終章(金・土・日)

第1話

 ――金曜日


 和也の淡い願いは虚しく破れ、今朝もユミとの関係も相変わらずだった。とはいえ、しっかり者のユミらしく、朝食には手を抜かない。和也を見送る際にも、「和也さん、行ってらっしゃい。がんばってね」と笑顔でキスをしてくる。

 周囲から見ればまさに仲睦まじい夫婦だろう。『仮面夫婦』というフレーズが、和也の脳裏を駆け巡る。ただ救いは、今日一日が終わり明日になれば、ユミも楽しみにしている週末デートの水族館行きだ。ユミの提案により、明日の土曜日に水族館に行って、日曜日は家でゆっくりと過ごす予定になっている。週末の二日間で、和也はユミとのぎくしゃくした雰囲気を、解消しようとしていた。


 社員食堂でランチを食べて、和也が食後のコーヒーを飲んでいたときだった。明日の今ごろは、ユミと楽しく過ごせてるはずだ。だが、和也の甘い幻想を一通のメールが打ち砕いた。

『依頼の件取り急ぎ。サクラダユミさんは、昨日現在でG県T市F病院に入院しておらず。 中崎茂』


 ユミが既に死亡している確率が高まった。もちろん、ユミの寝言が単なる偶然や、F病院からユミが無事に退院していて、どこかに暮らしている可能性もある。だが先月に、ユミの退学処理がされているのだ。

 和也はくらくらとした目眩めまいを感じた。ユミとの関係を早く正常化させたい。午後の和也は人が変わったように、業務に気合を入れに入れる。その甲斐があって定時の一五分前には、和也はノルマを達成していた。


 慌ただしく退勤した和也は、四五分で帰宅する、とユミにメッセージを送る。すぐにユミからは、『今日はだいぶ早いね。嬉しい。 ユミ♡』と返信があった。ハートマークが付いていても、ここ三日は、冷ややかな関係なので今は関係ない。とにかく自宅に急ぐんだ。そう和也は考えて、駅からは、七分短縮するためにタクシーを使った。


 慌ただしく和也が自宅ドアを開ける。笑顔のユミがいつものようにお帰りのキスをした。和也はユミを担ぎ上げて、そのまま寝室に運んでベッドの上に横たえた。ユミは和也の荒々しさに一瞬驚いたが、静かに微笑んでいる。

「和也さん……いきなりどうしたの?」

「ユミを抱きたい。いやユミを感じていたい」和也はジャケットを脱いで放り投げて、強くユミを抱き締めながら言い放った。

 ユミはすこしの間考え込む様子だったが、

「そう……分かった。でも私にも、心の準備が必要って言ったでしょ? 一分だけ時間をちょうだい」と静かに言った。


「ああ。構わないよ」和也は返事をする。

「和也さんはスーツがしわになるから仕舞ってね。私はこんなエプロンで料理中だったし、お風呂に入ってないの。だから準備してきていい?」

 とユミに言われて、和也は冷静さをやや取り戻してきた。

「ごめん……。もちろんいいよ」

 和也はスーツを丁寧にしまって、トランクス一枚の姿になってベッドに腰掛けた。ユミは浴室に行って、風呂の準備をしていたらしい。寝室に戻ってくると和也の横にちょこんと座る。


「お風呂の準備しておいたから、和也さん先に入ってね」ユミはやわらかに微笑みながら言う。ユミの様子を見ていると、和也が一昨日からユミとの間に感じていた居心地の悪さが薄れてきた。

「ああ。そうだな」と、和也は答える。

「じゃあ、私は和也さんの後に入るよ。いまのうちに、さっき料理してたまんまのキッチンを片付けてくる」ユミはニコッと笑って、ささっと寝室から出ていった。


 和也は風呂に浸かると、さらに冷静になっていく。一昨日の夜から、おかしくなったユミの様子はともかく、和也はユミを強引に押し倒そうとしたので、申し訳ない気がしてくる。和也は風呂からあがって寝室に戻った。ユミがちょこんと所在なさげに、ベッドに腰掛けていたので、ユミの横に座って「さっきは、ごめん」と和也は謝る。

「うん。それはいいの。私も急いで入ってくるから待ってて」ユミはそう言い残して、寝室から出ていった。


 ユミはどういうつもりなのか。残された時間が短いなら、二人でいる時間を増やすのが自然だと思うのだが、逆にユミは和也に対して距離をおいている気がする。ユミが風呂から戻ったら、気持ちを訊いてみよう。そう和也が考えを巡らせているうちに、ユミが風呂からあがって、

「和也さん、お待たせ」と、寝室に戻ってきた。

 和也がユミに尋ねようとした機先を制するように、ユミは言う。

「和也さんが言いたいのは、一昨日から私が和也さんと一緒に、寝なかったことでしょ?」


 和也はユミに訊きたかったことの図星を指されたので、

「あ、ああ。そうだな」と狼狽うろたえてしまった。

「やっぱり、そうだよね。私も和也さんと一緒に寝たかった。でもね。私もすごくすごく我慢してたの」

「我慢?」和也はユミが我慢していたように思えなかったので、問い返す。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る