少年情報屋 駿杜若(ながれ かきつばた)

紺乃遠也

第1話

 ふぉ ふぉん

 がたがた揺れる電車の中で、一本の蛍光灯が不安定な感じで明滅する。それでもしばらくは、根性を出してか否か、薄黄色の光を放っていたが、しかしそれも、

「――――お」

 ふおう

 途絶えた。呆気無く、消えてしまった。

「…………」

 少しの間、暗くなった蛍光灯を見つめて、ぎしり、と長い椅子に座りなおす。俯いて帽子のつばを引き下げた。視界の中の闇が増え、狭くなった視野で、そこだけ明るい足元を見つめる。だいぶくたびれた、赤のスニーカー。

 今度は上を見上げて、蛍光灯を、再び、見つめる。あごを、さっきより高くしなければならなかった。

「……………」

 後頭部を毛羽立った椅子の背に押し付け、窓か穴のように狭い範囲から蛍光灯を見続ける。何をするのでもなく、それで何が起こるという訳でもない、だが、確実に、という感覚が、体の中に、はっきりとあった。

 自分の本能には従う。

 故に、常に本能を磨く。

 それが、まず一等最初に覚えること。

 経験を積んだ感覚が訴える、警告の鐘の音。

 意味はいくつもあるけれど、示すところの根本は、一つ。

 気をつけろ。

 それだけだ。

 矛盾は承知。でもいくつかの事件と危険を潜ってきた感覚が知らせる。それならば、それに従え。椅子に深く腰掛けたままで、自分の感覚を鋭く研ぎ、尖らせた。もしも異常が起きたとき、すぐに対応できるように。

「………………」

 小さく、唇の端に笑みが浮んだ。

 本当に、この仕事は自分にあっている。


 緊張。張り詰めた空気。

 鋭くぴんと張られた、弓のつるの如く。

 張り詰めた感覚。

 それが、好きだ。

 退屈しない。

 そして、絶好の体制で、彼はただ、待ち受ける。

 ぴりぴりと、肌の上を撫でる感覚に、期待と喜びを感じながら。


 と、右のポケットが振動した。少年はポケットのボタンを外して、丸っこい形をしたケータイを取り出す。

「もしもーし」

『おーう! 杜若かきつばた! もっしー!』

「…………」

 声を聞いたとたん、電源を切りたくなった。だが、そこはプロ根性で必死に我慢する。

「もしもし…………」

『あっれ、テンション下がった? 何でだよう! 俺様からのコールなのにさ!』

「……俺、仕事中。それになーんで、君? いつもの相方は?」

『勘弁勘弁ー。あ、それが本題なんだけど、鳩羽はとばがダウンしちゃってて』

「ええ、マジで」

 うんうんマジでー、と返事が来る。その時、足元が妙に冷えるのを感じた。よりによって、こんな時に。舌打ちをしたい気分で、感覚を研ぎ澄ます。

『だから、つばたっちなら知ってるかも、と思って電話したんだけど、なんかいい薬の情報とか知らない?』

「後でかけ直す」

 そう言って、ぶつりと電源を切る。こういう時、仕事を知ってる奴はやりやすい。ぶーぶーいわれないで済む。音を立てず畳みしまって、ボタンをかける。立ち回りをやらかす可能性、ありだ。確率は高い。大事な商売道具なのに落ちたら困る。非常に困る。

 椅子から立ち上がって、考える。

 前か後ろか。

 頼りになるのは、この場合眼よりも肌。半眼にして、辺りを伺う。肌に触れる感覚を失わずに、出所を探る。が、その前に動きがあった。

 足元を渦巻く冷気。あるいは霊気。足元に濃く溜まり、うねり、ぶつかり、意識を持って動き回っているような。それが、足を絡め取ろうとしている。渦巻く流れが次第に変わって、少年を中心に、体に巻きつくように、まつわりつく。引きずり込みたいと、願う手のように、体に絡みつく。少年は瞬間的な判断で、思考を絶った。

