第13話
今の自分にはなんだってできる――旅行用のキャリーバッグを引きながら夜の街を歩いている雪雄にはそんな思いがあった。
これは慢心などではない。自分の持つ力を客観的に考えての結果だ。
超能力を手に入れた雪雄は、どれほど優れたセキュリティを誇る場所であっても、簡単に、そして痕跡を残さず侵入を可能とする。大企業の機密書類保管庫であっても、銀行の金庫でもだ。どんなセキュリティも雪雄には通用しない。
さらに超能力は法で裁けるようなものではないから、社会は雪雄を裁けない。
もう一つ――今の雪雄は上向きであるということ。
超能力を手に入れ、それを使って山岡に対して理想通りの復讐を果たすことはできた。きっと、雪雄は今、なにをやろうとしてもそれは必ずいい方向に転がってくれるはずだ。運が上を向いている時というのはなにをやっても上手くいく。そういうものだ。
だから絶対に上手くいく――その確信があった。そして、これが上手くいけば、こんな惨めな生活ともおさらばだ。
あてのない職探しをする必要も、いつ自分の銀行残高がゼロになるのかに怯えることもない。超能力を使えば、金なんていくらでも手に入れられる。
不当に甘い汁を啜っている社会の害虫どもから金を奪うことが悪いことなのか? どうしてそういう連中は罪に問われないのか。
なら、雪雄が超能力を使って金を奪うことだって許されていいはずだ。その二つにどれほどの違いがあるというのか? 本当にこの日本という国は間違っている。いや、資本主義という制度そのものが間違っているものなのかもしれない。
九十年代初めにソ連崩壊とともに終わりを迎えた共産主義と同じく、きっと現在は資本主義が限界に近いところにあるのだろう。資本主義経済が限界に近いというのは、リーマンショックが起こった時点でそれは明らかである。
雪雄が金を盗む場所に決めたのは銀行だった。
別に銀行に恨みがあるからそう決めたわけではない。
ただ、銀行ならば侵入しやすいと思ったからである。
土日には銀行の業務は行われない。だから、仮に休日出勤があったとしても、日曜の深夜遅くまで残業している者はいないはずだ。
前の職場に対して悪戯を行なった時と同じだが、銀行だって企業であるわけで、一部を除けば土日というのは基本的に休みである。
そして、雪雄の侵入能力において大事になってくる要素は、誰もいない場所かどうか、である。雪雄は監視カメラや機械警備のセンサーなどに引っかからないだけで、透明人間になれるわけではない。だから人の目がないことはとてつもなく大事な要素だ。
それに銀行をターゲットとしたもう一つの理由――それは、どこの銀行であっても窓口がある程度の規模ならば確実に現金準備がある、という理由からだ。
今の時代、銀行取引も電子取引が主流になっているから、普段の取引で動かしているような莫大な金額と同額の現物が銀行の支店に置かれているということはない。
とはいっても、丸っきり現金準備がないというのはあり得ない。電子取引が不可能になるような不測の事態が起これば現ナマが必要になる。何千億何兆という現ナマはないだろうが、雪雄の暮らしを潤す程度の金額は間違いなく用意されているはずだ。
雪雄は、これから銀行の金庫へと侵入して、そこから一億円ばかり拝借するつもりである。何兆という金を動かしているのだし、一億ぽっちの現ナマがなくなったところでなにかあるわけでもない。たいして綺麗な金でもないのだから盗んでやるのが正解である。
すべきことはとても簡単だ。
職員用の出入口から銀行内部に侵入し、金庫を見つけてそこから現金を盗む。
これだけだ。
それで――ただそれだけで雪雄の人生はなにもかもが激変する。変われるのだ。仕事がないことに鬱屈した日々を送るようなこともなくなる。搾取される側から搾取する側へと回れるのだ。これほど嬉しいことはない。
雪雄は会社に侵入を果たした時よりも遥かに強い緊張を感じていた。何故なら、今日侵入をする場所は、どこにでもあるような中小企業などではなく、全国に支店を持つ巨大銀行なのだから。
しかし、問題はない。
『電子偽装』も『錠前突破』も『指紋消失』も、すべて本物の超能力であるというのはすでに知っている。今回だってその痕跡をほぼ残さずに侵入できるはずだ――それは承知している。
だが――
やはり相手が銀行という巨大組織だからなのか――
それとも――
銀行から金を盗むという犯罪行為を行なおうとしているからなのか――いや、もうすでに犯罪行為には手を染めている。会社に侵入してパソコンを破壊したのだって、山岡の家を荒らしたのだって立派な犯罪行為だ。地元の質屋にだって盗みに入っている。銀行からちょっとした金を盗む程度のことが今さらなんだというのだ。
そもそも――これは超能力を手に入れた人間がやることなのだから、犯罪などではない。犯罪というのは露見して罪が立証できて初めて犯罪となるのだ。今の社会に超能力を立証できない以上、超能力を使用して雪雄が行うことは犯罪行為になり得ない。自分は薄汚い犯罪者などとは違う。理を超えたところに場所を持つ超越者なのだ。犯罪者などではない。そんなものとは全然違う。
銀行の従業員用の出入口に到着した。ここを突破してしまえばあとに引くことはできなくなる。
――いいのか。
そんな逡巡をして雪雄の手は止まる。
なにを言っている。今のお前はなんだ? 超能力者なのではないのか? お前は超能力なんて素晴らしいものを手に入れたというのに、これからも今までと同じように酷使され搾取されるだけの人生を歩むつもりか?
