死んでいた。都市伝説の真相を知ることも無く、レイブンになることも無く、誰も助ける事が出来ずに、ただ蜘蛛男の餌となっていたに違いない。


 明と同じく、白き天使もまたレイブンを狩るレイブンとして戦っている。蜘蛛型を殺した時と同じく蝙蝠型レイブンを追って、恐らくここまで来たのだろう。


 怪物の犠牲になる人々を助けたいと言う思いの裏腹、もう一度白き天使の姿を確かめたいと思っていた。夜な夜なレイブンを狩る内に一層思いは強まっていた。そして、正体が明と同じ人間ならば、自分を助けた本当の理由を聞きたかった。


 全ての真実を知る為に、白きレイブンを探し求めていたのだから。


「僕、は」


 敵じゃない。


 そう、言おうとした途端、目の前から白きレイブンが掻き消えた。


 僅かにまばたいた刹那の間。


 明の背中に嫌な予感が怖気立って、反射的に両手を上げた。


 目にも止まらぬ速度で眼前に接近した白きレイブンが、突き出した右手で弾丸の如き一撃を加えた。


 「――ッ!?」


 両手で防御したにも関わらず、殺しきれなかった衝撃が、明を吹き飛ばした。


「く、そ……!」


 アスファルトの地面に叩き付けられた激痛に耐え、受け身を取って立ち上がる。


 白きレイブンが、悠然として立っていた。


 両手の甲殻がひび割れていた。分厚い刃も弾き返す強固な甲殻が、ただの一撃で破壊されかけるとは——今までのレイブンとは全く違う規格外の強さに、明は兜の内側で戦慄の表情を隠せなかった。


 明の脳裏に恐怖の影がよぎる。レイブンに変身してからはじめて感じた真なる恐れに、気が付けば右腕の刃を再び展開していた。


 呼吸が荒くなる。心臓の鼓動が速度を上げて行く。


 思えば当たり前だ。今の自分は人間じゃない。。守られるべき存在じゃなく、狩られる存在と認識されてる。


 

 再び迫り来る白亜の拳。明確な殺意が凶器と化しこちらを貫こうと接近するのに対し、速度を合わせ右腕のブレードで迎え撃つ。


 しかし。


 高速の斬撃は、標的に辿り着く寸前で阻止された。


「……こい、つ!」


 ブレードの分厚い刃を、白きレイブンの左手が掴んでいた。いくら抗っても刃は僅かとて微動だにせず、五本指から放たれる恐るべき力が、雨露に濡れた漆黒のブレードを、空中で制止させていた。


 白きレイブンが、琥珀色の瞳で睨み付ける。暗闇から刺すような眼光に明が僅かな怯えを見せた途端、ブレードが真っ二つにへし折られた。甲殻で形作られた刃が硝子細工の如く簡単に砕かれる様に、明は思わず目を見開いた。


 瞬間、背筋を死の予感が走り抜ける。


 反射的なバックステップで距離を取ったが既に遅かった。白きレイブンは右翼を延長させ、新たに刃を形成しようとした明の右腕を、


 容赦なく、切り飛ばした。


「――あ」


 根元から綺麗に断たれた右腕が空中に弧を描き、どさりと、冗談のような音を立てて地に落ちた。


 片腕を無くした明はバランス感覚を失い、呆然として片膝をついた。びゅうびゅうと吹き出す鮮血がその場に赤黒い水溜まりを作る。脳内麻薬が分泌されているのか痛みは殆ど感じない。それ以前に、頭の中をただひとつの感情が支配していた。


 

 


「う、わ」


 獲物をゆっくりと追い詰めるか如く、右腕を切り落とされた明に歩み寄る白きレイブン。尻餅をつきながら、無様にも後ずさる明。血溜まりを踏むひたひたとした音が処刑宣告に思えた時、恐怖が絶頂に達し、瞼を強く閉じた。


 ――が。

 白きレイブンは、明の前でぴたりと、動きを止めた。


「……え?」


 白きレイブンはその場で足を止め、苦悶の声を上げ始めた。酷い頭痛に苦しむ人のように、震えるほどの握力で頭を抱え、周囲の壁に自ら頭を打ち付け始めた。錯乱した薬物中毒者のように暴れ続け、明のことなどまるで目をくれず、耐えがたき苦痛を紛らわすかのように、周辺のものをひたすらに破壊し続けた。


 そして、都会の闇に響き渡る絶叫を上げた。白きレイブンは倒れた明を一瞥すると、背中の双翼を勢いよく展開し、闇夜へと飛び去っていった。


「逃げ、た?」


 両翼を羽ばたかせた次の瞬間には、白きレイブンは遥か彼方に消え去っていた。

 一体、なにが起きたのか。張り詰めた緊張感が解けた瞬間、明の体から甲殻がぼろぼろと崩れ落ち、ヒトの姿へと戻っていく。


 右腕を失った肩口を押さえながら、雨に濡れた路地裏をただひたすらに歩き続けた。体のバランス感覚を失いながら、あちこちに体をぶつけているうちに出来た擦り傷や切り傷がじくじくと痛みを放つ。もはや敵は消え去ったはずなのに、明は生身の体で、背後に迫り来る恐怖に怯えていた。


 次第に意識が朦朧としていく。レイブンとしての超回復能力か、黒い甲殻が自動的に傷口を覆ってくれたおかげで失血自体は収まりかけているが、一度失った体力は簡単には元に戻らず、一歩進めば進む程に、意識の揺らぎが増していく。


 視界に霞がかかる。人の助けを乞うにも救急車を呼ぶにも、取り留めのない思考能力ではそれすらも叶わなかった。ついには立っている事すらままならず、明はその場に崩れ落ちるかのように倒れ伏した。


 路地裏の薄汚れたアスファルトの上。いつの間にか強くなった雨が、倒れた明を冷たく、嘲笑うかのように打ちのめした。水溜まりに滲む血が、地面を紅色に染めていく。薄れゆく意識の中、耳元に迫る足音が聞こえた。


「なるほど、きみが例の――ね」


 絶え間なく振り続ける雨音の狭間。

 最後に聞こえた女性の声に反応することも出来ず、明は意識を喪失した。


EPISODE:5 End.

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