 服の上を、冷気が滑る。指をかけて、引く。髪をすり抜け、手に触れ、誘うように。頬を。頬を撫でる。氷を押し当てられたみたいに、震えそうになる。けれども、何もなかったかのように、身動きしない。相手は、こっちよりよっぽど敏感だ。僅かな反応だけでも逃がしてしまう。

 それじゃ、意味が無い。

 呼吸一つにも細心の注意を払う。相手に任せる。ここが肝だ。体の脇に流した手の、指の間を通り抜ける空気が、彼の手を、引いた。鍵爪のように引っ掛け、体を引く。その瞬間空気が、一塊となって、彼の体を押し始める。

 力を抜いても、倒れない。重力の狂ったプールに浮んだみたいだ。満ちる水でなくとも、体が冷える。

 前か。

 流れは、少年を前の扉へと押しやる。この車両の終わりの引き戸の扉が、勝手に開く。ガシャン! アコーデオン式の、連結部分に出た。次の車両へと繋がる扉が、また、開く。ガシャン! 

 ずるり、と前へ引き出される。引かれ、押されるままに、体制は変えない。脱力した姿で、視線だけを前に向けた。そこには、一人の女が立っていた。

 やつれた顔と、長い髪。途方に暮れた顔つきで、ひっそり静かに、立ち尽くす。彼女は、少年の存在に気付くと、不器用に頭を下げた。

「……ごめんなさい」

「お姉さん、ですか?」

 少年の問いかけに、頷いて答える。

「そう、ごめんなさいね。行くところがわからなくなってしまって。そうしたら、あの人たちが、あなたを呼べばいいと教えてくれて」

 このままじゃ、どうしたらいいか見当もつかなかったから。あまり人も頼りたくなかったのだけれど、と女は言う。不安げに眉を寄せて、立つ姿も頼りない。

「……あ、じゃあ、それが教えて欲しいと」

「そうなのよ」

「はい、いいよ、わかったよ……うわ!」

 急に体に重力が戻り、ずだんとしりもちをついた。木の床が派手に軋む。引き受けてくれるとわかったせいか、あの空気たちはこれでもう安心だと、投げ出したわけだ。

 しかし、三日三晩、夢にうなされた原因がこれでわかった。帽子を一度被りなおして、少年は承諾した。今回、立ち回りは無しのようだ。

「はいよ、オッケー。そんじゃ、どうしよう。えっと、死神呼ぼうか? 知り合いに何人かいるから」

「え……待って、そこまでしてもらわなくても、道筋だけ教えてもらえれば、多分行けると思うわ」

「あ、そう」

 それならそれで、手間が省ける。しまったケータイを再び取り出し、着信履歴から同じ番号にかけた。そして、腕をめいっぱい伸ばして、かなり耳から離して持つ。

「もしもしーぃ! どうしたんだよ! やけに早くねえ?」

 これだ。離していてさえ、やたらキンキン耳に響いた。こうしておいて正解だった。予測することは大切だ。

「悪い、まだ仕事中。褪衣さえの力が要る、ちょっと助けてくれ」

「ふうん? いいぜ! ただし、鳩羽の薬は頼むからなー」

 あっけらかんと応える褪衣。それが信頼関係からなのかどうか、見極めるだけの力が少年には無い。だってこいつ、何考えてるかまるでわかんねぇんだ。少年は返事をする。

「オッケーだ。今、ここに一人の女の人がいる。君んとこの管轄のね」

「……後ろ、透けてる?」

「ばっちり」

 身動きすると、床の木目まで見える。そう伝えると、褪衣は困ったように唸った。

「ん、んー、了解。で? どうすんの? あんまり行きたくないんだけどなぁ。俺」

「そこは本人がいらないといってるから、来なくてもいい。行く道さえわかれば、自分で行けるって」

「んんんー。そういっても、本当に行けるかどうかってまた別の話。しかしまあ、そういうんだったら、そういわないよりはいいか……わかったよ。名前教えてくんない?」

