★3-2:告白
目を閉じているヴェニタスは、彼女の妙な態度に気が付いていなかった。彼は考え込むように眉間にしわを寄せ、神妙に、ゆっくりと自分の意見を伝える。
「……それならいっそ、俺を殺してくれ。このさき誰かに一生、身の回りの世話をして貰うなんて、ごめんだ」
「え?」
パロンの顔から、たちまち笑みが消えた。
「助けてくれたところすまないが、悪魔像を持って一人で城に帰還してくれ。帝王には、夢を叶えるところを見届けることができず申し訳ないと伝えてほしい」
「え……それは……」
呆然と小さく口を開けたままになり、みるみるうちに銀色の瞳から光が消えて行く。
「それは……だめですわ。絶対に……」
ひどくショックを受けているのか、言葉が途切れ途切れになっていく。
だが、しばらく後、とつぜん何かが閃いたかのように、再び表情筋を緩ませた。
「あっそうですわ! ……うふふ、別に一生面倒を見てあげてもいいんですけれど、御心配なく。ちゃんと治る見込みはありますから」
「まさか、この状態から治せるのか?」
目を見開いて驚く彼を見て、パロンはくすぐったそうに、やわらかく微笑みを浮かべた。
「ええ……ちゃんと、わたくしの言う通りに大人しくしていただければ、また戦えるくらいまでには治る可能性は高いですわ。わたくし、貴方とこうして話をしている間にも、変化の術を使って貴方の死んだ細胞をせっせと排除しては新しく作り直して、死体から生きた体へと地道に回復させているんですから」
本来ならば、ヴェニタスの怪我はそれでも救い切ることができない程のものであった。しかし彼の体の再生力は、不死鳥との闘いで血を浴びて、その治癒能力をいくらか得たのか、不思議と人並み外れている。
希望的な見方が強いものの、パロンは彼を十分に治しきれると考えていた。
「ですから、貴方の体が十分に治りきるまでは、わたくしの傍を離れてはいけませんよ」
「そ、そうか……。治るかもしれないのか……それは良かった」
ヴェニタスは、ほうと軽く息をついた。一度は死を覚悟していたものの、また以前の様に自由に動けるようになる見込みがあると分かると、やはり安心したようだった。
「分かった。面倒をかけるが、よろしく頼む」
「うふふ」
「どうした……新入り?」
そんな彼の意外な反応に思うところがあったのか、パロンは布団の中で、もぞもぞと彼に顔を寄せた。目を細めて、とびきりの笑みを浮かべる。
「……いえ。別に大したことではありませんわ。貴方はお気になさらず、わたくしの言うことを聞いてくださっていれば、何も問題ありませんの」
かと思うと、緩慢な動作でパロンは起き上がった。その動作によって、ふぁさり、と布団は彼女の背後に捲り上がる。そして、月明りに、ベッドに座り込んだ彼女の裸体が照らし出される。
その姿は妖艶優美でいて、現実離れした雰囲気を醸し出していた。
「……何をやってるんだ? 服を着ろ」
「ふふ……」
ヴェニタスがパロンの体から目を背けると同時、彼女はうすら笑った。
何がそこまで嬉しいのか、小さく微笑みを浮かべる彼女の尻尾は、狂ったように暴れている。
「ああ……この先何があっても、わたくしの言うことを聞いてくださいね。だって――」
小さな犬歯を口から覗かせて語る彼女の表情は、獲物を前にした獣のようで。
銀色の瞳からは知性と理性を映すハイライトが消え失せ、目の前の想い人だけが残って、どろどろと澱んでいた。
「貴方がまた自由に歩き回れるようになるかどうかは、わたくしの気持ち次第なんですから……ね?」
ゆっくりと彼に上から覆いかぶさり、四つん這いになった。狐耳がぴんと立ち、線の細い金髪がさらりと、うなじから垂れる。
「それは……どういう……? おい、待て。なんのつもりだ」
この至近距離。ヴェニタスの声が聞こえていないはずはない。
しかし月明かりのもと、彼女はヴェニタスの顔をじっとみたまま、動かない。
頬は紅潮し、息は荒く。小さなお椀型の胸が、重力に引かれて呼吸の度にふるりと揺れている。
「……お互いに永遠の愛を誓い合ったことは、覚えておいでですか?」
いちご一つ分ほどの距離を空けて、彼だけに聞こえる声量で囁く。瞬き一つせず、意を決したように目を潤ませている。
「覚えてはいるが……あれは偽装だ」
「でも、誓いのキスは本物でしたわ」
彼女が有無をいわせぬ語調で語るのは、聖域に向かうまでの教会でのこと。ヴェニタスを見つめるその目は、真剣そのものであった。
「待て、意味が分からない。あれは任務上必要なことだったまでだ。お互いに意図していたことじゃない」
「ええ、そうですわね。なかなか強引でしたもの。わたくし、初めてでしたのに……うぅぅ……ひどいですわ」
口調こそ大袈裟に悲し気だが、彼女は獲物を前にした獣のように、チロリと舌なめずりしていた。そして、依然として熱っぽい視線をヴェニタスから離すこともない。
そんな妖艶な雰囲気を醸し出す上半身とは別に、まるで飼い主に遊んで欲しがる忠犬のように、ふさふさの尻尾はべしべしと彼の腰元へ繰り返し叩きつけられていた。
