第6話 雪と靄の中で

時計の針は午後10時に近ずいていた。

まだ、結論は出なかった。

皆、疲労の表情が隠しきれなくなっていた。

重苦しい沈黙が続く中、遂に磯部が口を開いた。


「皆 腹が減ったでしょう では こうしませんか 立ってくれる者は 明日のマルナナサンマル(午前7時30分)伊勢神宮宇治橋の上に集合して下さい もしも 1人でも来なかったらその場で解散します 全員 集まれば 皆で皇祖皇宗の神霊に参拝しましょう」


皆、うなずいた。

秘匿の観点から宿泊先は、それぞれバラバラだった。

マイクロバスが7人の男を乗せ旅館を出発したのは午後10時半を少し回った頃だった。




目指すのは麹町三番町、鈴木貫太郎侍従長官邸。

安藤は、歩兵第3連隊第6中隊を指揮し雪の中を黙々と歩いていた。


数か月前、安藤は行動部隊の参謀、磯部浅一に激怒した。


「どうして、あのような偉大な愛国者を討たねばならんのか! 鈴木貫太郎閣下は昭和の西郷とも言うべきお方だ 清廉剛直な典型的な武将だぞ! 絶対に襲撃目標にしてはいかん!」


昭和9年1月末。

寒風吹く中、安藤の姿が鈴木貫太郎官邸の玄関にあった。

青年将校達が君側の大奸と呼ぶ鈴木侍従長とは果たしてどのような人物であろうかと考えた安藤は、直接会って確かめようと思い、鈴木と親交の深い日本青年協会常務理事の青木常盤と官邸を訪れていた。

安藤は鈴木に、単刀直入に政治の汚職と革新の必要性を語った。

鈴木は安藤に、

「安藤君 純粋な君の眼から見れば 確かに今の政治は汚れ 世の中は乱れて 我慢ならないであるだろう しかし 軍人が政治に介入し政権を壟断ろうだんすることは 完全に明治天皇が出された御勅論に反する 軍備は国家防衛のために 国民の膏血こうけつを絞って設けられたものであり これらを国内政治改革に利用することは間違いである 武力を背景に議論すると それは政治への武力介入に発展し 国の乱れを招くだけではなく本来の目的である国防をおろそかにすることになる これが明治天皇の深いお考えによって 軍人勅論という形でおさしになった所以ゆえんである」

鈴木は続けた、

「現在 陸軍の兵の多くは農村出身者である したがって 農村改革を軍の手でやり後願の憂いなく外敵に対抗しようとするということは一応もっともな考え方である いやしくも戦場において後願の憂いがあるからと言って戦えないと言う弱い意志の国民なら その国は滅びてもやむを得まい。現に我が国でも日清 日露の戦役では一家を犠牲にして強敵と戦ったではないか」


鈴木は安藤を見つめ こう言った。

「安藤君 兵は可愛がるべきだが 甘やかしてはいけないよ」


安藤は、憤然として切り返した。

「閣下の言われますことは 正論でありましょう しかし 隊付き将校として 私は毎日のように兵と接し 一心同体であります 理屈だけでは納得できません また 兵の中で後願の憂いがあると言って一命を捧げて戦うことを避けるような者は一人たりともおりません!」

安藤は続けた、

「侍従長閣下 私達の身体には赤い血が流れています 兵に対する深い愛情がなくては 軍隊の団結はなく いざという時に戦力を発揮することは不可能であります その指揮官である私たちが 兵たちの家庭の困窮に胸を痛め なんとかして救済しようと思うのは当然と思います 現に私利私欲に走ってる政治家 財閥は 何も手を打ってくれないではありませんか! おそれ多いことながら お上は農民たちの今の姿をご存じなのでしょうか? 青年将校達は お上の眼を覆っているのは 側近の重臣達だと考えております その筆頭は 閣下 あなただとさえ言っております 非常に失礼なことを申し上げましたが 率直なお心を賜りたく存じます」

安藤は、海軍大将で侍従長と言う国の重臣である鈴木貫太郎と言う稀代の名提督に対して捨て身で切り込んだ。


窓の外は、チラチラと雪が降り出していた。


鈴木は、安藤の国を思い、兵を愛する一途な心に打たれ、遂に本音を明かした。

「安藤君 君の純粋さと国を憂う心には心から頭を下げる 私にも君のような時代があった 私は海軍では生粋の水雷屋だ 三百トン足らずの水雷挺で敵の戦艦に突撃して魚雷をぶっぱなすのが私の任務だった 君が生まれたばかりの頃 私は海軍一の暴れん坊と言われていてね 日本海海戦でバルチック艦隊の息の根を止めた時は実に痛快だったよ その意気は 七十過ぎた今でも持っているつもりだよ」

鈴木は続けた、

「私だって国を憂いている 今の邪道非道を許せぬ正義感は君には負けないくらい持っているよ でもね 安藤君 今はその時期ではない 今は国力を養い 国防を充実させる時期だ 外科手術のメスを振るう時ではない 時間はかかるだろうが 内科的な治療で少しづつ直していくしかないんだよ 安藤君 今 無理に大手術いたら 抵抗力のない病人は衰弱して逆に命を失うかもしれない」

鈴木は、安藤の眼を見つめ言った。

「安藤君 早まってはいかんぞ!」

鈴木のその目は正しく武将の眼であった。

鈴木は、窓を見て、

「雪が激しくなって来たようだね 車を用意させよう 乗っていきなさい」

鈴木は安藤を玄関まで見送って、

「ここで失礼するよ 寒さは老体にこたえるのでな」

軍靴を履き立ち上がった安藤に 鈴木が

「安藤君! 早まってはいかんぞ!」

安藤は、感極まり目を反らした。

そして、一礼して深々と降る雪の中へと飛び込んだ。


この時、鈴木と安藤の間柄は正に国を憂うる同憂だった。


磯部浅一は安藤に、

「鈴木侍従長は 陛下に最も近い側近であり大御心を直接操る黒雲だからだ! 貴様がやれんと言うなら栗原 中橋がやることになるぞ! そうすれば彼らは徹底的にご老体の息の根を止めるぞ 敢えて 貴様が侍従長と親交があり邸内の事情に詳しいから引き受けてくれと言ってるんだ 貴様なら武士道精神にのっとて 立派にやり遂げててくれると思うんだが・・・」

安藤は、一晩考えて磯部に承諾した。


「閣下は俺の手でやる 他の者には手出しさせん!」


安藤は、雪を踏みしめながら呟いた。

「南無 鈴木侍従長閣下・・・ 南無 鈴木侍従長閣下・・・」

安藤は、同憂を討とうとして雪の中を黙々と歩いていた。

「南無 鈴木侍従長閣下・・・ 南無 鈴木侍従長閣下・・・」




その朝、深い朝靄が神宮の杜を包み込んでいた。

午前7時25分。

伊勢神宮宇治橋。


真っ白な靄の中、複数の足音が響いていた。


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