違うだろう。そんなことしたくないはずだ。超能力を持った人間が搾取される側になどいていいはずがない。ここから金を手に入れることは、搾取される側からの脱却の第一歩である。お前にはそれが許されている。誰もお前の罪を問うことはできない。
わかっているだろう? 馬鹿みたいに躊躇などするな。やれ……やるのだ……やってしまえ!
心のどこかにいるもう一人の自分がそう叫ぶ。
そうだ。
その通りだ。
雪雄は自分の中から聞こえてきた声を肯定し、漏れかかった弱い部分を踏み潰し蹴散らした。
今の自分はもうすでに『枠』の外側に位置しているのだ。『枠』の外側にいる以上、『枠』の内部を取り締まるもので、超能力を持つ雪雄は縛れない。
雪雄は扉に触れて電子ロックを開錠する。
常識? 法律? そんなものは『枠』の内側にいる奴が守るものであって『枠』の外側にいる今の雪雄が守らなければならないものではない。そんなくだらないものなど知ったことか。今の自分には『枠』の内側を蹂躙することが許されているのだ。
雪雄は扉を開けて中に入る。
誰もいない銀行の内部やはり真っ暗だった。雪雄は懐中電灯を取り出して明かりを点け、それを頼りに暗闇に閉ざされた建物の内部を進んでいく。
懐中電灯の頼りない明かりに照らされて見通しの悪い廊下を進みながら、やっぱり、と思う。
暗闇というものは恐ろしい。それは超能力を手に入れた今も同じだ。ただ暗いというだけでなにかおぞましいものがいるのではないかと思えてくる。暗闇が恐ろしいというのは、人類の遺伝子に深く刻まれている情報なのだろう。
それでも歩みを止めるわけにはいかない。ここで臆病に駆られてしまってはなんの意味もない。ただの負け組に逆戻りだ。もうそんなものになりたくないし、それに今はもうなるべきではない。
暗い廊下を進んでいく。一歩一歩しっかりと。着実に進んでいく。この銀行の金庫を見つけるために。
さらに進み階段を下りる。無音なので、足音だけがやけに響く。
もし、今この場に、とても形容できないようなおぞましい化け物が現れてしまったらどうなるのだろう。
きっと、蹂躙され食い散らかされゴミのように殺される。
雪雄は超能力を手に入れた。しかし、それは化け物を退治できるようなものではない。それどころか、相手が人間であっても三人に囲まれたら簡単にやられてしまうだろう。
だが――
この世界に化け物はいない。人が恐れるものは得体のしれない化け物ではなく同じ人間だ。獰猛な猛獣よりも、致死性の高い感染症よりも、凶器を持ったクレイジーな人間が一番恐ろしい。人間が恐れるべきは同じ人間なのだ。
この世界でもっとも残虐な生き物はヒトなのだから。
地下を進んでいくと、目の前に分厚い扉が目の前に現れた。
あれだ、と雪雄は確信する。
あの先には自分を変えるだけの金がある。
一体どれくらいあるのだろう。少なくとも、このキャリーバッグを満タンにできるくらいの金はあるはずである。
高鳴る心音とともに一歩一歩進み、分厚い扉へと近づいていく。
普通ならば一生かかっても手に入れることができなかった金額の金を手に入れられるという歓喜と、これを盗んでしまったら自分は決定的に犯罪者になってしまうという二つの想いが綯い交ぜになる。
違う。
雪雄は首を振る。
ここから金を盗んだって雪雄は犯罪者になどならない。ここから金を盗んだのが雪雄とは誰もわからないのだ。
分厚い扉に手を触れる。
『錠前突破』の能力を起動し、この巨大な扉を閉ざしているあらゆるロックを突破していく。どれほど強固に閉ざされている扉であろうとも『錠前突破』の能力の前では、ただの鉄の塊である。
