手の甲にキスを

葉月 望未

その1 恋人


 茶色と橙色が混ざったような明かりと街の色、それから灰と黒煙が交じり合っている色が部屋に充満していた。


 目に映るこの部屋は、静かに腐敗していっている。


 そんな部屋を見ていたくなくて、窓の外を見ることにした。


 高層階から眺める都会の景色は小さな光の集まりで、まるで多くの電球を見ているようだった。

これを心底綺麗だと、美しいと言える日がくるのだろうか。


私は今、俗にいう大切な人といるにもかかわらず景色が煌びやかに見えない。


 高級だという主張が酷い部屋にもこの空気感にも不満ばかり。

なんだか全部、胡散臭い。


「どうしたの?溜め息なんてついて。部屋気に入らなかった?」


 空気を振動させる低い声が聞こえ、自分が溜め息を吐いていたことに初めて気がついた。


彼の声色はとても穏やかなもので、私が部屋を気に入っていないなんて微塵も思っていないはず。


 ああそうだ、分析なんてしている場合じゃない。

早く彼を見つめなければ。いや、見つめたい。


私は振り向く前に女性らしい微笑みを意識した。


「自分がこの素敵な部屋に合ってないんじゃないかと不安になっちゃって。だって素敵すぎて、私には勿体無いよ」


 いつもの声よりもワントーン高めに言葉を発すると、彼は満足そうな笑みを浮かべた。


なんてわかりやすい男。


 はじめから国語の問題集の解答みたいに答えはいくつか決まっている。

解説のところには素敵、私には勿体無い、この二つを入れること。

また、自分に合ってないんじゃないかと不安な様子を醸し出すとなお良い。と書いてあるんだろう。私は模範的回答をした。満点。


「半年記念日、おめでとう。すみれ」


 彼は私の髪に触れ、キスをひとつおとした。その行為をぼんやりと受け止めながら考える。


 私は、きっと恋愛に向いていない。


 記念日も、こういうありきたりなサプライズも、それをしてあげているという自分の男前さに酔いしれている男も、甘い言葉も、全部嫌い。


 そもそも私は恋愛が好きじゃない。


けれど、お付き合いはしたいと思うし、その人の特別になりたいとは思う。それにもかかわらず、恋愛が嫌い。無論、恋愛のドラマも映画も好きになれない。


 ずっとこの人のそばにいたい、この人が人として好きだ。


まさにこれらが私の恋愛感情。人として尊敬できる人と結婚して生涯を共にしたい。



 それには恋愛に伴う嫉妬や行為、甘い言葉は何一ついらないということ。


 私と同じ考えの人がお相手ならば、願ったり叶ったりだ。本当にそんな人と出会えたならば結婚に苦労しない。


こんな恋愛観を持つ私だけれど、結婚願望は人一倍強い方で、尊敬する人と助け合って生きていきたいと心底思う。


「お仕事はどう?順調?」


「急にどうした?まあそれなりに順調だけど」


 ううん、なんとなく。と、適当に返事をしながら、窓の外へ視線を戻した。


 彼には私の恋愛観を話していない。というか彼氏に理解してもらうのはもう諦めた。


二十代前半のとき、彼氏や気になる人に恋愛観をぶちまけ、見事全員に振られてしまったから。そうして後半になり、私は焦り始める。


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