第10話

 トーリエ学園の一年二組に在籍しているヨイチ・ザクヤは、教室で密かに興奮していた。理由はハッキリしている。今朝、教室を開けて鍵を職員室に返しに行った際、聞こえてきた先生たちの会話から、退院した吉良きらユイが学校に登校して来ることを知ったからである。彼は彼女に特別な感情を抱いていた。


「もしかしてヨイチさん教科書忘れました? 一緒に見ます? いえいえ、遠慮しないで下さい。あっ、先生ー、申し訳ないのですが、わたし教科書忘れてしまったようで、ヨイチさんに見せてもらってもよろしいでしょうか?」


 これは入学して間もない頃に、ヨイチがユイから受けた気遣いであるが、こうして先生から注意を受けながらも、鮮やかに了承を取り、机をくっつけてくる隣の席の美少女に、彼は心を奪われたのだった。


 ヨイチはだらしのない顔でニヤニヤしながら、心の中で歓喜した。教室に居る他の生徒たちからは不審がられていたが、湧き上がってくる感情は抑えきれない。だが少しして、彼のそのニヤケ顔は聞き慣れた「ごきげんよう」という声によって真顔に戻される。


「朝からお下品な顔ですわね、何かありましたのヨイチさん?」


「……ごきげんよう、白州さん。いえ別に、何もないです」


 ヨイチはそう答えて、自分の前の席に座るカオルと視線を合わせた。


「何もないのにニヤニヤしていたのですか?」


「いやぁーその、何と言いますか……さすがに無理がありますね。実は今朝、職員室で先生たちの話し声が聞こえてきたんですが、どうやら今日ユイさんが退院して学校に登校してくるみたいなんですよ。だからクラスメイトが戻って来るのが素直に嬉しくて」


「ああーなるほど、ヨイチさんもご存じでしたのね」


「白州さんも知っていたんですか?」


「ええまあ、というか偶然近くの交差点でユイさん本人と、お兄様のマタオさんとお会いになりましたので、学校まで一緒に登校してきましたの」


「ええっ!? そうだったんですか!? もうユイさん学校に来てるんですか!? どこです!? どこに居るんです!? 早く出して下さい白州さん!」


 ヨイチは席から立ち上がって、カオルの肩を激しく揺すりながら言った。


「ちょ、ちょっとヨイチさん、痛いっ、力が強いですわ、落ち着いて下さい。出すもなにも、ユイさんは職員室です。色々事情があるらしいので、担任の倉吉くらよし先生と一緒に教室へ来られるみたいです」


「あ、そうなんですね……すいません、つい、クラスメイトが戻って来るのが嬉しくて熱くなってしまいました」


 ヨイチはカオルを解放して言った。


「だけど心配だなあ、まだ本調子じゃないんですかね? 久しぶりに会ったユイさんはどんな感じでした?」


「ど、どんな感じと言われましても……元気は元気だと思いますが……」


「思いますが?」


「あ、いえ、ちょうど倉吉くらよし先生が来られましたようなので、お分かりになると思いますわ」


 廊下からヒールで歩く音が近づいて来たのを察知したカオルは、彼との話しを中断した。


 ヨイチは歯切れの悪いカオルを不審に思いながらも、教室に入ってきた先生を見て、再び自分の席に着いた。


「はい皆さんごきげんよう。早速ですが今日は出席を取る前に重要なお知らせがございます」


 担任の倉吉は教卓に出席簿を置いて、淡々と生徒たちに言った。


「えー、先月事故で入院されていた吉良きらさんですが、このたび無事に退院されましたので、本日からまた皆さんと一緒に授業を受けられるようになりました」


 彼女が落ち着いた口調で報告すると、生徒たちは男子女子関係なく歓声を上げ、教室がワッと沸いた。それぞれが持っていた吉良ユイのイメージが頭の中で再生されたからである。美人でクールな吉良ユイ。成績優秀な吉良ユイ。おしとやかな吉良ユイ。ミステリアスな吉良ユイ。お茶目な吉良ユイ。口を手で押さえて笑う吉良ユイ。そして、困っていたら手を差し伸べてくれる吉良ユイ。入学してから事故に遭うまでの一カ月、彼女はすでに大半のクラスメイトの心を掴んでいた。


「お静かにっ! まだ話は終わっていませんよ!」


 倉吉は騒がしくなった生徒たちを叱りつけるように言って、出席簿で教卓を叩いた。


「皆さんのお気持ちも理解できますが、ここからが重要なお話になりますので、よく聞いてください。知っての通り吉良さんは不幸な事故でご両親を亡くされ、ご自身も意識不明の重体で入院されておりました。このたび奇跡的に退院できたとはいえ、事故の後遺症で記憶障害がございます。ですので皆さんのことはおろか、学校のルールに関しても分からないことが出てくるかと思います。ですので皆さんはそれを理解したうえで、吉良さんを助けてあげて下さい」


