エラン・ヴィタールは逃げ出した

増岡

 白目部分の多い目が、こちらを見ていた。


 俺に顔面を近づけて、まぶたの上にブラウンのアイシャドーを乗せている。

 アイライナーを筆ペンのようなもので引き、ハサミ型のコテでまつ毛を上向かせた後、毛虫のような何かを使ってまつげに繊維を塗りたくった。


 生気なく重たそうなまぶたや、色素の薄い肌、への字に曲がった不満そうな口には非常に見覚えがあった。

 十六年以上の付き合いだ。

 そう、差し込む朝日のせいで鏡が見づらい室内で、黙々と化粧をしているのは、俺だった。


 化粧ってすげーな、盛れるんだな、と感心をしていると、パジャマ代わりのよれよれTシャツを脱いだ俺は、ブラジャーをつけ始めた。

 予想をしていたことではあるが、双子の姉のブラジャーを双子の姉に背後から見守られつつ装着する、という状況に混乱と羞恥と絶望感が胸中を駆け巡る。


 俺の男としての尊厳を返せ、チクショウ、わがまま姫が。


 ため息をつくことも、身悶えすることも、咆哮することもできないまま、まるで男に服を剥かれる少女のような無力感を抱きながら、太陽の光を受けて白っぽく光る己の上半身を見やる。

 無駄な脂肪がなく割れた腹筋が控えめに浮かぶ体は、我ながら素晴らしい。

 ただ、その胸元に不恰好な二つの突起さえなければ。


“ソイツ”にとって物珍しいのか、自分の手がぺたぺたと自分の腹をしばらく触っていた。

 腹筋の割れ目をひ人差し指で辿ったりしている。


 その間俺は

 痴漢だー! 痴漢だー!

 やめろ、今この場で殺してくれ、舌を噛み切って死なせてくれ、と意識だけを頭の中で暴れ回らせていた。


 スウェットを脱ぎ、姉から差し出されたLサイズの黄色いワンピースを着る。

 胸の下で切り替えがあり、体の凹凸を強調するガーリーなデザインである。

 柔らかなレーヨン素材で、レースとシフォンが控えめにあしらわれた、女子が着ていればかわいいんじゃねーの、と頷くデザインのもの。

 背中のファスナーを閉めてもらいながら、俺は左側に艶ぼくろのある唇へ口紅を塗り、さらにツヤツヤの透明な口紅を塗り重ねた。

 なんだこれ、油物でも食べた後の演出か?

