Ⅴ 私もとても気になっているんです。

それから十六時に差しかかるまで歌い続けた。フリータイムが終わりに近づくころには喉も少しれ始め、体力にも衰えが見られ始めた。しかしそれは充実した時間を過ごせたことの証でもあった。


利用時間が過ぎたので、四人はカラオケ屋から出た。日はまだ高く、空は藍白あいじろに染め抜かれている。時間が余っていたので、代美が行きたいと言っていた喫茶店カフェへと向かった。


秋葉原と言っても、いわゆるコスプレカフェではない。少しお洒落なイタリア風の喫茶店である。洋風の木造の建物が、鉄筋ビルの一階に嵌め込まれるようにして設えられていた。そこだけ切り取って見れば、本当にナポリにでもありそうな光景である。


日本の中のイタリア――不思議な感じがした。


――これでドイツ料理でも出てきたらどうしよう。


店に這入ると、珈琲豆のよい香りが聞こえてきた。


ウェイターに導かれ、窓際の席に着く。


メニュー表を捲ると、雪のようなアイスクリームの添えられたパンケーキが目についた。とりあえずはエスプレッソ四杯と、代美と熾子はパンケーキを、司と玉子はベリーのタルトをそれぞれ注文する。


ウェイターが去ったあと、代美は口を開いた。


「それにしても――熾子さん、本当に歌上手かったですよね。というか、そもそも日本語からしてかなりお上手なんですけど。」


「いえ――」


歌うことが好きなだけですよと熾子は言う。


「それに、日本語の発音を矯正するためにカラオケは役に立ちましたし。たくさん歌って、歌と同時に日本語も上達させたんです。」


「だったら、私も韓国語の歌いっぱい歌おうかな。」


司は視線を宙に泳がせる。


「『』と『』の違いとか、理屈では理解できても実際にしゃべるときは区別つかなくなるし。私も熾子さんみたいに綺麗な発音でしゃべれるようになって、そしていつかは韓国でライブするんだ。」


「君は、もうちょいと歌唱力を矯正したほうがよくないか?」


代美の言葉に、熾子は静かにうなづいた。司の歌唱力はもはや棒読みなどというレヴェルではない。正直なところ、ここまで酷い歌唱力を持った人間には今まで出会ったことがなかった。


「上手いって言ったら、私は玉子さんに驚きましたけどね。とても綺麗な声で、それこそ Tilacis が歌ってるのと変わりませんでしたよ。」


それほどではありませんと言い、玉子は目を伏せる。


「私も熾子さんと同じです。ただ歌うことが好きなだけなんです。声を出すための本も色々と読みましたし、上達してゆくと、歌うことがさらに愉しくなってきて、もっと上手くなりたいと思いました。」


そして視線を上げ、問う。


「Tilacis や Anifalak の歌を歌っておられましたが、日本の音楽がお好きなんですか?」


初めて会話らしい会話を向けられ、胸が温かくなった。


「まあ――好きですね。私の場合は、日本のアニメとかドラマ・映画なんかをよく見るので、その主題歌を歌っているグループに関心が行くんです。そのなかでも Tilacis と Anifalak は特に好きなんです。」


「どんなものを観られるんですか? 『まほつゆ』とか?」


「アニメは、話題になっているものを追っかけている感じです。ドラマや映画は、ミステリーやサスペンスものが好きですよ。横溝正史や東野圭吾も、韓国ではそれなりに人気がありますし。あと最近の若手作家だったら大根おおねケンさんが好きです。」


玉子の口元がやや横に引きのばされた。


「大根ケンさんは私も好きですよ。」


代美はつと頭を上げる。


「大根ケンっていうと、あの銀髪でもじゃもじゃ頭のイケメンか?」


「そうそう――その人。今話題の芥塵あくたちり賞作家なんだけど。春休みに観たあの映画も大根ケンさんが原作だよ。」


「へえ――僕はその手のことには詳しくないんだがな。」


「ああ――そっか。」司は納得したような顔となる。「だからあの映画の俳優さんはみんな大根だったんだね。」


「君はなかなかに辛辣な批評をしかも唐突にするね。」


注文した品が運ばれてきた。


紅と紫のラズベリーが載せられたタルトを前にして、司は海老の尾を揺らす。そしてバッグから醤油の入った容器を取り出すと、タルトへとかけ始めた。熾子は何も見なかったふりをしてエスプレッソをすする。店の雰囲気に合った上品な苦みがした。しかし、真っ黒な液体であるためか、醤油を飲んでいるような気がしてならない。


