低脂肪牛乳を買いに行こう
篠岡遼佳
愛の言葉を花束に
その日は朝からしとしとと雨が降っていた。
少し起きるのが遅れてしまい、バタバタと出勤の準備を整える。
化粧も簡単に済ませて、ドライヤーと格闘して、なんとか社会人に変身できた。すると、ミルクの入ったコップを持ちながら、パジャマの上だけを着た彼女がやってきた。
「おはよう~~」
「おはよ。今日はちょっと急ぐから、朝ごはんはいいや、ごめんね」
「ん、それはいいんだけど」
カバンの中身を確認する。定期や社員証を忘れずに、ハンドタオルも持って行こう、よし、大丈夫。そう思った時。
「ねえ」
彼女が、ぽつりと言った。それはこのさほど広くないキッチンになぜか響いた。
私が顔を上げると、彼女はその、特徴的な淡い茶色の瞳で私をじっと見ていた。パンにジャムを塗る途中の姿で。
「どうしてあたしを選んだの?」
彼女は悲しむでも怒鳴るでもなく、私に淡々とそう言った。
私は戸惑いながら、
「どうしてって……それは好きだからに決まって」
言いかけると彼女はたたみかけるように言う。
「本当に好き? ねえ、それって、同情とか、あたしに行き場がないとかだからじゃない? 最近ずっと気になってた。どうなの?」
――と、ここでどうしようもない出勤の時間が来てしまった。
どんなに言い合いをしていても、それだけはお互い譲れない。
今日は私が先に出る日だ。「ごめん!」ひとつ頭を下げて、私は慌てて靴を履いた。
おかしい、この間から、ずっとすれ違ってる。
彼女と私は、ルームシェアから発展した、まあ、女性同士のカップルである。
趣味も行動範囲も全然違っていて、出会った当初はうまくやっていけるか本当に気をもんだ。
だが、その逆のタイプというのが意外なほどハマり、インドアの趣味は彼女に教わり(美術館巡りなんて初めてした!)、外に出ていく趣味は私が担当している(クラゲを見るために山形まで車で連れて行ったこともあったっけ)。
そうしていつしか、私は彼女の色素の薄い紙や肌や瞳を愛しく思うようになり、ゆっくりと彼女のどうしようもない過去を少しは分かち合うようになり、今に至る。
――そして、恥ずかしい話だが、この間からおかしい、と思っていても、その「この間」というのがいつなのか、実はちょっとわからない。
私はけっこう忙しい、朝も早く残業も多い金融関係の仕事をしていて、彼女は今はフリーターだ。収入があまりにも違うので、彼女には家のことをしてもらいつつ家賃は折半、残りの光熱費等は私が出すという形を取っている。
それでお互い納得していたし、これまで二年近くやってきた。
それなのに、急に、いや、いつの間にか、彼女にあそこまで言わせている。
自分がとことん情けないが、私も私で、私になるための過去がある。だから、なんと言ってあげたらいいかわからない。何が必要なのかわからない。"生きるの不器用だよね"、とは昔の彼氏に言われた台詞だ。その通り過ぎてすごく腹が立つ。でも、仕事にかまけて彼女にすてられるなんて絶対にがまんできない。
とにかく朝の続きを話し合わなければ。今日は彼女は遅番で19時上がりのはずだ。私も必死で仕事をこなし、なんとか20時には会社を出た。家に着くのは21時くらいになっているだろう。ああ、彼女をひとりにしてしまう時間あるのが本当に悔しい。でも、彼女と共に暮らしていきたいから、仕事は絶対に辞めないぞ。
……いや、だから、仕事しすぎてフラれそうなんだってば。
帰り道、ちょっと有名なデリカテッセンを横目に過ぎる。
そういえば、彼女はここのパンプキンサラダが好物なのだった。最近買っていないな。忘れていた。一緒に見たアニメのプラモデルだって、ほしいって言っていた。
なんで忘れてしまうんだろう?
なんでそのとき一緒に買いに行かなかったんだろう?
物事に保証なんてないのは、もう大人だからわかってるのに。
言いたいはずのことは言えなくて、恥ずかしいとか、言わなくてもわかるとか、そんな風にばっかり言い訳している。
胸が苦しい。彼女を思って、痛いくらいに。
私はどれだけ彼女の愛に応えていただろう? どうやって彼女の想いに応えているだろう?
私は足を速めた。彼女に早く会いたい。会って、会って、それから……。
ガチャン。
鍵を開ける前に、我が家のドアが内側から開いた。
顔を上げた彼女は目元を赤くし、手に何か紙と、大きめのカバンを持っていた。
――出て行こうとしている。
それは完全にわかった。一緒に居たからわかる。彼女は痛みを知りすぎているから、他人に痛みを求めない。自分を追い詰めてそれを実行する。
「待って!」
私は叫んでいた。そうだ、わかってる。
これが私の本音なのだ。
"彼女と一緒に居たい、どこにも行ってほしくない"
不器用な私は不器用なりに、彼女の細い手を掴む。
「君が好きだよ、大好きなんだよ。だからごめん、いままでごめん」
すると、手を解かずに、彼女は俯いて私に言った。
「――それって、ずるくないですか」
「え、で、でも、そう思ってるのは本当だし……」
「三行半書いて出て行こうとしたのに、今そう言うのは卑怯だもん!」
ばしん! と彼女は私の胸に持っていた紙を押しつけた。
読んでみると、手書きの文字で「さよなら なんていいたくない」と、ちいさく書かれていた。
彼女は俯いたまま、続けた。
「あたしのことほんとに好き?」
「もちろん、好きだよ。仕事ばっかりしてて、ごめんね」
と、ぱっと顔を上げた彼女はカバンを放り投げ、人差し指で私を指しながら言った。
「あやまるのもずるい!」
「ええ??」
「あのね」
彼女はぐすっ、と鼻をすすり、目尻を手の甲で擦りながら、
「好きなひとに好きって言われたら世界で一番うれしいし、安心しちゃうんだからね! 女ってそういうおばかな生き物なんだから!!」
私も女……と思いつつも、でもその言葉を反芻して私は思い至った。
確かに、彼女にもし毎日「好きだよ」と言われたら、それだけで一日上機嫌だし、早く帰ろうとも思うだろう。彼女の愛そのものを抱きしめて、信じることだろう。
そうだ、「好きだよ」と言うだけで、この子を安心させられるのだ。
今日初めて、気がついた。
今度はこっちが泣きたくなるほど綺麗な笑顔を見せてくれる彼女。
こんな彼女の一瞬一瞬を、私はきちんと見つけて、愛していくんだ。
ぎゅっとその細い体を抱きしめると、私はたとえようのない幸福感に包まれた。
ああ、だから、言わなくちゃ。
「愛してるよ、私は幸せ者だ」
「当然でしょ。君はあたしと二人でいるから、幸せになれるんだから」
おでこをコツンと合わせて、私たちは笑い、そして二人で手を繋いで、今日の糧のために、キッチンへと向かった。
ところで、牛乳を買い忘れたことは、許してくれるだろうか?――
低脂肪牛乳を買いに行こう 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka
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