第10話 どう考えても向かい風

山代が新月に見守られて、眠りについたころ、日本語に直せば「木の葉の間のおぼろ月」ホテルには珍しい日本人の青年がベッドで眠っていた。

そんなこともつゆ知らず、公園には涼しげな風が通っていた。

その風はベンチに寝ていた、日本人の青年をさっと、起こした。


目を開けた。いつもより、まぶたが重い。それはまぶたの上にアスタの空気、外国の空気が横たわっているからだろう。そういえば、今は何時だろう。そんなにあたりは明るくないが。

ん、公園を見下ろす時計の数字がよく見えない。よくわからない。いや、読めないのだ。二秒ぐらい私はフリーズしたが、思い出した。これはアスタ数字だ。アスタ古来の文字なのだ。いまでも、装飾などには使われている。うん、ということは今はえーと、2:56か。うん。二時五十六分。もう少しで、午前の三時。朝の三時、三時、三時。

あれだ、昨日の老婦人の、「あなたみたいなお子ちゃまに、朝の三時に起きれるのかしら?」だ。そのときに朝の三時、と言われたのだ。

そして、それが「冥土の土産」というのを得ようとしたというヘーゼ・ルナッツ卿が飛び降りた時刻ともいわれているのだった。

ということは、、、。私の脳は考えようとしたが、先に足が動いた。まぶたも開いたし、ベンチから腰を上げた。虫の知らせだ。

周りの風も驚いておかしな方向に吹いたぐらいだ。その時刻は2:57.


驚いた風が漂っていた、公園に面している大通りを右に曲がって左手にある、「木の葉の間のおぼろ月」の七階の一室の目覚まし時計はきちんと役目を果たしている。わずかな音と共に一秒一秒を刻んでいる。五十八分、21秒、22秒、23秒、24秒、、、。


勢いよく腰を上げたせいで、体のバランスを崩したが、気にせず前を向いた。走った。走っていくと目の前に、日本では雑貨屋でしか見かけないようなおしゃれな背の低い看板がたたずんでおり、「アイナナ通り」と示していた。こんな早朝に人がいることなんて、珍しすぎて、その看板も気を抜いていたぐらいだ。


そんな看板の気持ちも知らず、山代は右に曲がって、アイナナ通りに駆けた。曲がったところには、ホテル街という題の大きな看板があった。どうやら、この短いアイナナ通りの最後を左に曲がる角に面しているのが、「木の葉の間のおぼろ月」とかいうホテルらしい。たしか、「月夜の太陽 三番館」は取り壊され、その場所にそのホテルが建ったらしい。一、二番館は、まだ更地だそうだが。

ああ、こんなどうでもいい思考が私の脚の回転を鈍らせているのなら、今だけでも思考停止してしまいたい。そう思ったが、かなわず、それでも足は動いた。


ホテルの一室の目覚まし時計は、緊張していた。実を言えばこのホテル、客足は遠く、部屋もあまり埋まらない。だから、目覚まし時計にアラームが設定されたことなど久しぶりなのだ。

そんな緊張を感じたのか、塔堂は横で寝がえりを打ったがまだ起きはしない。ここで起きられたら、目覚ましの意味がないというものだ。ただいま、2時59分37秒。危うく、目覚まし時計は、秒を数えるのを忘れそうになった。


私はなんとか息を切らしながら、アイナナ通りの角の手前まで走って来た。あとホテル二件で角だ。


目覚ましは、ちゃんとアラームを鳴らした。久しぶりに腕もなったのだが。目覚ましはなることができたことに安心したが、このまま止められるまでなり続える義務があることを思い出した。それを思うと憂鬱になりながらも、燃えて来た。


塔堂は頭の上でなっている、穏やかなアラームを心地よくさえ感じていたが、大事なことを思い出し、アラームを数えて止めた。9、10、11。今だ。


私は、角を曲がった。細い道のコーナーを踏ん張りながら。曲がった左手に、品の良いホテルの入り口の扉が見えた。ここまで来てどうするか、考えていなかった。そう思いつつ、惰性で走っていた。


目覚ましは止めてもらったことに安堵を覚えたが、すぐに一晩限りの主人が窓を開けに行って、嫉妬した。


窓も驚いた。自分を通って、客が落ちて行ったのだから。


ああ、気持ち良い。七階から落ちるなんて、中々、できることじゃない。それも異国の地で。これで、僕のことを見ている人の願いが叶うはず。だれが、見ているかしら。そのとき、頭に思い浮かんだ人が、下に立っていた。危ないよ、山代。塔堂はそう思った。


おお。人が落ちて来た。多分、塔堂くんだろう。これは、伝説通りじゃないか。でも、伝説通りだと、ヘーゼ・ルナッツ卿のように死んでしまう。まあ、私が、受け止めればよいか。そう思い、彼の落下点に構えつつ、塔堂くんがケガしませんように。と祈った。


窓が、自分の下に広がる景色を見て驚いた時、そこを通った、風も驚いた。


塔堂の体は、山代に触れる瞬間だけ、ふわっと軽くなり、山代の腕に受け止められた。


山代は、塔堂に笑いかけながら言った。

「塔堂くん。無茶はだめだよ。」

それに、はにかみつつ、塔堂は返した。

「ごめん。伝説通りに、落ちれば、それを見ている人の願いが叶うってみんなが言うから。やってみたくなったんだよ。」

「それにしても、危ないよ。でも助かってよかった。」

「うん、でもなんでだろう。結構、僕重いよ。身長もあるし。」

「確かに。ところで、私の願いは、何かかなったの。」

「そうだね、何を願ったの。」

「とっさのことだから、覚えてないよ。」

「まあ、そうだよね。」

「うん。朝の風が気持ちいいよ。」


この時、風は名前が呼ばれて驚いたが、その前に、二人の純粋すぎる友情に顔を赤らめていた。おそらく、それは、落ちて来たヘーゼ・ルナッツを見ていた石畳も、同じなのだろう。

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