「それは……すまなかった。突然のことだったんだ。あそこで急がなければ司祭に止められて、聖域にはたどり着けなかった」
「ほんとうに、申し訳ないと思っています? フェニクスと戦ってる時だって断りもなく、わたくしの髪の毛を食べたりしましたよね? ひどくないですか?」
「……それも悪かったと思っている」
とはいえ、もともと任務を受けた際に誓いの儀式がどんなものか、パロンもラック隊長に説明を受けていたはずである。彼が心から謝罪するのは、主に髪に関する後者の内容についてだけであった。
「そうですか……ちゃんと悪いと思っているんですね。じゃぁ……」
彼女がベッドのシーツを掴む両手に力が入り、せわしない尻尾はいっそう暴れまわる。
空気が澱んだような気がして、身動きの取れないヴェニタスの背筋に、ぞくりと寒気が走る。彼は硬直した。嫌な予感がしていた。
「責任はとってもらえますよね……? もちろん?」
脅しとも懇願ともとれるような囁きを後に、目もとの潤んだ彼女は顔を近づけていく。共に、やおら開いた彼女の唇から、熱を持った吐息がかかる。
「お前……まさか……待て、待て待て待て!」
彼女の接近から逃れようと、自分の体を擦り動かそうとするが、動かない。そうしている間にも、彼女は四つん這いのまま更に顔を寄せてくる。いまや二人の鼻先が触れ合う程の近さにあった。
そしてもう一度、もはや獣の様な態度になり変わった彼女の顔を眺めてみれば、唇が触れる寸前で、ささやきが降りてくる。
「いいじゃないですか。あの時はぎゅっと抱きしめて、庇ってくれたじゃないですか。ね?」
パロンは目前の獲物に興奮して息を切らし、瞬きすら惜しんで目を潤ませている。
「わたくしの気持ちは、もうお分かりでしょう?」
ふだん生意気に吊り上げられた眉は下げられ、瞳は潤んで憂いを湛えている。
任務を始めた時の彼女と違って、意図的に顔色を窺うような上目遣いに、ヴェニタスは動揺を隠せなかった。
“愛していますわ”
その決定的な一声に、必死に彼女から顔を背けていたヴェニタスの動きが、びくりと止まる。
そしてそこに付け入る隙を見出したのだろうか。
パロンは、まるで合意を得たと言わんばかりに、まぶたを閉じた。
「ま、待てっ! お前は今どうかして――むぐっ!?」
ついに柔らかな唇が触れ、じんわりと圧力を高めていく。
「んっ、ぐ――」
生暖かい口が重なり合い、口内を押し分け、ゆっくりと、何かぬるりとした物が入り込む。まんべんなく内側を確かめるように、歯茎から喉奥まで、丁寧になぞっていく。
それは何度も何度も、彼の口内を周回した。
「ぷはっ、ねえ……、しちゃいましたね。ふふふ」
口を離し、恥ずかしそうに両の掌を頬に当て、首を左右に振っておどける。初対面のときとはまるで別人のような態度をとる彼女の変貌に、ヴェニタスは理解が及ばなかった。
「新入り、お前どうして――」
彼が語る途中でパロンは彼の唇に人差し指をあてがい、塞いだ。
「新入りだなんて、いまさら言わないでくださいまし。パロンって呼んでくださる? 前はあんなに熱く愛を囁いてくれたじゃないですか」
「あれは単にお前の髪の毛に――」
「ああもう、ちゃんと治りたいなら、言うことを聞かないといけませんわ。ほら、わたくしをパロンとお呼びになって。ほら、パロン、と」
彼の話に被せるように、パロンは声を大きくした。
光の無い瞳でじっと見つめ、ぱろん、ぱろんと、まるでヴェニタスの思考を塗り潰すように、洗脳するように、反芻する。その一言一言に、何が何でも我を通そうとする呪いのような意図が滲み出ていた。
「……新入り、こんなことはやめろ」
そんな彼女の命令に従うことなく、ヴェニタスはしかめっ面で、相も変わらず同じ呼び方をする。
「っ! くふふ!」
すると、パロンはびくりと震えた。尻尾をピンと伸ばし、ぞくぞくと震えさせている。
しばらく蕩けた瞳で彼のことを見つめていたかと思うと、もう我慢ならぬとばかりにすぐさまその顔を近づけ、また口内まで彼の唇をがむしゃらに襲った。
ヴェニタスが身動きの取れぬ今となっては、彼の発言なにもかもが、この獣人の嗜虐心を増長させていた。
「でも、一体なんなんでしょうね、ええ、なんなのでしょう! 貴方のそうやって反抗するところ、とってもいいですわ……無理やりねじ伏せてしまいたい」
唇を離すと共に、右手で自らの髪を耳にかけながら、穏やかに笑う。が、最後の言葉は存分に冷徹な響きを含んでいた。
「でも大丈夫ですわ。時間はたっぷりありますもの……ふふふ」
白銀色をした切れ長の瞳を細め、口をゆるりと開き、くくっと小さな喉を鳴らした。
「今日から存分に、楽しみましょうね。貴方」
「や、やめっ――やめろ!」
誰も住みつかない忘れ去られた地方。そこで、二人どちらのものともつかない嬌声が、夜明けまで上がり続けることとなった。
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