今夜、僕は分裂する

五百六士

今夜、僕は分裂する

「今夜、僕は分裂する」


 朝、僕のまなこが真っ先に捉えたのは枕元の紙切れの、意味不明な文字列であった。

 その紙切れはわからないことだらけであった。

 まず、「今夜」がいつなのかすらわからない。仮に昨日書かれたものだとしても、寝る前のその夜のことを指すのか、あるいは目が覚めた翌日の僕にとっての夜であるのか曖昧である。

 続けて、「分裂」である。当然ながら僕は今まで分裂したことがないし、分裂した人間を直接見たことはない。間接的になら、あったとしても、それはモザイクのかかったものだし、そういう状態を「分裂」とは呼ばない気がする。

 そして、誰が書いたのか。これは状況を考えれば一つ、答えが出る。家には鍵をかけているし、文中に「僕は」と書いてあるし、何よりその筆跡が明らかに僕のものなのだ。しかし僕にとっては不可解であった。どれだけ記憶を辿っても全く覚えがないのである。


 考えるのにも疲れてきたので、不気味なその紙切れをくず入れにほうった。

 このことは一旦忘れて朝飯にしよう、とトーストを焼き、マーマレードを塗る。コーヒーは牛乳とおよそ3:1の割合で混ぜ、好きな女子アナがいるニュース番組をつける。食べ終わると、洗面台に向かう。歯磨きには時間をかけ、髪型を整えるのも鏡を睨んで必死にする。だから家を出るのはギリギリで、いつも焦りながらアパートの角部屋の、軋む戸を閉め、階段を降りる。

 家から数歩歩くと桜並木があるのだが、ここを通るときは決まって戸締りをしたか不安になってきて、きっと大丈夫だろうと思いながらしばらく歩くが、結局駅まであと半分といったところで家に戻る。一度として鍵がかけ忘れていたことはないのだが。


 電車内や、仕事中、ふとした時に朝の紙切れのことを思い出し、その度に心が乱れた。昼休憩の時はひどかった。僕の今いる食堂には自分の分裂先があるのではないか、と根拠のない不安感が突如湧いてきて、自分と似た職員を探して始終食堂内を挙動不審に見回していた。後で部下に「食堂にいるとき、何やってたんです」と聞かれた時は震え上がった。


 やっと帰路につく。コンビニで適当に買った惣菜を食べ、長風呂をし、半分眠った脳みそを布団に転がす。

「今夜、僕は分裂する」

 枕の中で、うわ言のように唱えた。

 なんだ、別に何もなかったじゃないか。ああ、気が疲れた。なんとなく損をした気分だ。

 そんなことを思った途端、実際に僕に喪失感があることに気づいた。

 目を閉じると、いつのまにか僕は現実から乖離した。



〈〈〈そして僕は分裂した〉〉〉



「今夜、僕は分裂する」


 朝、僕の眼が真っ先に捉えたのは枕元の紙切れの、意味不明な文字列であった。

 昨日はえらく疲労した気がするから、どうせ寝ぼけて書いたんだろう。気にするほどのことでもあるまい。

 適当にその辺にあったトーストを焼く。何か塗るのも面倒だ。そのまま食おう。その分カフェオレの分量はきちっとする。コーヒーが牛乳の三倍になるように、コップの水面を見ながら慎重に入れ、混ぜる。朝は決まって情報番組を見る。まあ、目当ての女子アナがいるからだが。歯磨きはちゃちゃっと終わらせるが、髪型は自信を持たせたいから、結局焦ってアパートの角部屋の、軋む扉を閉める。


 ちょうど、同じ音が重なった。隣室の方も同じタイミングで家を出たらしい。


「「あ。」」


 お互いの目が合った。

 お互い、目が離せなかった。

 髪型やシャツのセンスは似てるとはいえ少し違うが、なぜか親近感を覚えたからであった。いや、でも隣の人ってこんな方だったかな、と僕たちが引越しの挨拶に行った時の記憶を辿っていると、彼の方から話しかけてきた。

 この話もまた奇妙だった。


「あの、そちらの角部屋が僕の部屋ではありませんでしたか?」


 言っている意味がわからなかった。僕はちゃんと契約の時に角部屋にした記憶があるし、今僕が生活している部屋から僕自身が出てきたことそのものが何よりの証拠ではないか。

 どう返答したものか困っていると、相手も自分の料簡違いに気づいたらしい。

「あ、いえ。なんでもないんです。すみませんね、変なこと言って。」

 軽く笑って、それでは、と階段を降らていった。

 僕もなかなか時間の危ないことを思い出して彼の背中を見ながら駅に向かった。


 駅までの道のりの半分くらいで前を歩く彼が突然立ち止まり、こちらに振り向いて走ってきたから少し驚いた。しかし僕は直感的に、彼は鍵を閉めたか不安になったと気づいた。


「あなたの部屋は角部屋じゃないですよ」


 通り過ぎる彼に声をかけた。彼は振り向いて親指を立てた。


 仕事が終わって家に帰る。コンビニの惣菜を開ける。風呂は短め。夜風にあたりにベランダに出るも、眺めはすでに闇に沈んでつまらない。仕方なしに、まだ冴えた頭で布団に入り、体を伸ばしてやがて訪れる眠りを待つ。

