【1 いちにちめ】

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(エライことになってしもうたなぁ。)

 橋の上、安物のライターを風から守りながら、烏田雅(カラスダミヤビ)は煙草に火を点ける。高めの位置で一本に縛った黒髪が、ゆらゆらと揺れながら肩の辺りをくすぐった。

(どないしようかなぁ、これから。)

 ぷはぁ、と口から煙と溜息を吐き出す。橋にもたれながら、細長いこげ茶色のたれ目を更に細めて、憎らしいくらい青い空を見上げた。

(チノメア、か。)

 先ほど吐き出した、溜息つきの煙が空へと昇っていく。面長のシュッとした輪郭を、束ねていない両サイドの髪が撫でた。

(そんなん、雲を掴むような話やわ、なぁ。)

 手を伸ばしてその煙を握ろうとするけれど、ふわりと避けられ、散り散りに消えていった。よくできた言葉だよ、と内心で皮肉を溢しながら、ほんの一時間前の会話を思い出す。


 雅は所謂『ヤのつく自由業』に、かれこれ七年以上身を置いている。

 七年間、『大きな声では言えない清掃業』や『黒い猫や青い服が出来ない運送業』や『薬剤師も出来ない薬局』や『管理力に定評がある不動産』などをこなしてきた雅は、その界隈じゃそれなりに大きな『八鳥野会(ヤチョウノカイ)』の若頭率いる『八藪組(ハヤブグミ)』に、本部長という立場で所属していた。そろそろ自分の組を持ったらどうだ、という話も出ていて、二十三年目の人生は光に満ち溢れていた。

 はずだった。この間までは。

 八鳥野会の組長。つまり、一番偉い御方が病で倒れ、組長の座を降りることになった。その跡目に名乗りを上げたのが『八鳥野会若頭の八藪佐助(ハヤブサスケ)』と『八鳥野会若頭補佐の鴨乃目丸伊(カモノメマルイ)』だった。

 八藪組に所属する雅は当然、佐助を組長に推すために、八藪組の功績を上げなくてはいけなかった。特に、佐助は雅の恩人で、親のような存在だった。なにがなんでも力になりたい。佐助を八鳥野会の組長にしたい。きっと、佐助を支援する人たちの中で、一番と言っても過言ではないくらい、その気持ちは強かった。

 それが、から回ってしまったのか。ライバルである鴨乃目組の罠にかけられ、雅は失態を犯し、八藪組を不利な状態に落としてしまったのだ。

 本来なら破門だったり、場合によってはそれ以上の処分を受けなければいけない。けれど、佐助が雅を可愛がっていたこともあり、『謹慎』という、とても軽い処分で済まされた。

 表向きは。

「雅チャン。俺はね、お前のこと本当に可愛いと思ってんのね?お前をこの世界に連れてきたのは他ならぬ俺だし、お前をここまで育て上げたのも俺だ。そうだよな?お前だって、俺のためを思って、今回はそれゆえの失態だったんだろう?わかってるよ雅チャン。お前を咎めたくなんかないんだよぅ、俺も。でもさぁ雅チャン。他の奴らはそうはいかねぇんだよ。やっぱりさ、八藪組の連中にもさ、示しがつかねぇんだよ。な?わかるよな?だからさ、謹慎っつー軽い処分にしたじゃんか。それ、やっぱり、他の奴らは疑問に思っちゃうわけな?面白くねぇってわけな?あー。俺は、八鳥野会の頭が遠退いた上に、自分の組にも不信感抱かれちゃってんだよ。いやいやいやいや、雅チャン、キミは気にすることないよ。俺はそれでもいいと思ったから、お前の処分を軽くしたんだ。可愛い可愛い忠実な雅チャンを責めるなんて!俺には出来ないんだよ!わかるよな、わかってくれるよなぁ?」

 佐助はそこまで一息に言うと、額が見えるように七三で分かれた前髪を直しながら、「んで、こっからは俺の大きな独り言な。」と、ワントーン声を低くして呟いた。

「あーあ。組長、どうして雅の処分があんなに軽いんですか?とか聞かれちゃって、俺はついつい、それはな、雅なら謹慎の期間中に必ず、かーなーらーずー、八藪会をぐぅうんと有利に上げられるような、そんな情報なりなんなりを捕まえてきてくれるからに決まってるじゃねぇか!とか言っちゃったなぁ。困ったなぁ。これで雅がなんにもしてくれなかったら、俺は今度こそ立場が無くなっちまうなぁ。いいや、でも、それでも俺は雅を、可愛い可愛い弟分を責めたりなんか出来ねぇんだよ、なぁ。でも、あーあ、困ったなぁ!」

 ダンッ!と机が揺れるほど強く灰皿を置いて、そこにあったシケモクに火を点ける。

 サラサラなストレートの黒髪と、細長い切れ目にフチなしの眼鏡。真黒なスーツが手伝って、細く長く、けれど凛と真っ直ぐ芯のある体型。冷たい、という表現がよく似合う容姿の佐助は、たったそれだけの行動も、どこか威圧を放って見せた。

「薬とか、そんなのじゃあ、ちっとも役に立たねぇんだよな。あー、雅、今八鳥野会に一番喜ばれる情報って、なんだと思う?」

 雅は慌てて駆け寄って、佐助がいつも吸っているパーラメントを差し出しながら、微かに首を傾げた。首を傾げた、というよりは、すぐに思い付かなくて無意識に首が動いたのだろう。

 佐助はそれを見て、二カッと笑うと、


「チ、ノ、メ、ア、だ、よっ!」


と、雅の耳のすぐ側で叫んで、肺いっぱいの煙を吹きかけた。

「ち、チノメアって……!そんなん、雲を掴むような話ですやん!」

 雅の口から思わず本音が零れた。それもそうだ。チノメアなんて、都市伝説に近い、なんの確証もない噂話だ。ただ、佐助の言う通り、そんな可愛い伝説が今、『ヤのつく自由業』の間でなによりも高値で取引されている情報なのも、確かだ。

「雲、ねぇ。」

 佐助はブラインドを一気に上げて、窓の外を見上げた。

「雅チャン、ちょっとこっち来て、空を見てご覧よ。」

「え、あ、ハイ。」

 言われるがまま隣に立つと、雅の手の甲に思いっきり煙草を押し付けて、声高らかに、笑った。

「良かったじゃねぇか雅!ちょっと視線を上げりゃあこんだけでっかく見えてんだ!簡単な話だろう?」

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