第一章 自分だけの物語

第一章 自分だけの物語(1)

『母さん、友達の家行ってくるね。悠斗(ゆうと)』


 俺はメモ帳に母さん宛の要件と俺の名前を書き机の上に置いた。正直、このメモが読まれることはないだろう。なぜなら、遊び終わって家に帰るころでもまだ母さんは帰っていないはずだから。でも、なんとなく、やっぱり書きたくて俺は自分の行き先を書き記す。いつものこと。


 靴を履いて玄関のドアを開けると、勢いよく飛びだす。


飛びだしてから鍵を閉めたかどうか気になって顔を玄関のほうに顔を向ける。そのとき、ふと壁にかかっている表札が視界に入った。


【八尾神(やおがみ)】


 俺の苗字だ。そして嫌いな苗字。この字を見るだけで嫌になってくる。一度母さんに旧名に変えないかと提案したが思いっきり怒られた過去もある。ただ、とにかく嫌いだ。


「ふん……くそったれ」


 足で一度表札に蹴りを入れるとドアノブを触り、鍵をかけていたことを確認すると友達の家に向かって走りだした。


 俺は中学二年生に上がったばかり、これから一年のとき同じクラスだった親友の家に行くところ。だが、その途中目の前に五歳にも満たなそうな幼女が視界に映った。道端で何かを叫びながらひたすら泣いている。


 最初は面倒だと感じ通り過ぎようと思ったが、その幼女の視線の先にあるものに気付き足を止める。俺が通る道の横はそれなりに深い川。その川で一匹の子犬が溺れていたのだ。


「なぁ、もしかしてあの子犬、君の?」


 幼女は少し頷くが泣き叫び続ける。その反応を見てすぐにあたりを見渡した。大人の男性がいればすぐに助けが呼べるが、見た感じ近くにはいないみたい。

 犬は基本泳げるがあいつは子犬。おまけに流れがあればあいつはまともに岸まで上がれない。このままではあの子犬は流されていく。すぐになんとかしないと手遅れになる。


「待ってろ、俺が助けてやる」


 すぐに決意すると幼女の頭に一度手を置き、川を睨んだ。


 こういう場合大人の人を呼ぶのが定石。でも今はそんな悠長なことは言っていられない。

 俺はある言葉を大切にしている。その言葉は誰かの偉人が言った言葉だったか、はたまた何か本や漫画で見たセリフなのかは覚えていないが、大切にしている言葉。


「これは自分だけの物語なんだ」


 そう呟き、川へと飛び込んだ。自分の中では自分だけの物語。それはあの幼女の物語でもなく、周りにいない大人の物語でもない。あの幼女の中にはあの幼女だけの物語があるように、俺の中には俺だけの物語がある。だから、俺自身で判断して、俺が行動する。


「ぷはぁあ、よし、もう大丈夫だからな」

「キャン!!」


 流れに逆らいながら子犬を掴む。そこにふわふわした毛並みの感触はなく、完全に濡れきった子犬があるだけ。体温も下がっているな……。


 すぐに岸で泣き続けている幼女の所へ戻る。岸までたどり着くと俺よりも先に子犬を敷に上げた。


「息はしているからな、タオルがあるならすぐに拭いてから体を温めてやれ」


 幼女はそんな俺のことも聞かず、助けた子犬にただ抱きつく。そんな事をすれば自分も風邪をひくぞ、そう言いたかったが、ただ泣きながら子犬を抱きしめるその姿に安堵した。


「よし、じゃあ俺も上がるか……」


 そう思って手を岸につこうとした瞬間、右足に鈍い衝撃が走った。気が付いたときには視界が一気に横転、水面の境を越えて沈む。川上から流れてきた何かにぶつかったのだ。そう理解するころには完全に体は岸から離れていた。


 気が動転し、ただがむしゃらにもがく。だが、右足に響く激痛は並大抵のものではなかった。水面に顔を出し、息を吸うことすら忘れ、ただ川の流れに任されていく。意識が朦朧とすらし始めた。いや、既に今の状況も把握できない。なぜか空間が広く感じてさえいる。


 何度も何度も体が回転を重ねていく。川の勢いがどんどん加速していくような感覚。もはや上下感覚も完全になくなっていた。

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