僕とあの子の10日間
里見つばさ
第一章(木・金・土)
第1話
――木曜日
「家に帰っても誰もいないんだけどな……」
とあるメーカーの人事部に勤める
私鉄でターミナル駅から急行で一七分のS学園駅。さらに徒歩で一二分。ドア・ツー・ドアで、通勤時間は四五分ほどだ。結婚を機に背伸びして住宅ローンを組んだ
下向きの視線の先に
ゴミ箱にきちんと捨てろよな、和也は心の中で舌打ちをした。ところが、二五〇CCのドリンク缶より細めの白い物体が、もぞもぞと動いた気がする。
生き物? インコ!?
闇の中でくっきりと映えたのは、白っぽい羽毛を膨らませたインコ――和也の記憶によればセキセイインコだ。和也が身を
お前、怪我しているのか? バカがつくお人良しと友人に
「少しの間だから辛抱してくれよ。病院、病院と……あそこじゃ無理だよな」
飛べない白いセキセイインコを、助けることにした和也は苦笑する。この信号機から三〇メートルほど先には、小さいながらも救急病院がある。だが、もちろん小鳥は診療外だ。青信号を小走りで渡り、自宅マンションへ急ぐ。
ものの数分で七階の自室に辿り着いて、玄関ドアを開ける。
「ただいま!」
約一年ぶりの帰宅の挨拶だ。かつては妻の――元妻の
鳥カゴのように洒落たものはないので、和也は小さめで手頃な通販の段ボール箱にフェイスタオルを敷き詰めて、助けた白いインコの仮住まいを整える。
「ピーちゃん、明日は病院に連れて行ってやるから、今晩は我慢してくれよ」
ピーちゃんと名付けたセキセイインコを、和也は静かにそっと段ボール箱の即席ケージに収めた。段ボール箱にタオルを被せて、和也はようやく安堵の息を漏らす。
リビングの四人掛けのダイニングテーブルに、和也は買ってきた弁当と惣菜を広げる。和也は久し振りに、コンビニで貰った割り箸は使わずに、ダイニングボードの引出しに収納されていた自分用の箸を使った。
まったく変わり映えのしない夜食だが、一人ではないからだろう。いつもより美味しい気がする。
「ピーちゃんも腹が減ってるのかもな」
食欲が満たされていくうちに、和也は色白の彼女が気になった。
――セキセイインコは何を食べるんだろう?
行儀が悪いが、夜食を食べながら携帯電話でネット検索する。オーストラリア原産、植物の種子などのフレーズが見て取れた。
なにより怪我か病気か不明だが、飛べないのはきっと彼女に何か問題があるのだろう。そう和也は思い至って、鳥の病院情報を検索した。犬や猫は殆どの動物病院で診てもらえるけれど、小鳥を診る病院は少ないらしい。
近場の数カ所の小鳥に対応した動物病院に目星をつけた後、同じくネット検索で得た情報によって、和也はインコのピーちゃんを保温してあげることにした。保温してあげるのはインコが体調が悪い場合の、応急処置の常道らしい。和也は、自分がまだ会社帰りのスーツ姿だと気づき、慌ただしく着替えて、携帯用カイロを買いにコンビニエンスストアに走る。
十月半ばだが、深夜は肌寒い。「ただいまっ!」和也は白い息を吐きながら、五分で彼女が待つ自室に戻った。カイロにハンカチを巻いて、即席ケージの段ボールの隅に置く。
「これで大丈夫かな?」
フェイスタオルを被って、大人しくしていたインコのピーちゃんは、和也に気づくと身体を起こして「ピッ」と一声鳴いた。もふもふとしたピーちゃんが礼を言っているのかもな、と和也は微笑む。
「キミはちょっと変わった毛色だな」
ネットで検索した際に見かけたセキセイインコは、黄色と緑の組み合わせが多かった。白い羽毛で、ピーちゃんに似た個体も見かけたが、いずれも頭や背中の黒い縞模様が目立っている。対してピーちゃんは背中が殆ど白色で、お腹が薄いブルーと白色のツートンだ。ペットの常で珍しい品種は、おそらく通常より高値で取引されているのだろう。
「んー。キミは美形のお嬢様なのかな」和也はピーちゃんに声を掛ける。
体調の悪いインコに無理をさせてはいけないはずだ。そう考えて和也はふわっと段ボール箱にタオルを被せた。
――金曜日
和也は起床するとすぐに、もふもふピーちゃんの容態を確認した。彼女は大人しくしているようだ。良かった生きてる、と和也は胸をなでおろす。外出する格好に着替える。和也が選んだのは、出勤用のワイシャツではなく、Tシャツにブルゾンのラフな格好だ。
よし、と和也は意を決して、上司にメール連絡をする。幸い急ぎの仕事はないし、金曜日なので明日と明後日も自由に動けるはずだ。和也が欠勤しても問題は少ないだろう。週明けの月曜日の仕事が多少忙しくなるだけだし、和也の忙しさを気にかける人間は、会社の上司や同僚程度の数名にすぎない。
『体調が悪く通院するため、本日は休ませてください』嘘ではないな、と和也は頷く。体調が悪いのは自分ではないけれど。