そういえば――と、玉子はふと口を開いた。


「来週、大根ケンさんが原作の映画が公開されるよね。『星雲の都』っていうやつ。それのエンディングを担当するのも Tilacis だよ。」


司は軽く目を見開き、マジで、と問うた。


「うん、確かそうだったと思うよ。」


「『星雲の都』ですか?」


聞き覚えのあるタイトルだなと思い、そして思い出す。


「ええっと、確か、銀河鉄道の出てくるやつですよね? 私も読んだことありますよ。韓国でも翻訳出版されていましたので。」


それです――と玉子は言った。


「読んでおられたんですね。やっぱり、有名な作品ですしね。」


『星雲の都』は、製糸工場に勤める若い女性社員を主人公にした物語であった。内容は、ある夏の日に長期休暇をもらった主人公が、遠距離恋愛中の恋人の元へと旅をするというものである。


「あれ映画になるんですね。確かに Tilacis の作風とぴったりの内容と思います――透き通った水彩画みたいな感じっていうか。」


「そうですね。確か、Tilacis だったと思うんですけれども――」


玉子はスマートフォンを取り出し、調べ始めた。


「あ、間違いありませんでした。確かに Tilacis です。」


司は身を乗り出した。


「それいつ公開なの?」


「んーとね。」


玉子は再びスマートフォンに視線を落とす。


「ちょうど一週間後の日曜日だね。」


言って、ちらりと司に視線を遣った。


「司、興味ある?」


「そりゃもちろんだよ。あの作品に Tilacis がどんな曲をつけるのか気になるし、行かない理由なんかないよ。」


「じゃ――一緒に観に行かない?」


司は水を得た魚のような顔となった。


「そうこなくちゃ!」


「司ならそう言うと思った。」


そして玉子は熾子へと視線を遣る。


「何なら、熾子さんも一緒に観に行きませんか?」


「一緒に――ですか?」


「ええ。大根ケンさんや Tilacis がお好きなら、興味あるんじゃないかなって思うんですけど。」


「うーん。」


少しだけ考え込んだ。別に映画を観に行けないほど金に困っているわけでもない。それに土日が終われば、二日間の平日を挟んでゴールデンウィークだ。いずれにしろ熾子は特に予定はなかった。


「構いませんよ。私も司さんと同じく気になりますし。」


よかった――と言い、玉子は代美に顔を向ける。


「代美は?」


代美は難しそうな顔をしていた。


「僕は――時間が合えばって感じだな。来週の日曜日はバイトだし、ゴールデンウィークは、三日から六日まで帰省する予定なんだ。」


そういえば、代美は隔週の日曜がバイトなのであったか。


玉子は少し寂しそうな顔をする。


「私、五日から七日までが家族旅行なんだけど。」


ゴールデンウィークは三日から七日までである。日曜日が行けないというのであれば、玉子と代美が一緒に行ける日はない。


「まあ、三人で行ってきなよ。こういうのは早いほうがいいだろうし、三人の感想を聴いてみて、面白そうだったら僕もあとで観るから。」


「いいの?」


「うん。愉しんで来なよ。」


そういえば、代美はこういうのにはあまり興味はないのであったか。


「分かった。じゃあ――とりま三人で行ってくるよ。司と、それと熾子さんもそれでいいですか?」


熾子も司も、構わないと返事をする。


「それなら、決定ですね。」


「行くのはいつにする?」


「いつでもいいよ。五日から七日まで以外なら。」


つまりは、日曜か三日、四日しか選択肢はないということである。


「私は――できれば早いほうがいいですね。」


「それなら――日曜とかどうでしょうか?」


構いませんよと熾子は答え、私も大丈夫だよと司も言った。


「んじゃ、日曜で決定だね。」


「映画館は、どこにする?」


「上野御徒町の映画館なんてどうかなって思うんだけど。」


玉子は再びスマートフォンへと視線を落とした。


それから、映画を観に行く時間や待ち合わせ場所などについて少し話し合った。結果、来週の日曜日の十三時、上野御徒町おかちまちにある映画館で待ち合わせることが決まった。熾子はそれをスマートフォンの手帳アプリに記入してゆく。


