革命の歯車
冬澤 紺
第一話 緑色の故郷
「緑……。」
故郷に帰って来たイアンが胸につっかえそうになりながら零す。こんな鮮やかな色彩を口にしたのは、目にしたのはいつぶりだろうか。視界に広がる広大な草原、青々と茂る木々に天国に来たような気分になる。
革が捲れて黒ずんだ靴で、柔らかい草を踏みしめて丘の上の木と白壁の一軒家を目指す。家まで続く畦道の両サイドには丸太で組んだ柵が建っている。その中には羊が放牧されていて、家も自分も羊に囲まれているようだ。
ようやく登りきって、辿り着いた木の扉を一度撫でる。
「ただいま。」
そして深呼吸をすると、手の甲が痛くなるくらいノックをする。
何も言わずに出て行ったイアンをここの住人はどう思っているのだろうか。
「はい。」
まさかイアンが帰って来たとは露にも思っていないであろう男の声がする。
「はい。」
草原に響かせる声とは違う、余所行きの声がもう一度して扉が開く。
「どちらさまで……。っ?!」
「や、やあ。」
「イアンなのか?」
「ああ。」
ゆっくりと手を上げ、久しぶりに会う友人に挨拶をする。気まずそうに眼を泳がせた友人のフレッドが扉を開けたまま家の奥へと消えていく。
入っていいか分からず立ち尽くすイアン。
奥から戻ってきたフレッドが木の椅子とテーブル、棚だけが置いてある部屋にイアンを招き入れる様に「どうぞ。」と椅子を引く。
「お邪魔します。」
念入りに靴の汚れを落とし久しぶりにフレッドの家の敷居を跨ぐ。
包み込む懐かしい匂いにハンモックにでも揺られている気分だ。
これまた汚れた鞄を床に置いて、引かれた椅子の背もたれを撫でれば、もう視覚から嗅覚から触覚全てを故郷に支配されてしまいとうとう目頭が熱くなってしまった。
そんな憂いていた彼にきつい口調が刺さる。
「どうした?農村の硬い木の椅子は都会っ子には合わないのか?」
背中を向けて棚で作業をしているフレッドが発する声は刺々しい。
「あ、ああ、そうだな……。あっちは柔らかい綿花のクッションのお陰で尻が痛くならずにすむよ!」
ハハハとイアンは乾いた声で笑いながらお世辞にも良いとは言えない返しを先ほどの皮肉に投げつける。ガタガタと木の椅子を引いて座ると思わず目を細めてしまう。肛門から染み込んでくるような木の優しさに下から押し上げられ雫が溢れてしまった。
それを怒りを背に纏う男に気づかれぬよう擦れた袖で拭う。
隙間からフレッドを覗くとまだ何か作業をしている。
肩越しに湯気が微かにのぼっていて、何をしているのかすぐに分かったイアンだったが、何も声をかけることが出来なかった。
立ちのぼる柔らかな湯気とは逆に部屋の空気はだんだん重くなる。
「……。」
「……。」
昔はこんな感じではなかった。
しかし今の二人は初対面の人間よりもはるかに見知らぬ存在同士のようだった。
「よく村に帰って来られたな。休暇が取れたのか?移動費だって馬鹿にならないだろう。」
「ああ。工場があるマンチェスターから蒸気機関車に乗ってね。」
「ジョウキキカン?……あのよくわからん玩具か。」
あまり聞き慣れない単語にフレッドの手が止まる。逆にイアンは椅子に座ったまま身を乗り出す。
「玩具なんてもんじゃないぞ!蒸気だけで大量の人間、荷物を遠くまで運べるんだ!」
急に上がった声のトーンにフレッドが彼を盗み見すれば、文明を目の当たりにした男は瞳を爛々と輝かせていた。
「そんなもの俺には関係ない。」
「羊だって運べるぞ!」
だから何だというように肩をすくめるイアンは家で一番上等な陶器のカップに琥珀色の液体を注ぐ。それを二つ持ってテーブルに戻れば、イアンが何かを取り出した。
「何だそれは。」
羊の革でできた小物入れから出てきたのは白い塊。
「シュガーだよ。ミルクある?あとスプーンも。」
「あるが。どうする気だ。」
フレッドが怪訝そうな顔をしながらも搾りたてのヤギのミルクが入った桶を持ってくる。そして渡したスプーンでミルクを掬い、カップに垂らし始めた。
「イアン!」
「何?」
二杯目のミルクを垂らしながらイアンがフレッドを見る。強く名前を呼ばれたのにその手は操られているかのように今度はシュガーを摘まみ、カップにポチャリと品のない音を鳴らして落下させた。
「……っ!」
ワナワナと震えるフレッドには、目の前で繰り広げられている行為が理解できなかった。
「紅茶に何をしているのだ!」
丁寧に淹れた紅茶に震える指先を向ける。シュガーとミルクが入り肌色の水面に変わるティーカップ。
だが、怒りの矛先を向けられたイアンはどこ吹く風だ。
「美味しいよ?」
「そういう問題ではない!」
ひったくろうとしたが、イアンはカップの中身を一気に飲み干した。
「あっちではこうやって飲むんだよ。名前を付けるならミルク入りの紅茶だからミルクティーかな?」
カップの中には肌色の液体が少し残っているが、フレッドにはその色に何の魅力も感じることが出来なかった。
「そんな紅茶を楽しめないような飲み方が流行っているとは思えん!」
「そのうち王室や貴族、英国紳士だってこの飲み方をするかもしれないぞ?」
イアンの口ぶりから労働者に流行っている飲み方のようだが、未知の世界に労働者ですら特権身分でもあるかのようにその存在を遠くに感じてしまう。そんな彼と対比するようにゆっくりとカップに口を付け、立ち上る香りで精神を沈めるフレッド。
「ふう。ところで何をしに来たんだ。まさかその下品な飲み方を見せびらかす為にこんな田舎まできたわけではないだろう。」
「……買い手が見つかったんだよ。」
「……。」
二人して窓の外の自由な羊たちを見つめる。
「そうか……。よかったな。」
イアンもフレッドと同じ牧畜を営んでいた。しかしインドからの安い綿花に押され、国産の羊毛は廃業の一途を辿り、数年前とうとうイアンの家は廃業、この村でまだ羊で生計をたてているのはフレッドだけだ。イアンの両親は多額の負債にボロボロになり命を絶ち、残されたまだ20代のイアンは労働者に転身するしかなかった。インドの綿花で利益を目論む工場の出稼ぎ労働者として今はマンチェスターで働いている。
「お前は生き残れよ。」
辛そうに笑うイアンにYESという事が出来ない。そんな空気を察したのか、手をパンッと叩き何か思い出した様な表情をする。
「そうだ。プレゼントがあるんだよ!」
差し出された木の箱。
「開けてみて!」
戸惑いながら開けると、憎き綿花をクッションとし、シルクの薄い布越しに硬い物が触れる。丁寧な包装とずしりと来る重みに高価なものだとフレッドは察した。
「これは……。」
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