 ふと、今朝の紙切れを思い出した。それによると、どうも僕は今日分裂してしまうらしい。

 なにか、他にヒントみたいなことは書いていなかったかな。

 もう十分重たくなった頭をもたげて周りを少し見渡すが、あれはもうどこかに消えていた。

 まあ、いいか。

 僕は再び目を閉じると、いつのまにか現実から乖離した。



〈〈〈そして僕は分裂した〉〉〉



「今夜、僕は分裂する」

 朝、僕の眼が真っ先に捉えたのは枕元の紙切れの、意味不明な文字列であった。

 しかし僕は頓着しなかった。


 カフェオレの分量は正確でないと落ち着かない。コーヒー150ccと牛乳50ccをそれぞれ別の計量カップで丁寧に計る。さらに曲率半径の異なる三本のスプーンで、曲がりの大きいものから11秒、13秒、17秒かき混ぜる。僕の大切な人から教わった、一番美味いカフェオレの作り方だ。洗い物が増えるという難点があるが、致し方ない。

 適当に付けたテレビをBGM代わりにし、適当に焼いたトーストをそのまま食う。ここにはこだわらない。

 歯磨きを済まし、一応寝癖を直すと軋む扉を開け、アパートの角部屋——自分の強い願望から手に入った、思うにアパートで最も価値のある部屋——から発つ。時計を見ると、電車には十分間に合う時間だ。

 僕はゆったり歩きだす。いつもと同じはずのこの感じがどこか新鮮に思えて落ち着かない。アパートの廊下が長くなったように感じたのも、そのせいなのかもしれない。


 仕事を終え、家に帰ると、部屋の前で同じような顔の二人が言い争いをしていた。片方の髪はワックスで固められているが、もう片方はそこまで気合は入れてなさそうだ。なんとなく僕は二人を知っているような感覚がしたが、しかし確かに今初めて見る二人なのである。

 あんまり激しくぶつかっているので巻き込まれるのはごめんなのだが、僕の部屋の前で行われていたことであったから無視することはできなかった。僕は恐る恐る、


「あの……なにをやってらっしゃるんですか?」


 と声をかけた。すると二人は口を揃えて、


「「いえ、この方が角部屋を自分のだと言い張るのです。」」


 と僕の家の方を指してわけのわからないことを言い、また口論を始める。

 困ったな。家に入れないぞ。

 僕は次第にむかむかしてきたが怒りを堪えて、あえて宥めるようなやさしい口調で、


「お二人さん、喧嘩してもなにも解決しませんよ。ほら、一度その扉から離れて、頭を冷やしては?」


 といってやんわりと二人を家の前から払った。そして二人が扉から目を離した隙に僕は鍵を挿した。


「「あ、おい!」」


 慌てて二人は僕に掴みかかったが、もう遅い!木製の軋む扉を開きシャツの両肩口を握る二つの拳を振りほどいて僕は家の中に消えた。


 晩御飯はもういい。今日はなぜか疲れた。まだ扉がうるさいし、早く布団に入ってしまおう。

 夢に落ちる前に、朝の紙切れのことを思い出した。


「今夜、僕は分裂する」


 この角部屋を見つけ虜になったのは、今は世界中で僕だけのはずである。それならば、扉の外にいる二人は、分裂した僕なのではなかろうか?だからこそ、角部屋を「自分の部屋」だなんて主張したのではなかろうか?


 そんな疑問も発想も、現実からの乖離によって無に帰してしまう。



〈〈〈そして僕は分裂した〉〉〉



「今夜、僕は分裂する」

 朝、僕の眼が真っ先に捉えたのは枕元の紙切れの、意味不明な文字列であった。


 僕は角部屋に住む人間である。それ以上の情報はない。設定されていない。

 僕の思想というのは世間一般のそれからそう逸脱してはいないし、趣味もない。嗜好も特別おかしいこともない。つまりは僕について特別に扱うべきことはなく、僕は単に「角部屋に住む僕」として定義された存在であり、本当にただそれだけでしかないのである。


 仕事に行かねばならない気がして、僕は朝食と支度を済ました。しかし、外に出れば僕は「角部屋に住む人」では無くなってしまい存在を喪失してしまうので、扉の内側に収まるしかなかった。