「それじゃあ――来週はお願いしますね。」


玉子の言葉に、こちらもよろしくお願いしますと熾子は答える。


ふと、玉子に対する興味が湧いた。司によれば、韓国について何らしかの興味を持っているらしい。しかし今のところそのような素振りは見せていない。


「玉子さんは、韓国のドラマや音楽は観たり聴いたりしないんですか?」


そう問うてみたものの、玉子は微妙な顔をした。


「私は――そういうのとは縁がないですね。韓国のドラマとかって、どちらかといえば小母おばさんたちのものって感じがしますし。K‐POPも色々と聴いてみましたが、特にピンときたものはなかったです。」


「そう――ですか。」


「私が興味を持っているのは国際関係ですよ。」


ソーサーにカップをき、こぼすように玉子は言う。


「特に、最近の日韓関係のことについて。」


玉子が擱いたカップの縁が一瞬だけ輝いた。


熾子は少し不安になる――玉子が持っているという韓国への興味が何なのか、理解したような気がしたからだ。


玉子は、じきに熾子のほうを見ようとはしなかった。


「テレビを見ていると、最近は韓国で行われているデモの様子がよく流れています。日本大使館の前で雄叫びを上げたり、日章旗を踏みつけたりする人々の姿も見ました。ああいうのを見るたびに、何でこんなことするの? って思うんですよ。」


何を言い出すか気が気でなかったが、熾子はとりあえず相槌を打つ。


「私もとても気になっているんです。ああいうことをする人がいると、韓国に対する印象が悪くなってしまうことも当然だと思います。」


「韓国の対日感情って、かなり変だと思うんですよ。何て言うか――」


恐いんですと玉子は言った。


「恐い――?」


「はい。日の丸を焼いたり、集団で踏みつけたり、日本人を犬や豚に見立て切り刻んだり――韓国のそんな反日デモの画像を、私はネット上で何度も見ました。日本人がいくら韓国のことを嫌っても、こんなことはしません。はっきり言って恐いです。」


なぜだか、目の前にいる玉子が先ほどまでの玉子とは別人のように感じられた。それほどまでに、今の玉子の口調は硬かった。


「私も、そういうことをする人は好きじゃないです。けれど、それが全てとは思わないでください。恐らくは、一部の過激な民族主義者であると思います。少なくとも、私の周りにそういう人はいません。」


「一部の人ですか?」


玉子の声がさらに硬くなった。


「私には、とても一部の人たちとは思えないんですけど。」


「どういうことです――?」


「デモだけじゃなくって、韓国は教育も異常じゃないですか。韓国の中学生って、学校で日本を侮辱する絵を描かされてるんでしょう? 私、その画像、見たことありますよ? 日本列島に核兵器を撃ち込んだり、日本人をマシンガンで撃ち殺したりしてましたけど。」


いきなり何を言い出すのだ。


そんなわけがないでしょう、と咄嗟に言った。


「そんな教育、行われてるわけがありません。」


実際にあったことですよ――と言い、玉子は司へと目を遣る。


「司も、見たことあるよね? あの反日ポスターの画像。」


司は目を逸らし、とても申し訳なさそうな顔で、うんと答えた。


玉子はスマートフォンを操作し、そして画面を熾子へと見せる。


「ほら、この画像ですけれども。」


そこには、子供が描いたらしい絵がいくつも写っていた。内容は、玉子の言うように日本人への侮辱と虐殺を煽動するものであった。おまけに、「독도는トクトヌン 우리땅ウリタン(独島は我が領土)」という言葉や太極旗まで書かれている。


