Ⅰ—冬哉

 ずっと、ただ、メモ帳の文字を見つめて固まっていた。


『私が、やりました』


 その言葉は理解できても、言っていることがわからない。


 やった、って何を。

 いたずら、とか、犯罪、とか。違う。仮にそうだとしても、僕にそれを打ち明ける意味がわからない。

 それに、ごめんなさい、って、そんなことを言われる覚えは、僕には――


 遅れて。

 ステージ上で、瑞希が崩れ落ちた瞬間の映像が、急に頭の中で蘇ってくる。


 ——まさか。


 本当に、そうだと言うのか。


 つい、喉に手が伸びる。漏れ出した細い息で、喉が微かに鳴る。


 この、声が出せない状況を、彼女が作ったと言うのか。


 そのことに思い至って。

 だけど、信じられない。そんな魔法みたいな話があるものか。


 それに、仮にそうだとして、――僕はわずかに、右手を握り締める。

 中途半端になってしまった演奏。機会を失ってしまった晃生。僕の、行き場のない覚悟の残滓ざんし

 思い返すと、心の中に、何か薄暗いものが溢れてくるような気がして。だけど、それをこの少女に押し付けることなんてできるはずがなくて。

 でも、ならばこの思いは、どこにぶつければいいんだろう。


 ずっと、僕はただ、俯いたままの少女を見つめることしかできなくて。

 その硬直を打ち消すように、ポケットの中でスマホが震えた。




 大学の方から、晃生の姿が近づいてくる。

 さっきのは、晃生からメッセージが届いたことを知らせるものだった。内容は、『今、どこにいる』と短く一言。それでやっと、僕は、喋らずとも、書くものがなくても、会話をする手段を持っていることを思い出した。


 場所を伝えて、そしてやってきた晃生は、どこか怒っているように見えた。多分、僕と同じように、行き場のない思いを抱えているのだと思う。特に、『残念会』をきっかけにしようとしていた彼にとっては。

 その様子に、隣にいる少女が、いっそう沈痛そうな顔をする。


 晃生が口を開いて、だけど言葉が出せないことに気付いて、メッセージを送ってくる。


『冬哉、急にいなくなってどうしたよ、あとそっちの子は』


『ごめん、どこから話していいかわからない』

『瑞希は』


『一人にしろ、って』

『今も多分、ステージの近くにはいると思う』


 その言葉に、思い出すのはやっぱり、さっきの瑞希のこと。

 僕らとは違う意味で、だけど何かの覚悟を決めて、本番に臨んでいただろう彼女。そうじゃなきゃ、あんなことにはならない。

 だからこそ、いま彼女がどんな思いでいるのかは、理解はできなくても、きっと辛いだろう、ということだけは想像できてしまって、僕もつい、表情が暗くなってしまうのを自覚する。


 その時ふと、コートの裾が控えめに引っ張られる。

 振り向くとそこで、さっきの少女が、スマホを差し出していた。


 それが何を意図しているのか、すぐに理解する。話したい、ということだろう。

 僕は彼女とトークアプリのIDを交換する。画面に、風景写真のアイコンと一緒に、紗千、という名前が表示される。これは、サチ、と読むのだろうか。


 彼女を、僕らが普段使っているグループに招待する。多分、この方が良いだろう。


『この、ミズキ、というのは、先ほどの女の人ですか』


 少しして入ってきた彼女は、最初にそう聞いてきた。


『それで合ってる』


『そう、ですか』


 それから、少し間が開いて。


『ごめんなさい』


 僕の時と同じ言葉が書き込まれる。

 晃生の雰囲気が、僅かに変わったのを感じる。


『どういうことだ』


 と、晃生。紗千が、僅かに緊張したのがわかった。


『あなたたちの演奏が中断してしまったのは、私のせいなんです』

『声が出なくなったのは、私の魔法のせいなんです』


 晃生が、息を飲む。

 その横で、僕もまた、直接的に言葉にされたことでショックを受けていた。

 やっぱり、彼女が。……だけど、どうやって。魔法、と彼女は言うけれど、そんなものがこの世界にあることも、それをこの小さな少女がやってのけたということも、僕には理解の及ばないことで。


 そして彼女は、淡々と、言葉を続けていく。


 少し前に、別の街から引っ越してきたこと。

 新しく入った学校で、周りとうまくやっていけなかったこと。

 自分の瞳が、他の人と違う、そのことが気になってしまっていたこと。

 すれ違った人に揶揄からかわれたような気がして、それで人の声を聞くのが怖くなってしまったこと。

 だけど人とつながりを失ってしまうのも怖くて、それで一人で夜の街を歩くようになったこと。


 そして――そこで、何か得体の知れないものと出会ったこと。


『私はそれにそそのかされました』

『そして、魔法を教わりました』


『どうしたら普通に戻れるんだろう、って考えて、それで、声が聞こえなければ、私だって普通で言られるはずだ、って思って』

『だから、街に魔法をかけました。この日の夜だけは、声が聞こえなくなるように』

『そうしたら、また幸せだった頃の私に戻れるかも、って』


『だけど、私はあなたたちを傷つけてしまいました。そこでやっと、間違っていたんだ、って気づきました』

『だから、ごめんなさい。謝って、許されることじゃないかもしれないけど、それでも』


 文字を打つ時間と、言葉を考える時間と。

 それだけじゃない空白の時間をはさみながら、辛そうに、それでも紗千は言葉を少しずつ、メッセージにして吐き出していった。


 語られた内容は、そして紗千の表情は、本当に痛切で、だから嘘だとはとても思えなかった。だけど、魔法、という言葉が、いくらこの、誰も声が出せない、という状況と合致していようとも、そんなファンタジーのようなことを容易には信じられなくて。


 だけど、唖然とする僕とは違って――隣で、晃生の肩が微かに震えていた。


『ふざけんな』


 その言葉が目に入って、マズい、と思う。ほぼ同時に、紗千が怯えたように肩を跳ねさせる。

 そして、そのまま、硬直した紗千に向かって、晃生が歩いて行って。


 ダメだ、止めないと。


 そう思った僕の前で――しかし、僕よりも先に、別の誰かの手が、晃生の肩を掴んでいた。


 晃生が振り向く。


 その先に、瑞希が立っていた。

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