空を分ける2人

朱梨

第1話 今日から2人で住むのである

「これで手続きは終了となります。」

 目の前に座る淡いグレーのスーツを着た女性が朗らかに笑った。

 天井から吊るされた小さなランプが木目が細やかなテーブルを照らす。木目1つ1つに光を灯し、小さな影を幾つもつくり、ランプが回ると優雅にきらきらと輝いた。テーブルの上には真っ白なカップが3つ、鼻をくすぐるコーヒーの香りをゆらゆら漂わせている。カウンターで食器をいじるかちゃかちゃと奏でる音、周囲の客のコソコソとした話し声だけが響く、ビルの1階に佇む古びた喫茶店は、心地良い空気が漂っていた。

 陽が差すテラス席には、顔を寄せ合って笑う若い男女がいる。まるで、自分たちが世界の中心であるかのようにきらきらと輝く姿は何とも眩しい。眩しすぎて、今となってはも感じてしまう。

 私にもあのような瞬間があったのだろうか。

 ぼんやりと窓の外を眺めながらそんなことを思い耽っていると、目の前に白く陽を弾くような紙がちらついた。長い髪を後ろに束ねたセールスウーマンは、きっちりとファイリングされた書類の中から2枚紙を取り出して、木目をなぞるように私たちの前に差し出した。

 入居する際の契約書。

 私の右隣に座る男性をちらりと見やる。角が整った新作のスーツを着て、すっと背筋を伸ばして腰掛けている。目鼻立ちがすっきりとした印象で、髪も短く整えられ、全体的にさっぱりとした雰囲気だ。そう思った。横目で彼を見つめていると、彼は口角を少し上げて微笑んだ。

 今日からこの彼と2人で済むのである。



 住み慣れて10年目。愛着のある部屋を引き払った。

 社会人になって直ぐに住み始めた極狭いワンルームは、今や私の匂いで充満している。小さなキッチンには細かい傷が多々見られ、煤が薄く積もっている。数年前に模様替えをしようと単独タンスを運んだ際に付けてしまった壁のへこみも淡く影を残していた。このへこみが何とも夢の国のネズミに酷似していて、夜中帰ってきた彼と大笑いしたこともあった。

 へこみの前のどっしりとかまえる鮮やかな赤いラブソファ。その上には、大大と"借用書在中"と書かれた封筒がこんもり溜まっている。こみ上げられてきた思いが、悲しみだか笑いだか分からない「あはは」を繰り返し、彼女は"借用書"の海に飛び込んだ。よくわかりもしない男と付き合って、よくわかりもしない彼の理由で、お金を貸した私が悪いのだと、彼女は穏やかでのんびりした様子でまた「あはは」と繰り返した。その笑い声は、まるで新聞の端にある三面記事を読んで、聞かせるように淡々としたものだった。いつものように、友人の千鶴さんに電話をかけた。こうなったら全部投げ出してしまえ。なんかやんなっちゃったって。部屋を引き払う前に必要なものは全部トランクに詰め込んでしまえ。トランクに入りきらないものは売り飛ばしてしまおうか。そんなことを考えながら、少しへたれた赤いラブソファの背もたれをつーっと撫でてやりながら江美子は泣くのを堪えた。



 古びた喫茶店で手続きを済ませた江美子と彼は、そのまま新居へと向かった。

 都心に近いタワーマンションの低層階。江美子のひと月に貰えるお給料だけでは済むことなんてできやしない。

 つやつやのタイルで出来た床のエレベーターホールは、"低層階用"と示されていた。ホールの壁がワインレッドなのが20階から最上階までの高層階用、10階から19階までの中層階用はダークブルー、私たちの住む部屋のある7階は、低層階用でエメラルドグリーンになっていた。

 彼が、7階のボタンを押してゆっくりとエレベーターが上昇していく。江美子も彼も何も話さず、エレベーター特有の圧迫感と共に静かに上昇していった。

 7階の廊下に着くと、上質だと思われるふかふかとした絨毯が横に長く敷かれていた。ホールの向かいにはらわ壁をわざと大きくへこませた間に、銀の細長い花瓶に赤い百合が2本こちらを向いていた。床の落ち着いたグレーの絨毯とよく映えあっていた。

 江美子の右側に立つ彼が、ピシッとしたスーツのパンツのポケットから鍵を取り出し、右側へと進んでいった。私たち2人が今日から住む"703号室"は、エレベーターホールから右へ向かい、奥から3番目に位置していた。

 鍵を開けようと、彼の手が鍵穴に差し出されたところでぴたと止まった。何事だろうと思い、彼の左頬をついと眺めると、くるりと彼はこちらに向き直った。

「そういえば、自己紹介。まだでしたよね。」

 江美子は頷く。今日から住む彼は何歳かも何をしているのかも曖昧に知っているといってもなのだ。



 と、今日から703号室に住むのである。

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空を分ける2人 朱梨 @vermilion_pear

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