 少年はケータイから顔を離し、黙って電話越しのやりとりを眺めていた女に尋ねた。

「お姉さん、名前わかる?」

「……ごめんなさい、わからないわ。思い出せない」

「そっか、わかった」

 それじゃこいつの出番だな。少年は、ケータイを入れていたのとは逆のポケットに手を掛けた。ボタンを外す。そこから、慣れた手つきで取り出した。

 取り出したのは分厚く黒い手帳だった。手に馴染んだカバーと、クリップでカバーに挟んだペン。女の見る前で、少年は手帳の背表紙にあたる部分を手前に引いた。そこだけカバーが外れる。中にはまとめられた黒のコードが収まっていた。

 不釣合いな組み合わせだった。なぜなら、少年の持つ手帳は、どう見てもただの手帳そのものなのだ。電子手帳などの、電気が通ったものではない。具体的にいえば、同じ形に切られた紙を、ただ一つにまとめて表紙をつけただけの、紙のまとまりでしかない。それと、明らかに電化製品用に見える、コード。一体、何の意味がある?

 しかし少年は、不自然な動作は一つも無く、コードを引き出し、ケータイの僅かなへこみを爪で引っ掛けて開き、現れた小さな接続口に、パチンと接続した。平然としたままで。

 よいしょっと言いながら、ケータイを耳と肩で挟み込み、コードで繋がった手帳を開く。ペンをかちり、と一度ノックして、ペン先を出した。

「オッケー、準備いいっすか。名前はわからないっつってるから、こっちでわかるだけの、送るよ。いつも通りで」

「おーう。ばっちし、わかったぜー」

 その声を聞いてから、少年はペンを構える。女を見つめて、意識を集中する。今までとは違う瞳。色も形も変わらなくとも、映った中身が、違っている。

「お姉さん、じっとしててね」

 少年の言葉に、女は身をこわばらせた。少年は不敵に笑い――これも、今さっきとは別人のような表情――柔らかく目を細めた。

「大丈夫だよ、別に、危ないことはしないから」

 女が体の前に身を守るように硬く寄せていた腕が、ふっと緩んだ。その瞬間、少年はペンを走らせた。

 同時に、女の体から、白いものがあふれ出た。細い糸のように見える。けれど、何か言葉では形容しきれない。それには形が無かった。光ではない、水ではない、霧でも、雲でもない。形を持たないそれが、少年のペンに吸い込まれていく。

 ペンが走った。

 素早い動きが、ページに女の姿を写し取る。完璧な模写だった。まつげの一本をも確実に、髪の一筋一筋は、全てがより分けられそうな質感。唇の厚みと頬の形、それから立ち姿と身に着けた服。顔のアップと全身図が、信じられないスピードで手帳の上に作られた。それだけで、写真を見るよりも明らかに、その女の姿を知ることができそうだと思わせる。

 それから、少年が今回のいきさつと現在の状況を、止めはねまでが整った文字で記す。全部で三ページ。

「終了!」

 最後の文字を書ききって、すぱっとペンをあげる。すると、手帳の上で文字が震えた。いや、ぶれた、といった方が正しいかもしれない。一瞬調子の狂ったテレビのように、絵と、文字がぶれる。

 空気が荒くはぜる音がして、手帳が一瞬光り、少年が顔を背けた。その光が、唸りながらコードの中を通っていく、外まで光が染み出している。そして、肩に挟まれたケータイが弾かれたように中に浮いて、画面が眩しく光を放った。

 褪衣の元気のいい声が聞こえてくる。

「受け取ったぜ! いつもいつもすげーよな。ま、これだけあるなら断然へいちゃらだね。一分くらい待っててよ」

 それから足音と、物がか、物にかぶつかる音、紙類が擦れる音が聞こえてきた。少年は眼を手帳に落とした。手帳が空になっている。さっきまで、隙間無く書き込まれていた文字と、あの驚くほど精密な絵が消えていた。送信が、無事にできたと言う事だ。

