3-7:強襲
「……驚きましたわ」
細やかな金色の繊維はヴェニタスの体から、ずりゅずりゅと抜け出すと、彼のすぐ傍で元の美しい獣人の姿へと形を戻した。
「これだけやっても、まだ自我を保っていられるなんて。流石はわたくしの夫ですの」
「……ぁ……ぅ…………ぁぁ」
パロンのどこか恍惚にして誇らしげな声に対して、ヴェニタスの返事は小さく細く、いまや虫の息となっていた。漆黒を呈していた長髪はストレスで真っ白に脱色し、刺すような力強さを感じさせていた眼光はめっきりと失われていた。
とはいえ、そのような状態なったとはいえ……彼はぎりぎりの自意識を残していた。それは彼の持つ人並外れた精神力がもたらした成果であり、恋を成就させるには手段を選ばないパロンにですら、次の一手をどうしたらよいか、悩ませた。
「うーん、困りましたの」
ヴェニタスをこれ以上肉体的に痛めつけたとしても、精神面で彼を崩すことはできない。生命力が失われ、この先も共に過ごせる時間が短くなっていくばかりだ。おそらくは、彼の心の支えとなっている何かを見つけ出し、崩さなければ、心身を揃って手にすることはできないのだ。
「はぁ……ほぼ間違いなく、あのレイス帝か、ユファ副隊長が生きているせいですわ。どうしたものでしょうか……わたくしには、あの伝説級の化け物達を始末するなんて、無理難題にも程がありますし」
彼女はしょげかえって、耳をぺたりと下げた。
“もう自分はこの辺りで諦めるべきか”と、顎に手を当てて、冷静に、深く自身の心に問いかける。
しかし、その答えは脊髄反射並みの速度で返されたようだった。パロンの瞳がめらめらと燃え、体中の毛が感情で逆立っていく。
「有り得ませんわ! 彼の胸中に他の誰かが居座っているだなんて、腹立たしい! ええ、どんな桁外れの強敵であろうと、片づけてみせますわ!! むしろ、それくらいの障害があってこそ、愛は燃え上がりますもの……!」
パロンが決意と高揚でわなわなと震えている最中、彼女の背後で滴り落ちる音が鳴り響く。それは雨嵐が家屋に叩きつける音に比べて随分と小さいものだったが、縦長に伸びた彼女の三角耳はぴくりと動き、高精度に聞き分けた。
「……え?」
彼女は振り返り、呆気に取られて口を開けた。
窓から差し込む月光を受けて、ゆらめく影が長く伸び、パロンの背後で、薄透明の何かが天井高くまで、水飴のように伸び上がっていた。
「……何者!? いつのまに……! ――っ!」
切れ長の瞳孔を大きく開くと、その後の動きは素早かった。ヴェニタスを抱きかかえて側面へくるりと宙返りし、四足の獣のように両手足で綺麗に床に着地する。
間一髪だった。轟音を上げる水飛沫が二人のいたベッドに直撃し、水圧によって見るも無残に叩き潰していく。
「あれは……スライム? なんで……」
彼女の睨みつける先。破壊された木材や布地の隙間から、ちろちろと透明な液が滲みだしていく。細く伸びたそれらは、やがて小川が本流に合流していくように、自ら集まり、圧縮されていく。
「変化!」
すぐに第2撃が来ると予想し、パロンはヴェニタスを後ろに置いて、右腕をタワーシールドに、尻尾を先の尖った支柱に変える。
尻尾を急ぎ床に突き刺し、姿勢を安定させた。
間もなく、スライムの方から、容赦ない水の激流が発射される。
「ぐぅっ!」
ぐわんと激しい金属音が響いたかと思うと、高圧水流はシールドの表面にぶつかり、室内に凄まじい勢いで弾け、飛び散っていく。
パロンはあまりの衝撃にふらつきながらも、床に突き刺した尻尾に力を入れて上手くバランスをとる。
「ああ……! 新婚夫婦の愛の巣に挨拶も無く踏み入るだなんて、この不届きもの! 一体どこから忍び込んだんですの!?」
彼女は銀の瞳を動かし、探す。そして、捉えた、
雨漏りを防ぐために、あちこちに置いておいたお盆。それらに溜まっていた雨水が、一切消えていた。
「そう、最初から……ずっと前から居たというわけですわね……! 水が十分溜まるまで様子を伺って……!」
スライムの力は、周囲の水量に比例する。おそらくこの魔物は嵐が訪れ始めた頃から、天井に浸みが出始めたころから、既にここに居たのだろう。もう十数秒は続く、この高圧縮された水の放射が、スライムの蓄えてきた水量を否が応にでも彼女には理解できた。
そして、その水流は突然ぴたりと止まった。
「……終わった?」
彼女がタワーシールドの位置を少しずらして様子を伺うと、崩れたベッドのあった所からスライムの姿が消えている。
「消えた!? どこに……」
両の狐耳の向きをぴこぴこと変え、耳を澄まして魔物の位置を探す。
その結果、三角の耳は、背後から、ぴちょんと液の落ちる音を聞き取った。