しばらくかかってすべてのロックを解除した手応えを感じた。巨大な扉を開ける。はっきりいってロックを解除するより、この重く巨大な扉を開けることの方が大変だった。
全身の力を使ってなんとか巨大な扉を開ける。
その先には――
今まで見たこともないような金の山があった。まさしく目も眩むような金額――とてもじゃないが数え切れるものではない。見渡す限りに百万円の束が置かれている。
雪雄は帯封された一万円札の束を手に取る。
百万円は思っていたよりもずっと軽かった。
自分が働いていた時、月にもらっていた金額はこの五分の一ほどだった。それが山のように存在している。どうしてこんなに金があるのに自分には回ってこないのか。おかしいじゃないか。どうしてこの世の中はこんなにも理不尽なのか。むかむかと真っ黒な苛立ちと憎しみが湧いてきた。
だが、いい。今日のところは許してやる。そんなことに苛立っていてもしょうがない。これから自分はいくらでも金を手に入れることができるのだ。雪雄はもう負け組などではない。搾取する人間から搾取する立場になる。寛大な心で許してやろうじゃないか。今日その前哨戦。初めの戦いなのだ。
雪雄はキャリーバッグを開き、札束を入れる。二つ、三つ、と次々と入れていく。バッグの中にはどんどんと百万円が積もっていく。二十個ほど入れたあたりから数えるのが面倒になった。
ほどなくしてキャリーバッグは満タンになった。恐らく札束は百個ほど入っているだろう。百万円が百個――金額にして一億円である。
一億――
超能力を手に入れることがなかったら絶対に手に入れることができなかった金額である。それだけあればなにもかも変えられる。間違いない。
無職であることに焦りや苛立ちを感じる必要などこれでなくなった。仕事を探す必要もない。金が少なくなってきたら、今日のようにどこかから盗んでくればいいだけなのだから。
雪雄は小さく声を上げて笑っていた。
顔に歓喜に笑みを浮かべたまま一億円の入ったキャリーバッグを引いて金庫の外に出て、巨大な扉を思い切り閉めた。そして再び扉に干渉し、ロックを元通りにしておく。
誰も金庫の扉が突破されたなどとは思わないだろう。そして頼りである監視カメラには誰も映っていないし、機械警備も作動していない。
なにも知らない人間からすれば幽霊のような存在が金庫から金を盗んだとしか思えないだろう。
しかし、一億円をバッグの中に入れても、金庫の金額が減ったようには思えなかった。一億という莫大な金額をかっぱらったはずなのにもかかわらず。
銀行は一体どれだけの金を所有しているのだろう。この支店だけであれだけの金額なのだから、すべての支店を合わせたらとんでもない金額になるに違いない。果たして銀行の人間はこれに気づくのだろうか。
気づかれなかったのならそれでいい。それがベストだ。わざわざ自分がやったなど言うつもりはさらさらない。そんな馬鹿みたいな虚栄心を張ったところでなんの意味もないのだ。馬鹿なことは馬鹿がやればいい。自分はやらない。ただそれだけだ。
命よりも重い金が詰まったキャリーバッグを引きながら来た道を戻っていく。金の詰まったキャリーバッグは、その重量以上に重さを感じた。
そんな重さも悪くない、と思う。
これで雪雄が生きる世界は激変する。
雪雄はこれですべてを手に入れたのだ。
雪雄を咎める者は誰もいない。ささやかではあるが、自分はこの社会から勝ったのだ。
これからもきっと勝ち続けるだろう――雪雄は心の底からそう思った。
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