2-19:聖域

 鐘の音が遠く聞こえる。ゆっくりと瞼を開けると、いつの間にか、二人は真っ白な花畑の中に立っていた。


「ここが……聖域か……?」


 見回し、呟く。

 少なくとも、室内ではないようだった。見上げれば、雲一つ無い青い空が広がっている。浮かぶ太陽は、普段のそれよりも大きく、刺すようにぎらついている。


「……どうした新入り。押し黙って」


 眩しそうに目を細めながら、彼は自分の隣に目を向ける。

 そこには、白い花びらが舞い散る中で、真っ赤な顔をしたパロンが、ウェディングドレスのスカートをしっかと掴みながら隣に立っていた。


「ひゃっ、ひゃい!?」


 ヴェニタスの口元を見て動きを止め、ぼーっとしている。そして、目を泳がせたかと思うと、勢いよく顔を逸らした。


「にゃ、にゃんでもありませんわ!? べっ、べつに!」

「……ん?」


 噛み噛みで言い捨てた彼女は、ぎこぎこと機械的な音が鳴りそうな不連続な動きで、顔を見せずに足を進め始めた。

 そんな様子を不審がりながらも、ヴェニタスは辺りを見回しながら、速度を合わせて彼女の隣を歩く。


「ここは……どうなってる? 聖域か? 俺達は教会から、外に飛ばされたみたいだが」

「……こほんっ! えっと、アビスの聖域は、魔天が空に作ったとされています。言い伝えが本当で、わたくし達が無事に聖域に転送されたのなら、いま私たちが居る場所は……雲の上ですわ」

「ここが聖域だとすれば、この下は雲というわけか……そんなことが可能なのか? それなら俺達は、雲の上を歩いていることになるぞ?」


 咳払いしたあと、気を取り直して説明を始める彼女の言葉を聞きつつ、ヴェニタスは半信半疑で、花園に隠れた雲の下地を踏みしめて確かめてみる。力を込めた足はすり抜けることなく、綿を踏みつけているような不思議な弾力に返された。


「まあ、そうなのでしょうね。なにせあの伝説の魔天ですし……。悪魔の力を歴史上もっとも色濃く受け継いだと言われている魔術師の始祖ならば、これくらいのことは容易くできたのかもしれませんわ」


 そう言って、パロンは左腕を上げた。その伸ばされた人差し指の先、少し離れたところに、紫色の禍々しい建物があった。


「あれが本殿か。あの外観は……中に悪魔像が無いほうがおかしいな」

「まあ……ですわね」


 城のようにも教会のようにも見えるそれは、そこかしこが空間ごと奇妙に捻じれている。華やかな花園にあって、その場所だけが世界の綻びのように狂っていた。

 二人が目の前に立つと、間近で見たその石造りの建物は、何やら紫色の網目状をした血管がびっしりと纏わりついて、不気味に不定期な拍動をしていた。

 ヴェニタスはそれらに手で触れないよう、アーチ状の扉を強く蹴り開けた。開いた勢いで風が起き、内側へと花びらが流れ込んでいく。

 そして風音と共に、二人の耳に何かが伝わった。


「何か聞こえますわね。楽器の音? 誰か中にいるのかしら?」

「この音は……オルガンだな。どこかで聞いたような曲だ」


 得体の知れぬ建物の内部に二人は入り、列柱の並ぶ通路を抜けていく。頭上は一定間隔で天窓が大きく開けられ、そこから日差しが強く差し込んでいる。だというのに、中は湿っぽい。


「そういえば言い伝えでは、魔天はアビスにオルガンを聴かせていたそうですわ」


 床にも張り巡っている紫色の上を不快そうに踏み歩きつつ、彼女は長いスカートの裾を引きずっては、ヴェニタスのすぐ後ろから語りかける。


「ご自慢の音色をアビスに捧げ続けているということか? もしあの“魔天”が死んだアビスのためにここまでしているとなると、今朝に司祭から聞かされたアビス教の話も、あながち間違っていないのかもな」

「あはは……そんなまさか、ですわ……」


 彼らが奥に進めば進むほど、重厚なオルガンの音が大きくなっていく。


 そしてついに、二人は音の元にたどり着いた。薄暗く、だだっ広いその空間の中央には、黒いオルガンが一つ。だが、奏者は居ない。そこには誰も座ってはいなかった。椅子の上には、おそらく司祭の言っていた夫婦の名前を刻むべきであろう石板。それが一枚あるのみ。

 その、心臓のように脈打っている石の板切れから、紫色の血管が樹木のように建物全体へと広がっている。ヴェニタスには自然とそれが、何であるか理解できた。


「……あれが悪魔像だな」

「本当ですの? 前にラック隊長の部屋で見たものと、随分と形が違いますけれど――ひっ!?」


 そう言って周囲を探し見やったパロンは、軽く飛び上がった。

 この六角形の部屋の隅には、涎を垂らした異形の化け物がそれぞれ鎮座している。そのどれもが目玉だけを動かし、二人の動きをじろじろと見ている。


「ガ、ガーゴイル……それも、6体も……」


 その皮膚が無い真っ赤な体に、赤紫の血管が脈打っている。蝙蝠のように生えた歪な翼は艶めかしく堅牢で、今にも飛びかかろうかと、威嚇するように羽ばたき血を飛ばしていた。

 これらを見て、ヴェニタスはぴたりと歩みを止めた。


「……新入り」

「な、なんですの急に……」


 彼の何かを覚悟したような語りかけに、パロンは息を呑み、考える。

 ここに来るまでに、人数を二人に制限され、武装を解除され、身動きの取りづらい服装にさせられ、そのうえ魔術まで封じられた。

 そして、“今は”襲い掛かってこない、部屋の各隅に座する6匹の化け物達。

 否が応でも想像できる。ここで悪魔像を取り去るような真似をすれば――。


「お前、この任務は任せておけと言っていたな?」


 言うと、ヴェニタスはオルガンの椅子に近づき、すぐ石板を手にとれる位置に立った。近くで観察すると、名前と思わしき溝が、繰り返し上書きするように刻みこまれている。

 さながら樹木のように伸び広がった紫の血管がべったりと椅子の座面に伸び絡まり、簡単に取れないように固定されている。

 パロンが答えるまで、石板の前、彼は集中するように目を閉じ続けた。


「え、ええ……も、もちろんですわ! このパロン・ナインテイル、嘘はつきませんの! ど、どんとこいですわ!」


 しばらくの後、若干自暴自棄ともとれる言葉を、パロンは大きく放った。それを聞いて、ヴェニタスは口角をゆっくりと上げ、目を開いた。


「いい答えだ――逃げるぞ!」


 叫びを皮きりに、ヴェニタスは石板に手を伸ばし、強引に椅子から引きちぎった。

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