 知っちゃいるけど、化粧というものは俺の美的感覚の先を行っている。



「よっし、かわいくなったじゃない!」


 鏡の中の俺がはにかむように口元を緩め、うつむいた。ちなみにムダ毛は昨夜姉に強要され、ばっちり処理済みである。

 とりあえず、ウブに照れるんじゃねぇ、俺。キモいから。

 その姿、クラスメートに知られたら死ぬぞ、社会的に。



「じゃあ、水族館。予定通り、ペンギン、見にいこう」



 頭にゆるくパーマをあてたセミロングのウィッグを取り付けた後、細く繊細なネックレスを装着させながら姉が言い、


「うん」


 と鏡の中の俺は俺の意思を置き去りにして嬉しそうに頷いた。





◆・◆





 俺、餌太郎(ニタロウ)と双子の姉、一姫(イチヒメ)は、霊感がある。

 俺は霊媒体質で、一姫は霊媒体質を除く全ての霊感を持っている。

 霊が見えるし話せるし触れるし降霊も除霊もできる。

 つまり、二人合わせて百パーセントの霊感を発揮できる、というわけである。

 双子だけに。

 やかましい。



 そんなわけで、俺は一切の事情を聞かされていないが、現在俺の中には女の子の霊が入っているらしい。

 一姫は人助けと霊助けが大好きで、こうやって週に二、三回は俺の体を勝手に使う。

 取り憑いた霊の名前も姿も、彼女が俺の体を借りて街に繰り出したい理由も気持ちも何もわからないが、俺は断る権利を剥奪されて付き合わされている。

 なんたって、朝起きたら既に俺の中に知らない女がいておしゃれにシリアルを食べていたのだから。


 電車を乗り継いで訪れた水族館のペンギンを彼女は飽きもせず三時間眺め続けた。

 なぜ時間がわかるかというと、時々俺の視線がペンギンから逸れてペンギンが遊ぶ氷で覆われた山の向こう側にある時計へ焦点を合わせるからだ。

 俺は最初の十五分ほどで飽きてしまったので、残りの二時間四十五分間は、瞳がオートマチックにペンギンを一羽一羽追いかけるに任せるしかなかった。

 映画館の座席に縛り付けられて意味のわからないフランス映画を見させられる以上の苦痛を耐え続ける。

 気がつけば一姫の姿はそばになく、俺は一人女装姿のまま取り残されていた。


「ねえ、あの噂知ってる?」

「なに?」

「学校のそばにある歩道橋の噂。ほら、年明け、一月の末頃に事件があったでしょ。大学受験前の先輩が誰かに突き落とされて死んじゃったやつ」

「踊り場で止まらず、一番下まで落ちてたんでしょ?」


 ぴく、と俺の意識の内側で背中が跳ねた。

 これは、間違いない、俺の高校の近くであった事件だ。

 犯人が見つからず今なお捜査が断続的に続いている、と言われており、確かに入学したばかりの春先は警察官らしき姿をちらほら見かけたりもした。


「今でも、犯人、出るらしいよ」


 出るってなんだ。

 生きた人間の話なのか?


 どうでも良いペンギンの姿に飽き飽きしていた俺は、その噂話に耳を傾けつつ、早くここから逃げ出したいと焦る。

 もしこれがクラスメートじゃないにしても、同じ一年生なら、俺の顔を知っているかもしれない。

 いつ女装した、実際にはさせられたのだが証明してくれる人はどこにもいないこの不幸な状態の俺に気付くかわからない。

 足に根っこでも生えたみたいな自分の中の霊に早くここから動いてくれ、と必死に呼びかける。


 その思いが通じたのか、ふらり、と俺の体が ペンギンの前から動いた。

 そのままふらふらと順路を進み、途中にある関係者以外立ち入り禁止の扉を押し開けて中に入ってしまう。


 なんだなんだとテレビでも見る気分で見守っていると、デッキブラシやバケツをまたぎ、ダンボールが積まれたスチールラックの間をくぐり抜け、どんどん入り組んだ通路に入って行く。