 だらだらと昼を過ごすが、何かしないといけない気がして、久々にちゃんと整理でもしようと思い、一人暮らしには少し広すぎる気もする部屋に掃除機をかけた後、暇にならないようにテレビを付けながら、冷蔵庫から、棚から、引き出しから、古くなった思い出の欠片を整理する。


 冷蔵庫からは、マーマレードの瓶がいくつか出てきた。こんなに貯めるほど好きだったかな、と不思議に思った。

 牛乳パックの中身は反対になくなりかけだった。僕に特別な嗜好などはない。こんなに牛乳消費の多い生活じゃなかったはずである。

 考えを巡らす僕の頭の中に、テレビの音声が入ってきた。今流行りの女子アナが速報のレポートをしている。どうも暴動が起こっているらしい。

 意識を冷蔵庫に戻すと、コーヒーのペットボトルもあと少しのようだった。こちらは貯蔵がまだあった。

 この際だし、牛乳もコーヒーも空けてしまおう。

 牛乳パックを取り出そうとした時、内扉に貼られた、くしゃくしゃの古い付箋に気がついた。


『コーヒーと牛乳の割合は“3:1”!』


 明らかに僕の字ではない付箋だが、なんとなく懐かしい感じがして、なぜか汗が吹き出てきた。

 そして、何か、巨大なものに押し潰されるような、息苦しい心地がして、意識が途切れた。


 気がつくと、僕は洗面所にいた。いつのまにか息が上がっていて、洗面台に手をついていないと身体が支えられないほどであった。

 前を向くと、ひどくやつれた顔があった。この顔に出会うのは二回目である。


 あれ、二回目?


 先程から記憶が曖昧になっている。実際には、僕にそのような記憶はない。しかしながら、全身真っ黒の僕が、洗面台の鏡の前で突っ立っていて、縋るように、その鏡の中になにかの幻影を求めている。そんな光景が、悪夢の目覚めのように、僕の脳裏にぼんやりと張り付いて離れない。

 僕は頭を冷やすために水を被り、カフェオレを作るためにリビングへ戻ろうとする。


 そのとき、ドアが激しくなった。「開けろ」「壊せ」「そこは僕の部屋だ」と怒鳴り声が響いた。


 僕は恐る恐る扉の窓から外の様子を伺うと、何十、何百という「僕」が扉の外で暴れていた。

 僕は「ギャッ」と声を上げ、扉から離れる。これは夢だ、夢であってくれと願いながら、リビングの方へ去る。

 そこで報じられているのは、まさしく我が家の前であった。

 僕の賃貸したアパートは、もはやその原型をとどめないほど廊下を伸ばし、そして僕の住む角部屋へ人が殺到していた。


 僕は窓を開け、ベランダにたどり着く。下を見る。ここは二階だから、いざという時は飛び降りても死にはしないだろう。


 逃げないと。


 そう思っても、これ以上身体は動かなかった。

 このままだと人の圧力で朽ちかけた木の扉は木っ端微塵になり、僕は彼らに蹂躙されてしまうだろう。

 しかし、僕は「角部屋に住む人」であるから、ここを放棄するということそのものもな死を意味するのである。

 すなわち僕は八方塞がりであった。


 ドン、ドンと周期的なタックルをくらい、扉は悲鳴をあげ、その度にバラ、バラと木片が零れ落ちる音が聞こえる。

 僕は依然、動けないでいる。


 ふと、僕はなぜここまで角部屋に固執するのだろうと疑問に思う。僕だけでない。扉の外で暴れている何百人の「僕」についても同じことが言える。


 額に何かぴとりと付いた。僕は顔を上げる。


 そこには、満開の桜並木が一直線に並んでいる。はらはらと散る花びらに沈みかけの夕日の光線が散乱して、なんとも言えない色味でもって世界を彩る。


 全て、思い出した。僕たちはここで、ほかの部屋では決して見ることのできないこの景色を見て、この部屋を選んだのだ。


 夕日が落ちた。


 とうとう扉が壊れ、雄叫びを上げる「僕」が雪崩れ込み、瞬く間に角部屋は戦場になった。

 物は飛び交い、棚は倒れ、テレビは割られ、数々の思い出——遠い記憶の彼方にて微かな声を上げる物たち——は粉砕されていく。

 僕は、しかし、涙を流しながら動くこともせず、ただそこにいて、やがて人波に圧されて世界が闇に沈んだ。


 一瞬だけ、仄かな幸せを湛えた夢を見た。

 君がいた。

 その一瞬は、まるで永遠だった。

 すなわち、僕は現実から乖離していた。


〈〈〈そして僕は分裂した〉〉〉


〈〈〈そして僕はいなくなった〉〉〉

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