「――これはどこの学校で行われていた教育ですか?」


「いえ、それは分かりませんけど、実際にあったことには変わりないでしょう?」


正体不明の怪情報ということか。しかし、実際にあったことは事実らしい。何だこれは、というのが正直な感想であった。韓国人である熾子自身にも、それは信じられない内容であったのだ。


「私自身はこんな教育は受けたことはありません。というより、普通の学校ならしないんです。それなのに、こういった煽情的センセーショナルな事例を取り上げて、韓国人の全員を反日とするのはおかしい思います。」


「本当に一部の事例だなんて言えるでしょうか?」


「はい?」


「韓国では、こんなことが起きてもおかしくないくらいの反日教育が行われてますよね? 竹島は韓国の領土だとか、日本から受けた支配のことは絶対に許しちゃいけないだとか、そういうことを執拗に教えてますよね?」


さすがに苛々してきた。


「それの何が悪いっていうんです?」


玉子は眉間にしわを寄せ、何って、と短く言った。


何もないでしょ、と熾子は言う。


「自分の国の領土のことについて教育するのは当然のことだし、かつて日本が韓国を植民地にしたのは事実じゃないですか。それを教えることの何が悪いというのでしょう?」


「だ――だって、韓国政府は、いつも日本に謝罪と賠償を要求してきてますよね?」


「それが何だというんです?」


「いや――日本は、過去のことについて何度も謝ってきましたし、賠償もしましたよね? 竹島だって、話し合いで解決しようって日本は何度も言ってるのに、韓国政府は聞かないじゃないですか。こういった不都合な事実を隠すために、韓国政府は、長年に亘って過激な反日教育を行って国民を洗脳しているんじゃないかと思うんですよ。」


呆れて乾いた吐息が出た。


「政府が国民を洗脳というのは絶対ないです。韓国で何度も政権交代が起きているのはご存知ですか? それに、韓国が求めているのは賠償ではありません。口先で謝っても本当に反省していなければ意味がないじゃないんですか。本当の意味での謝罪を求めているのです。」


言い終えたあとで背筋が固くなった。政治的に踏み込んだ話はしないつもりでいたのに、これは少し主張が強すぎるような気がした。


しかし、玉子は我が意を得たというような顔をしている。


「それなら韓国人は、政府が煽動しなくとも、日章旗を踏んだり焼いたり、外務省に爆弾を送りつけたり、日本を侮辱したり日本人に危害を加えたりするってことですね。」


違います――と反射的に声が出た。


「どこの国にもいるんです、そういうおかしい人は。」


「だって、韓国はそのおかしい人が――」


玉子、と代美が声を上げた。


その場が急に静かになった。


「そろそろよしなさい。」


玉子は二、三度瞬いてから、どうして、と問うた。


「空気を読めという話だよ。こういった場所でする内容の会話でもないだろう。ただただ雰囲気が悪くなるだけだ。少なくとも、僕は討論ディヴェートを聴きに来たんじゃないぜ?」


玉子は首をかしげ、そうなの――と問う。


「司はどうなの? こういう話、興味あるんじゃないの?」


司は曖昧な笑みを見せた。


「気にはなるけど、確かに、いま言うことではないかな。」


――気にはなるんだ。


ここ一年間で、司は社会的な話題に触れることはほぼなかった。ゆえに、こういうことに興味を持っているとは思わなかったのだ。


しかし、これ以上空気を悪くすることがはばかられるのも事実であった。


「玉子さんが、そういうことを気にかけるのも分かるんです。」


リップサービスを含め、熾子はそのように言う。


「けれど、代美さんの言うとおり、いま口にすべき話題ではないですね。メッセージとかでしたら、あとでいくらでも送ってもらっても構いませんし、私もできる限りはお答えしますので。」


「――そうですか。」


能面を貼り付けたような顔で、玉子はうなづいた。


しばらくは気まずい静寂が場を制した。


窓から射し込む西日を受けて、カップの中の黒い水面が白く輝いている。店内はとても賑やかだ。何となく、熾子はもう、それを全て飲む気にはなれなかった。

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