 ぱっと女を見ると、眼を丸くして少年を見つめていた。穴が開いたらどうする気だろう。

「あなた、何者なの?」

「さーね」

 両手を方の高さにあげて見せる。

「俺としては、ごく普通の中学生といいたいところなんだけど……まあ、あえていうんだったら―――」

「おーい! あったぞー!」

 恐ろしいほどのタイミングの悪さで、褪衣が割り込んでくる。少年は口をつぐむしかない。

「さて、あの情報から得たことから、日付やら何やらを考えた上でいうと、多分これで十中八九間違い無しだ」

 前置きして、褪衣は言う。

「―――形山かたやま 江織えおり

 女の姿が、誰かにひっぱたかれたかのように揺れた。動揺した顔つき、そして足元から、光を帯びる。だんだんと、落ち着きを取り戻すにしたがって、女は、形山江織は天を仰いだ。不安げだった顔に、微笑が満ちる。

「ああ――私。私、もう、大丈夫だわ」

「お姉さん……形山、さんか」

「ええ、あなた………本当に、どうもありがとう」

 柔らかな、白い光に包まれて、彼女は微笑んでいた。足元は少し、床から浮き上がり、車両の天井と壁が、端からめくれ、崩れるように消え去った。

 外は満天の星空。周りは星明かりに照らされる草原の海。ざわめく長い草の海。がたんがたんと、電車が立てる音。だけれども、少年の体は心地よい僅かな風にしか晒されず、その場にそのまま、立っていることができた。冗談だろうと笑い飛ばしてしまうのは、この場合、あまり意味が無く、あまりに風情が無いと思えた。

「お姉さん、最後に質問、一つだけ、いいかな」

 ケータイと手帳を上着の前ポケットに入れて、一歩、前に進み出た。問いかける少年に、道筋を探してか空を見上げていた女は視線を合わせる。

「いいわよ。でも、早くね、あまり長くは、ここに居られそうに無いから」

「――――」

 一瞬だけ迷って、それでも少年は口にした。逆に、迷いを振り切るように。

流下ながしたつばき という名を知らないか」

 両手を握り締めて、両足で床を踏みしめて、少年は答えを待った。女は口元を押さえて記憶を探っていたが、結局は、首を左右に振った。

「いいえ、わからない。―――知らないと思うわ。もう当てにならないかもしれないけれど、私は、聞いたことが無いように思う」

「そっか」

 握り締めた手を解き、体の横にたらす。その知らせが与えたのは、安堵。けれど裏返してみれば、胸を不安で騒がせた。手に入らなかった、安心と、焦り。まだ手が届かない。届かない、届かなくて。自分は。

「ねえ、教えてくれない?」

 砕けた調子で喋って、形山江織は優しく笑った。単なる疑問だったのか、少年の固くなった顔つきを見てからなのか。

「あなたは、何者なの?」

「……俺、俺は」

 少年は顔を上げた。きちりと面差しを正して、真正面から真面目に真っ直ぐに、名乗る。

「俺の名前は、駿ながれ 杜若かきつばた。出張サービスまでも受け付ける、万能な情報屋だよ」


 ※


 気がつくと人の間に囲まれていた。風は無い。電車の中。足の下は、プラスチックだか何だか知らないけれど、木ではない。まだ余裕はあるとはいえ、なかなかに込み合っている。帽子を、自然な動作で引き下げていた。外では、明るいライトがきらめいている。色鮮やかに、存在を主張する。さっきに比べて、煩く感じた。ざわめきの中のアナウンス。電車のスピードが緩まる。

 止まった駅で、降りる人の流れに乗って、降りる。

 ホームに立って、前ポケットからケータイを取り出す。コードを外して、手帳は残す。切れていた。電源まで落ちて、画面が真っ暗になっている。

 両手で持って、ケータイを、ぱたんと畳む。

「お仕事、完了」

 そして成功。

 呟いて人ごみに紛れる。誰にも見とがめられない。ポケットに手を突っ込み、歩き出した。


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