部屋で焚火をしない

韮崎旭

部屋で焚火をしない

 その扉を開けて(引き戸ではなかった、この国にはそのような形式の戸が多いと聞いていたのに。もしこれがグローバル人材育成とやらの一環であるのなら、とんだお門違いもあったものだ。)中に入るとまず目に入ったのが、「部屋で焚火をしない!」と大書された張り紙であった。誰が部屋で焚火などするものか、燃やすものなどあるのか、あるいは焚書、あるいは恋文、あるいは恋文で茶を沸かす、あるいは小人たちの宴会……。暖炉に引き裂いた手紙を投げ込みたいのだがあいにくと暖炉がないので、「部屋で焚火をする」しかない状況?

 小人たちはえてして友好的とはいいがたい。酔った時にしか現れないので幻視の類化と思い込んでいると、高熱に見舞われたときに再開することになるため注意が必要だ。荒川、という地名が登場する悪夢に見舞われたのが、この時期の機構にあてられてのことだったのか、または発熱に由来する病的な症状なのか、今となっては知る由もない。わたしが医師に自分の症状を診てもらうのは、自分自身では鑑別診断が不可能だからであり、どこまでが病で、どこからが正常な病的反応なのかを判断できない為である。それは体温として異常なのか、それは「少し具合が悪いが生活は可能」の一線を越えているのか、部屋で焚火をするのはいつからの習慣なのか、焼け落ちた屋根は戻らないし、過ぎ去った夏は間違いなくねつ造された美しい記憶なのか。

 夏は不愉快な季節である、と「部屋で焚火をしない」の代わりに大書してある張り紙を想像するにあたって、この部屋の主が過去に、部屋で焚火をしたかどうか考えてみたい。多分、夏が引き連れてくる感傷に堪えがたくなったその人物は、過剰なロマンチシズムを見ることが我慢できなくなって、蜻蛉や風鈴の音、ろくに役に立たない扇風機、それから熱でおいしさが褪せた、古い水ようかんなどとともに、それを火にくべようと考えたのではないか。夏は可燃物。冬も可燃物。春だけが不燃ごみで、秋は危険ごみ、とは山原市役所のごみ収集に関する条例第一条3項に書かれている分類に関する規則であり、違反した場合に特に罰則はないが、正しく分別されないごみはもちろん、収集されないことも考えられる。寄せられた過剰な期待が辺りに蔓延して、神経毒も顔負けの有害を発揮し始める。そうなる前に、可燃ごみに袋に詰め込んで、所定の収集場所へと持ち出す。

 いずれにせよアンドリューの叔父は彼の部屋で平気でバーベキューなどしていたし、その内容は彼の菜食主義に鑑みてアスパラガスとかだったらしい。ハロルドはいつも、不安げな様子で独り言を言いながら小刻みに足や指で床や机をたたいていたので、否が応でも周囲に彼が苛立っている、それも常に、という印象を与えていた。実際のところはわからない。周囲の人間というのが、猿にも劣る知性と言語的理解不可能性を引っ提げて人間の大脳新皮質の機能を破壊しに訪れたテロリスト集団であったためであり、彼が苛立つのも無理はない。彼は最後の砦であり、誰も彼に、西部戦線とぃつたあだ名をつけようなどとは考えなかった。彼の惨めさはなけなしの反抗で抵抗であったし、そこには劣勢に立たされながらも戦うことやめず、最後にはサイゴンを陥落させたベトナム人民軍の姿を重ねることもできる。というか、ハロルドの周辺は故意に白痴的な騒々しさで充たされていたように思われてならない。全く不必要な饒舌と活気があった。音量にしたら、空港や魚市場のセリもびっくりの。

 だから彼が部屋で焚火をしたくなっても無理はないのだが、彼は悲しいほど品行方正だったから、部屋で焚火をするような意味のない野蛮な行為に踏み入ることはなかった。多分、その彼の正しさのようなものこそが、晩年の彼を狂気に陥れたのではないかと思われてならない。彼は余りに正常であり、周辺の環境の異常な騒々しさは年々倍加していった。景観を無視した乱開発、道路の構造が住民生活をまるで無視している。四六時中行われる駅の改装工事は、設備の寿命に追いつかない人口の急激な増加と都市への集中を物語っていた。今年から、複々線だってよ。おかげで小田急の下北沢駅の南口がどこか違う場所に以前と比べてなっていたせいでしばらく辺りをうろつく羽目に。これが新宿や渋谷ではなくて本当に良かったと思う。景観の区別が新宿は特につかない。宴会のできそうな居酒屋の看板がやたら目についた記憶があるが、記憶があるだけで、別にそう多いわけではないのかもしれないが、でも多分、信じがたいほどのド田舎よりは多いだろうし、看板自体がド田舎とあまり縁がない。というか、それこそ、民宿の部屋に張られた張り紙に、「部屋で焚火をしない」とでも、大書されているだけであろうし、実際、そんなことを大書しなくてはならないのは、火炎瓶を爆竹か何かのように扱う信じがたい人間どもが残存していて、その人間たちが、このような人間の希薄な土地にしばしば現れるからなのかもしれない。

 誰だって、部屋に、「部屋で焚火をしない」などと大書した張り紙を張りたいとは思わないと思う。そうだろう? 

 それはおそらく部屋の品位を下げるような行為だ。しかしながら、部屋で焚火をするよう納屋からが現に存在する以上は、「部屋で焚火をしない」と、大書するしかない。条例で罰せられる旨も、仮にそれが架空の条例であろうと、書き添えなくてはならない。そうしないと、部屋がスターリングラードの戦いような惨状に見舞われる。それらしさを追加するために、何条何項、まで書き添えないといけない。

 だからこんなところに来たくはなかったんだ、と私は胸中言わなくてはならなかった。

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