 この説明にヨイチは他の生徒たちと同様に驚いた。そしてそれは彼の大事にしていたユイとの思い出が壊れた瞬間でもあった。


 白州さんが言っていたのはこういうことだったのか。いや、落ち着け、あの教科書を見せてくれた日のことをユイさんがもし忘れていたとしても、俺のこの気持ちは何も変わらないじゃないか。それにユイさんとまた一緒に学校生活を送れるんだから、今はそれだけで幸せだ。


 ヨイチはそう自分に言い聞かせて、これからまたユイと新しい思い出をつくろうと思った。


「では吉良さーん! 入ってきて下さーい!」と、説明を終えた倉吉は廊下で待機していたキラユイに呼びかけると、教室のドアが勢いよく開いた。


「おうっ! おはようさんっ!! ワシはこの通りすっかり元気やさか大丈夫やっ! これからもよろしゅうな人間ども!」


 威勢良くズカズカ入室したキラユイがそう言うと、クラスメイトたちはあまりに以前のイメージとかけ離れている彼女に困惑し、教室は静寂に包まれた。


「なんやなんやっ! しみったられた奴らやなっ! 心配しすぎて声も出らんとは、しゃあない、ほんならとっておきのやつを見せたる!」


 キラユイはやれやれといった様子で教卓の上にヒョイっと乗って立ち上がると、左手で片足の踵を掴んで見事なY《わい》字バランスを決めた。ほとんどI《あい》字バランスと言っても過言ではない。


「見てみいっ! ワシはこの通り完全復活やっ!」


 キラユイは昨日マタオから聞いていたユイの意外な特技を披露して、教室の雰囲気をなんとかしようとこころみたのだったが、純白のパンツが全員から丸見えになったため、ヨイチを含めた男子生徒たちが心の中でガッツポーズを決めただけで、教室は余計に変な空気に包まれた。


「き、吉良さんっ! 何をやっているんですか! 早く足を下ろして教卓から降りなさい!」


 あまりの出来事にポカンとしていた倉吉は、我に返ってキラユイのパンツを出席簿で隠しながら言った。


「ワシあと二、三分ぐらいはイケるんやが」


「続けなくていいですからっ!! 今すぐ降りなさいっ!!」


「なんやなんや、良かれと思ってやっただけやのに」


 キラユイは仕方なく足を下ろして教卓から降りると、不満そうに言った。


「ちょっと元気アピールしただけやがな」


「はしたないですから、今後制服でY字バランスをするのは絶対にやめて下さい。あとさっきも職員室で言いましたが、トーリエ学園では上品な言葉使いを心掛けるようにと、校則で決まっていますので、吉良さんの事情も考慮しますが、出来る限り慣れていって下さい」


「分かった分かった、ゴザイマスルッ! ゴザイマスルッ! やろ?」


 キラユイは謎の掛け声を発しながら敬礼をして同意を求めたが、倉吉は困惑するだけである。


「えー、ちょっと違いますが、と、とりあえず吉良さんも席に着きましょうか、出欠を取りますので」


「吉良さんやない、ここにおるやつ全員に言っておくが、ワシのことはキラユイと呼べ、お前らの新しい王や」


 キラユイは呼び方に不満があったらしく、得意げに宣言した。


「……はあ、分かりました。新しい王かどうかは関知しませんが、フルネームで呼んでほしいという生徒の要望ぐらいは配慮致しましょう。ではキラユイさん、一番後ろの窓際の席に座って下さい」


「おう、あとクソしたいんやが、便所はどこや?」


「……キラユイさん、そういう時は、お花をみに行ってきますと言って下さいね。お便所だと品がないですから」


 倉吉は嫌な汗をかきながら言った。


「はあ? はなぁ? そんなもんんどったらクソ漏れるがな、オバハン頭おかしいんちゃうか?」


「だ、誰がオバハンですかっ! 私はまだ三十代後半ですよ!」


「そこそこいっとるがな」


「まあっ! なんてことをっ!!」


 彼女は顔を赤くして憤慨した。


「せ、先生っ! 私キラユイさんと一緒にお花摘みに行ってきます!」


 キレている倉吉を見て、カオルは素早く席を立ちながら言った。


「はいキラユイさん行きましょうねー、お漏らししたら大変ですからねー」


「クソすんのになんで花摘はなつみに行くんや? ワシに野糞のぐそせえって言うんか?」


「いいから行きますよっ!!」


 カオルが強引にキラユイの手を掴んで教室を出て行った後、倉吉やヨイチはもちろん、クラスメイト全員がこう思った。


 これもう記憶障害ってレベルじゃねーぞ。

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