 薄暗い通路の突き当たりに、明るい光を窓から漏らす扉が現れた。


 そっとドアノブに手をかけ、音が立たないよう、ゆっくりと回す。

 俺の頭が室内にやや突っ込んで、中に誰がいるのかを確認した。


 つなぎを着てゴム長靴を履いた男がひとり。パイプ椅子に腰を下ろし、電子タバコを付加しながらスマホ画面を弄っている。


「あの」


 久しぶりに発した声が完全に男のそれで、俺はあわてて咳払いをする。

 喉の調子を整えてもう一度声を出した。


「すみません、道に迷ってしまって」


 嘘つけ。

 んなわけねーだろ。

 バラエティ番組に突っ込むノリで俺は意識の中で独り言をつぶやく。


 スマホ画面を見ていた男が最初、けげんそうにこちらを見て、すぐに表情を営業スマイルに切り替えた。

 いや、なんか違う。

 この粘っこい感じは絶対営業のそれじゃない。


「ダメだよ、ここは関係者以外立ち入り禁止だから。ここまで来たってことはずいぶん歩いただろ」

「はい」


 俺の左手がワンピースの胸元を少し下げ、右手がうちわのようにぱたぱたとひらめく。


「仕方ないな、出口まで送ってくよ」


 男は多分、三十代だ。

 さわやかに短めに切り揃えた髪と、にこにこした表情、目尻に笑い皺の寄ったまんまるい目が人懐っこく、母親ウケしそうだなと思う。

 彼の手が俺の背中にぺったりと触れた。

 熱い手のひらで、そこからカッと燃えるような羞恥心が沸き起こる。

 やばいぞ、コイツ。

 なにかわからないが、絶対やばい。

 だって、左側に立ってるのに、俺の右腕に指先が触れてるんだぞ。


 自然な動きで俺の背中に腕を回した彼は、俺がもと来た通路を戻るのかと思いきや、途中で反対方向に道を曲がった。

 どこかに連れ込もうとしているらしい。


「あの」


 俺が口を開いた。


「ジュース」


 指をさした先には自販機。


「ジュース買っていいですか?」

「ん? いいよいいよ。おごったげる」


 缶コーヒーをおごってもらい、俺たちは備え付けのガムテで破けた座面を補修したベンチに腰を下ろす。


「きみ、どこの大学?」


 大学ぅ⁉ と驚いたが、自分は男である分一姫に比べて背は高いし顔の作りも女子として見るなら大人びているから、おかしくはないのかもしれない。

 いやいやいや、おかしいだろ、どこか絶対。


「××大学です。三年目です」


 俺の霊はさりげなく成人済みアピールをして行く。

 雲行きがどうとっても怪しい。


「ぼくと同じ大学だ! すごい偶然だね」


 膝の上にある俺の手にその男は手を重ねる。

 鳥肌が立った。

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、吐きそうだ。

 もしこれが俺の支配下にある体なら涙ぐんでいたかもしれない。


 なのに男は俺の耳に唇を寄せて続ける。


「後で、大学のこと話したいな」

「えー?」


 俺は気色の悪い声でくすくすと笑っている。


「なんか、久しぶりに大学の名前を聞いて、懐かしくなったんだ。色々いい情報も教えてあげられると思うよ。ご飯、おごるし」

「どうしようかなぁ」


 男の手が視界の隅で俺の膝あたりに伸びた、体温がふわりと膝に乗りかけた時、


「いい加減にしろ、この、女好きが!」


 俺の右腕が一閃し、男をグーで殴り飛ばしていた。


 男の体が半回転し、壁に叩きつけられる。

 重低音とともにずるずると床へ崩れ落ちた。


「わっ、けっこう飛んだ……」


 小声で俺が驚き、殴られた衝撃と驚きと俺の地声に理解が追いつかない男が、「あ、え? え?」と口をパクパクさせる。


 俺は危機を脱した安堵で意識を手放しかけていた。

 体が動かせていたなら腰を抜かしていただろう。

 俺が男で良かった。

 鍛えていて良かった。

 この感じだと腕力でこの男に負けることはないだろう。


「一部始終、写真とボイスレコーダーと動画に納めさせてもらったわ」


 廊下の奥、ブルーシートの陰から一姫が颯爽と飛び出して来た。


 最初からそのつもりだったのかよ。こいつ、後でゼッテーぶっ殺す。


「は? グルかよ? お前ら」


 一姫と俺を交互に見て、そいつは情けなくへたり込みながらあざ笑って来た。


「双子か? 女装趣味? まだ高校生か? 大人を騙すなんてオマエらサイテーなクソガキだな」


 趣味じゃねーよ、首洗って待ってろ、一姫の後にお前をシメてやる。


「いい加減、女遊びするのやめなよ、エンドウさん」


 俺の中の霊が、そいつの前にしゃがみ込んで説教を始めた。


「かわいい奥さんも、三歳の娘さんもいるんでしょ? 大切な家族、泣かせちゃダメだよ」


「なっ……人のこと調べたのかよ。ストーカーで訴えるぞ」


「いくらでもどうぞ。こっちは何も悪いことしてないから。でも、あんたも覚悟なさい。もしまた不倫したら、この動画を職場にばらまくからね」


 一姫がスマホで撮った動画を男に見せる。

 そして、茶封筒に入れた何かを叩きつけた。

 勢いよく中身が飛び出す。

 男女の痴情を撮った写真だと、恐らく俺の中の霊が生前に撮られた写真だと、想像がついた。


「オマエらフウカから頼まれたのか? おい! 汚ねぇマネしやがって。死んでもオレを困らせるんだな。ホント、クズだぶっ」


 俺の手がもう一発殴っていた。

 顔面中央に拳がクリーンヒット。

 三秒あけて、鼻血が吹き出る。


「暴行ざぐっ」


 ハイヒールで男の腹を蹴り、尖った踵を太ももに突き刺す。

 グリグリ。

 踵がちょっと陥没した。

 男の腿に穴を開けたかもしれない。

 男は唸り呻き身をよじる。


「そこ。あんたのチンコ、殺してあげようか?」


 言うが早いか俺は足の間の膨らみを踏み付けていた。


 やめてくれ、せめて、目をつぶってくれ!


