2-8:アビス教

 鐘の音が鳴り響く。

 緞帳どんちょうの陰から司祭が現れた。彼は銀の粒子が散りばめられた煌びやかなマントを羽織り、壇上にすり歩いていく。

 中央のテーブル前で、彼は立ち止まる。巨大な十字架を背に、ステンドグラス越しのカラフルな光を浴びながら聴衆の方をゆっくりと眺めていく。

 やがて彼は、口を開いた。


「おはようございます皆さん。本日も偉大なるアビス様に、祈りを捧げましょう……」


 その言葉と同時、入口の大扉は重厚な音を鳴らして閉まり、信者たちによって分厚い閂がかけられた。司祭はそれを確認すると、さも意味ありげに目を閉じ、手を合わせて祈祷を始めた。それを見て、礼拝堂に集まった大勢の参拝者達も続いて祈り始める。


「おい、これが終わったら、すぐにあいつの後を追いかけるぞ。予定通り、ちゃんと姿は変えられるんだろうな?」


“アビス様……”と、周囲の参拝者達が祈りの言葉を堂内に反響させる中、ヴェニタスはパロンの三角耳へ耳打ちしていた。


「もちろんですわ。わたくしにかかればそのくらい、お茶の子さいさいですもの……ふわぁあ。それにしてもこれ、どれくらい続きますの?」


 そう言いながら、彼女はまた眠たくなってきているようだ。ひんぱんに大きく口を開けては、欠伸を繰り返す。


「さあな、隊長から聞いた話だと随分と長丁場らしい……終わったら起こしてやるから、今の内に寝ておけ」

「あら、ほんとですの? 意外と気が利きますわね。それなら、よろしく頼みますわ」


 彼女はフードを深く顔の方へとひっぱり、目元に光が差し込まないようにすると、静かに黙り込んだ。


―φ―


 それからしばらくすると、周囲はざわめき、服ずれの音が聞こえ始めた。祈祷が終わったようだ。

 司祭はもったいぶって十字架の方へ深々と礼をすると、仰々しいしぐさで、テーブルの上にある聖書を取り上げる。


「では次に、聖書の朗読を行います」


 続いて、司祭は堂内を見回すと、本を開いて読み始めた。


「――至高の悪魔であらせられるアビス様は、常闇よりこの世に降り立たれた際、我らの住まうこの地上の穢れを、大変お気になされた。よき選別の上、あらかたの生物を葬り去ることが必要だと考えられた。あまりに未熟な我らの将来を憂いて、アビス様は選別を4度行われた。1度目の選別にて大地を震わせ、2度目の選別にて海を溢れさせ、3度目の選別にて空を闇に覆ってくださった。そして4度目に、生き残った種族達を十分に争い合わせ、これを最後の選別として、ついに満足なされた。アビス様はこれらの選別を生き延びた中から、最も強く心の清い一人の人間を自らの後継に選ばれた。その者こそが、魔術師の始祖『魔天』であり―――」


 淡々とした調子で話が続いていく。あたりを見回せば、パロンを除いて皆がみな一心に有難く司祭の話を聞いている。ヴェニタスは長い話に待ちくたびれ、頬に手を当てた状態で、もう既に足を5回ほど組み替えていた。

 懐の懐中時計を取り出して確認する。彼も司祭の話を聞くのにも飽きてきたのだ。


「ああ、もうこれで1時間か……しかし長いな……」

「――我らが魔術師の始祖、魔天は石碑にこう書き残しています。“悪魔の心臓食すれば、魔術の扉、開きたる。これ正しく愛の力なすことなり”、これこそが、魔天の食契が悪魔と人間の聖なる儀式であると伝えられるゆえんであります。悪魔と魔天、二人の間には、確かに愛情があったのです」

「……くだらないですわ。非、現実的です」


 パロンが傍でおもむろに呟く。そんな彼女を、ヴェニタスは随分と興味深げに見やった。


「なんだ新入り、起きてたのか」


 パロンは頷いて、フードを少しめくり上げて銀色の目を晒すと、前方の司祭を忌々しげに一瞥した。


「眠ろうにも、眠れませんわ。つまらない話でも子守唄代わりくらいにはなるかと思って聞いていれば、あまりに嘘ばかりでイライラしてしまって」

「へえ、言うね。嘘だらけか」


 ヴェニタスは面白そうに、くっくと笑う。


「嘘も嘘、大嘘じゃなくて? 学校で歴史の文献は沢山読みましたけど、こんな馬鹿な説を唱えているのはアビス教くらいですもの。それでも信じるおバカな人達が沢山いるのには心底驚きですけれど」


 あたりの参拝者を見回し、長々しく息を吐いた。


「普通に考えたら、ある英雄が強力な悪魔を討伐した際に返り血がたまたま口に入って、それをきっかけに彼と彼の子孫は悪魔の力を得て魔術師となった。事実はそれだけのことだと思いませんか? あの司祭が言う、悪魔と人間のロマンスだなんて嘘っぱちです。悪魔以前に、まず魔物と意思疎通ができたことがありますか?」

「いや、無いね」

「でしょう? 無茶苦茶な考え方ですわ。あそこに置いてある気持ちの悪い像を見てくださる? ここの人たちは、自分たち魔術師の力が殺戮じゃなく愛から生まれたとでも思いたいのかしら」


 礼拝堂の中央には、触手にまみれた不気味な悪魔と筋骨隆々のハンサムな男が丸テーブルを境に酒を飲み語らっているブロンズ像が置いてあった。仲睦まじい姿を描こうとしているのだろうが、その姿はみようによっては、確かに気持ちが悪かった。

 しかし、ヴェニタスはそうでもないようだった。


「そうか? ここの魔術師たちの気持ちは分からんが、あのブロンズ像は案外センスがいいと思うが」

「……それは見解の相違ですわね。では、そろそろ行きましょうか、司祭の長い法螺話が終わったみたいですわ」


 見れば司祭が再び巨大な十字架に一礼し、緞帳どんちょうの陰へと消えて行こうとしているところであった。二人はゆっくりと席を立ち、司祭を追うために前の方へと歩き始めた。


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