彼女は晒したままの胸元まで垂れ降りていた長髪を背中に払い上げる。
「……随分、人の後ろに回り込むのが、お好きのようですわね」
流し目で背後を見ると、支柱に変えていた尻尾の“変化”を即座に解除した。そして、
「変化っ!」
尻尾を今度は巨大な銀の長刀に変えると、くるりと振り返りざまに、後ろに隠れていたスライムを一刀のもと断ち切った。
「ざまあないですわ! わたくしたちの邪魔をした罰ですの!」
ヴェニタスを大事そうに抱え込むと、斬り倒した液状生物から距離をとって様子を伺う。
「ん……?」
真っ二つになったスライムは双方が同じ動きで、うにょうにょと形状を変え、これまた双方が同じようなサイズと形状に姿を変えた。
頭を上げた蛇のようにスライム達はとぐろを巻き、二匹が鏡に映したように全く同じ動きでこちらを威嚇している。
「ふ、増えてしまいました……」
苦笑いし、焦りを見せるパロン。
腹が立って安易に斬りつけてしまったが、スライム、本来は炎や氷など、物理攻撃以外で対処すべき魔物。
自分にはそのような魔術は使えない。もし単純な物理攻撃が効かないようであれば、他の手段を用意しなければならない。
距離をとり、必死に考える。
「ですが、軍からの情報を信じれば、この液体のどこかに“核”と呼ばれる心臓のようなものが隠されているはずですわ……それを壊せば……」
しかしそのサイズは小指の先程しかないという話だ。自分に上手く引き当てられるか。
パロンが後ずさりながら考えている間も、スライム達は、今にも襲い掛かってきそうなほど大きく反り返っている。
パロンは足元に力を入れ、いつでも回避できるように備えた。
「……あら? どうしたんですの、貴方?」
「ぁ……ぁぁ……!」
今や肉達磨人形と化し、言語能力すら失ったヴェニタスが、何かを感知したかのように囁いており、小さな擦れ声が胸元から聞こえていた。
彼の声を無事に聞き取れたのか、それともそうでないのか不明だが、とにかくパロンは、緊張で張り詰めていた顔をぱあっと輝かせ、溢れんばかりの笑みを浮かべた。彼をより一層ぎゅっと抱きしめ、胸に埋もれさせる。
「……ええ、ええ! 心配しなくても大丈夫ですわ、絶対に勝ちますもの!」
彼の呟きを自分への心配と解釈すると、逃げの態度から一転、はりきってスライム達に向かって疾走。
「変化!」
尻尾を大きな網に変化させ、すれ違いざまに一匹へ叩きつけた。
「どりゃあああ!」
どしゃんと激しい水飛沫を上げて、勢いよくはじけ飛ぶ一匹のスライム。
「捕らえた!」
パロンは小さな赤い核が、網にひっかかっているのを目視し、笑みを浮かべた。捉えた“スライムの核”を素早く網から取り去り、床に叩きつけ、その足で踏みつぶした。
どうだ、とばかりに振り返り、叩き散らしたスライムの方を見る。するとどうであろう、効果はテキメンだった。核を失ったそれは、どうやら元の形状に戻る様子はない。しばらくの間はピクピクとうねって集まろうとしていたが、諦めたように崩れ落ち、べしゃりと一気に水溜まりへと姿を変えた。
床に広がっていく染みを確認すると、パロンは飛び跳ねて喜んだ。
「やりましたわ!」
無反応のヴェニタスを強く抱き締め、頬に繰り返しキスをする。どことなく不快そうに顔を歪めている彼を尻目に、パロンは口元の唾液を拭い去ると、笑った。
「うふふ、この場で対策がとれると分かれば、もう簡単ですわ。もう一匹の方にも、お引き取り願おうかしら」
網に変えた尾を振って軽く水を払うと、もう一方の液状生物を嘲るように見据える。
パロンは余裕しゃくしゃくだった。
「って、何をしているんですの?」
しかし、スライムの方も対応を始めていた。
繰り返し分裂し始め、人間大から握り拳ほどのサイズに。数を増やした。そして、各個体が散開し、床や天井、壁に貼り付いていく。
「ちょっ、それはずるいですわ!」
態度一転。彼女は焦る。無傷でこの数を各個撃破するのは、困難を極める。しかもこの魔物、先ほどのやり方、つまりは網で核を掬い取りにくくするため、壁に薄く貼り付いている。
恐らくは、また何かしらの対策をパロンがとったとしても、再びあちらもそれに対する策を練ってくると思われた。
「っ、ああもう、面倒な……」
舌打ちをしている間に、スライム達は部屋中に散らばり、前後上下左右から、一斉に弾丸となって襲い掛かってきた。
対抗して、パロンは変化で防御しようと身構えて。
――その瞬間、あばら家の扉が軽快に開かれ、聞きなれた声と共に黒い閃光が部屋に満ちた。
「ヴェニタス! 大丈夫か!? 僕が来たぞ!」
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