 精神的ショックが何重にものしかかり、俺の意識がぼやけ始める。


 男は男でもう息するだけで精いっぱいなのか、鼻血だけではなく泡を口から噴いて床に痙攣しながら伸びていた。


 しばらくその無惨な様を無言で見下ろした後、霊はようやく結論を出す。


「一姫さん、もう充分です。行きましょう」





◆・◆




 ようやく家に辿り着いたのはどっぷりと夏至の太陽が沈んでからだった。

 今頃が夏至だと言うことを知っているだけで、正確には何日なのか知らないけども。


 あれから姉のおごりで霊はパスタを食べて、あちらこちらと彼女の思い出の場所を回ったあげく、ここが最後がデートだったとビル屋上の観覧車に乗り込み一周する間一姫に抱きついて泣き続け、一周しても涙が止まらず結局閉園時間までベンチで鼻を鳴らし続けたのだった。

 家族に遠慮して別れたものの気持ちの整理がつかずやけ酒の結果事故に遭い死亡。

 男の三股四股を苦々しく思った結果の今日らしい。



「アネキ」


 一姫の部屋の扉を開け、風呂に入って化粧を落とし泣き腫らした目に氷を当てながら一姫を呼ぶ。

 霊は帰宅とともにどこかへ去って行った。

 一姫曰く、成仏はまだしないらしい。

 乗り合いバスが二ヶ月後とかで。


「今日の、なんだよ」

「ごめんねぇ」


 手を合わせるでなく目線を合わせるでなく、彼女は札束を数えながら謝る。


「事情くらい説明しろよ」


 レイプされる女子高生の気分だったことはプライドにかけて言いたくないが、今日はいい加減腹がたった。

 腹わたが煮えくり返って手当たり次第物に八つ当たりしたいくらいだ。

 とりあえず手にした氷を水ごとこいつにぶっかけたい。


「ごめんね。言っちゃうとにぃくん、協力してくれないでしょ」

「当たり前だろ。誰が協力するかよ」

「だから、言わなかったの」


 一姫は人助けが好き。

 霊助けが好き。

 そのために犠牲になる弟の気持ちも姿も見えていない。


「頼める人もいないし、フウカさんが一番あの男のことわかってるし、それににぃくんは男でしょ。鍛えてるし、いざとなったらオカさんついてるし」


 オカさんとは本名岡本さんで元刑事ニ課所属、死因は殉死ではなく腎不全。

 犯罪者を取り押さえるプロだ。

 俺に取り付く霊をフウカからオカさんにバトンタッチすればなんとかなる、と言いたいらしい。

 こいつにとって俺は、霊をぶっ放すためのリボルバーか何かか。


「にぃくん、はい、これ」


 差し出されるATM用銀行封筒。


 黒子だけ反転させた俺とよく似た顔で、一姫はにこっと笑って頰にピースサインを当てた。


「今日は精神的にけっこうキツかったでしょ。特別手当に諭吉さん、ボーナスしてるから」


 彼女は決まって時給二千円を霊媒師代として俺に支払う。

 今日は十時間だから合計でおおよそ四万円。高校生の日当としては破格だが。


「ふざけんな」


 封筒を引ったくってビリビリに引き裂いた。

 彼女からお金を貰いすぎて、労働の対価としてのそれを軽く見るようになったのでは決してない。

 全身の血が沸騰して爆発しそうなくらい、腹が立ったのだ。

 目の前が真っ赤になって熱気で霞んで何も見えない。


「ふざけんな、あんな美人局みたいなことしといてたったこれっぽっちとか」


 一姫の頭に万札の紙吹雪を降らせる。


 金で解決させられようとしたことが、この気持ちがお金で解消できると言われたことが、怖気が走るほど嫌だった。


 きょとん、と出目金みたいに俺を見上げる一姫をそのままに、自分の部屋へ駆け戻る。


 机の上に散らかしたままの宿題や参考書を見つけ、奥歯を内頰ごと噛み締めた。

 プツ、と皮膚が切れて血の味が広がる。


 一姫がくれるお金は、彼女が以前霊助けの報酬として霊からもらったうちの半分を投資し、株やFXで増やしたものだ。

 霊の力を借りて合法的なインサイダー取引まがいのことをやっているらしい。

 彼女はそのチートな能力がある限り、社会に属さなくても生きていけるんだろう。


 けど、俺は違う。

 俺は勉強して良い大学に入って良い会社に就職して、社会の一員として生きるしかない。

 何がなんでも独立して、この家から、あの悪魔みたいな姉から解放されたいのだ。


 せっかくの休日をクソみたいな霊助けに潰され、俺は一問も勉強を進めることができなかった。


 口の端から流れる血を手の甲で拭き取りながら机に向かう。


 今もらうあぶく銭よりも、努力を積み重ねて稼ぐ給金だ。



 今日の事は黒歴史に封印して、一問でも問題を解こう。

 俺はシャーペンを握りしめ、ノートを開く。

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