「先生」と呼ばれるということ

村木 諸洋

「先生」と呼ばれるということ

 わたしは、一時期「先生」と呼ばれる仕事をしていたことがある。勿論、わたしにも先生と呼んで慕っていた人間が幾人もいたわけであり、(ただ、心から先生と呼べる人物は、たった一人だけしかいない。その話はいづれの機会にしようと思う)今度は、自分がそう呼ばれる立場にいることは、この上ない快楽であったことは疑いようがない。ただ、それを辞めるきっかけとなったのは、その、「先生」と呼び、慕われることの重さを感じたからである。わたしは、よくできた人間ではない。欠陥だらけなのである。先生と呼ばれることに、最初は気分が良かったものの、次第にそれが枷となり、それはわたし自身を追い詰め、暫く一人で居たいと思わせるまでとなった。それはまるで、相手の弱みを見つけては、そこに付け込んでくる、輩のようなものであった。人は、考えすぎであろうという。が、わたしにはそれを否定することはできない。考えすぎてしまうのである。そんなことは、自分が一番わかっている。ただ、考えすぎてしまった結果、「先生」として、続けていくことが困難であるという判断を下したのである。わたしは、もうかなり限界に近かった。軽い鬱のような状態でもあった。人に会うのが怖かったのだ。何をしようにも、無気力がわたしを襲い、掴み、離さなかった。姿の見えないものと対峙することはたいそう恐ろしく、それが敵なのか味方なのかさえもはっきりとしない。ただわたしは見えない何かと対話することもなく、囚われていったのである。

 ただ、もう一つ理由を挙げるとするならば、それは現代社会に於ける、「先生」というものの在り方にある。当然、「先生」と呼ばれる立場があるなら、その教えを享受する「生徒」という立場もあるはずである。「先生」と呼ばれる人物は、その「生徒」と呼ばれる人物と対話を図り、教え導くものであり、また、「生徒」は「先生」に対し、敬意の心を持って、真摯にその対話に向き合い、ときに納得し、ときに反発しながら理解を深め、教養を身につけていくものであるというのが、わたしの考えるところの「先生」と「生徒」という存在の意味するところである。しかし、現代社会の在り方から見ると、どうやらその考え方は根底には微かに流れてはいるものの、些か古いものであるようなのだ。そこには、もはやサービス業としての「先生」という側面がはっきりと顕れてしまっているのである。「先生」というものはお慕い申し上げるところの対象であるというのが、わたしの元にある考えである。わたしも、わたしの「先生」の面前では、(喩え、それが表面上であったとしても)そうすることを心がけてきた。しかし、現状は、「生徒」に対して敬意を表し、媚び諂い、彼らの意向に従属するという図式が成り立ってしまっている。そのような関係にある中で、わたしには到底、「生徒」が「先生」の教えを乞うなどということはできぬことのように感じているのだ。わたしが、古い頑固親父のような、糾弾されるべき考えに固執している、時代遅れのひねくれ者であることは重々承知である。しかし、わたしの理想とするところの「先生」というものに、微塵たりとも近づけそうになかったのである。そう気づいてしまったからというもの、もうどうしようもない程の無の境地に陥り、そこで足掻く力も失い、自らの心が蝕まれていくのを、待つしかなかったのである。

 このようにわたしは、無責任も甚だしい、社会の屑である。自らの理想を追うあまり、理想と現実の狭間に堕ちていき、這い上がることもできず、精神を蝕まれ、ただの木偶の坊へと化させたのである。「先生」と呼ばれることへの責任の重さや、慕われることへの一種の恐怖、そして、自らの思うところの「先生」というものの矛盾を感じながら「先生」であり続けることは、たいそう辛いものであった。大衆にとっては、さぞどうでもいいことに悩み、もがき、苦しんでいる、謂わば暇人のように感じることだろう。しかし、世の中にはこうした些細なことにでも本気で悩む人間がいるのも、また事実である。わたしには、「先生」と呼ばれるには、まだ若すぎたのだ。青二才の若造が、一時「先生」と呼ばれる快楽に溺れ、浮かれ、調子に乗ってしまったことへの、与えられた当然の罰である。この蝕まれた私の精神が、蝕まれる前の状態へと複製されていくことは決してないであろう。これは、わたしがこれから一生負っていく、贖罪のようなものなのである。ただ、一つばかりこの仕事を通して考えたことがある。わたしがこれまで「先生」と呼んできた方たちも、おそらく、わたしの様な、何か大きな悩みを抱えていたことであろう。それをひた隠し、われわれの面前で「先生」であり続けていらっしゃったのだと思うと、もはや、敬服に値するものがある。いや、それとも、わたしのような悩みを持つことなく、快楽に溺れたまま、のほほんと「先生」と名乗り、他を従えていたのであろうか。それもまた、強い精神の持ち主であり、敬服に値するところである。

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