初めてのズル休みだな。和也は苦笑すると、段ボールのケージを揺らさないように持ち運ぶ。昨晩、見当をつけた動物病院に、ピーちゃんを連れて行くのだ。
タクシーで八〇〇〇円程度かかったが、今は悲しくも扶養家族がいない気軽な独り身。大した問題ではない。
もふもふピーちゃんを診た初老の獣医先生によれば、彼女は風邪に罹っていたらしい。幸いにも殆ど治っている様子とのこと。和也はほっと胸をなでおろす。ピーちゃんは飼育されていた先から逃げてしまい、気温差で弱ってしまったのではないかと。暖かくしてやり餌を食べれば、ピーちゃんはじきに回復する見込みだろう。獣医先生の太鼓判に、和也は安堵の微笑を浮かべる。
幸いなことに、昨夜の肌寒さとはうって変わって、
「ピーちゃんの家は後回しだな」和也はつぶやいた。
鳥カゴも手に入れて、小さな同居人をもっと見ていたい気も、和也にはかなりあった。だが、どう考えても彼女は、高級なセキセイインコでお嬢様だろう。きっと、飼主が心配して、探しているに違いない。お嬢様インコに通販用段ボールの住まいは、不釣合いで申し訳ないけど、いましばらくは我慢してくれ。そう和也は心の中で詫びると、手頃な皿で餌と水を用意する。
小鳥とはいえ生き物の気配がすると、和也の心までが賑やかになった。一年前に智美が出て行った後に、和也の部屋に入った生き物といえば、蝿や蛾などの害虫ぐらいだ。
ペットを飼えば一人暮らしの寂しさが、少し和らいだのかもしれないが、動物嫌いの智美が戻ってくるのを和也は淡く期待して、飼育に手を出さなかったのだ。
和也が昼食を食べ終えた頃には、すっかり、もふもふピーちゃんは元気を取り戻したようだ。フェイスタオルを段ボール箱に被せてあるから、詳細は不明だけれど、餌を食べたり水を飲んでいるような物音が聞こえてくる。さらには、ピッピッといった元気そうな鳴き声までも。ピーちゃんの体調がだいぶ回復したので、ほっと一安心だ。和也は胸をなでおろす。
だが、もう一つの懸念が和也の頭をよぎる。――ピーちゃんの飼主。
「キミの家はどこなんだろうね」と、和也はバルコニーに出て、周囲の町並みを眺める。駅からある程度離れているため、周辺はほぼ住宅街といっていい。大きな家もちらほら目につく。数十メートル先に一際豪華な一軒家が目に付いて「あんな豪邸のお嬢様かもな」と、和也が考えていたときだった。
背後の開けていた大窓から、和也の顔をバサッと
「あーあ。行っちゃった」
飼主が見つかるまで、ピーちゃんを飼おうと考えていたので、和也はがっくり肩を落とす。だが、彼女の思いのほか元気な様子に和也は満足した。
「……飼主のところに無事に戻れよ」
再び寂しい夕食になってしまったが、一つの生命を救ったこともあり、和也の気分はすこぶる良かった。とはいえ、物足りなさも感じてしまうのもまた事実。インコでなく鶴だったら、恩返しをしてくれるだろうか、などとバカバカしい考えを和也は振り払う。
智美が出ていってほぼ一年。納得してはいないが、既に離婚は成立していて法律上も和也とは無関係な人間だ。大学時代からの交際期間の五年間と、短かった結婚生活の一年は何だったんだろう。とはいえ相手あってのものだから、無理なら諦めるしかない。和也は苦い記憶を噛みしめる。
頭では分かっているものの、どちらかといえば和也が智美に熱をあげていたし、簡単には吹っ切れない。
「誰か別の相手がいれば違うのかも……」
そんな考えを和也が巡らせていると、インターホンのチャイムが鳴って、思考を中断させる。通販が届く覚えもない。まさか智美か、と、和也はリビング入り口脇のモニターで相手を確認する。
来客したのは残念ながら智美ではなく、見知らぬ女性のようだ。だが一階のロビーではなく、玄関前のインターホンまできている。まったく誰だよ……。
「はい……」
和也は何かのセールスだと思って、受話器を取って相手の様子を
「突然夜分に失礼します……インコをあなたが助けてくれたでしょ? だから……お礼を……」
え、お礼? まさか、もふもふピーちゃんの恩返しなのか?
予想外の女性の返答に、和也はあり得ない考えをしてしまった。ともあれピーちゃんが、飼主のところに無事に戻ったのだろうか。和也の気分が高揚する。
「少々お待ちを」
和也が玄関に飛んでいき玄関ドアを開けると、白いワンピースに薄いブルーのカーディガンを羽織った色白の少女――いや美少女が笑顔で
「たくさん飛んできたから疲れちゃって……ごめんなさい」色白の美少女が謝った。
「えっ? 飛んで?」
和也は彼女の言葉の意味が分からなかった。だが少女の顔を見れば、確かに顔面蒼白で、体調が悪いのは明らかだ。しかも、夜になってだいぶ冷え込んでいるのに、一枚羽織っているが夏物のワンピースで寒々しい。
「おい、キミ。大丈夫?」との和也の問には答えず、少女はさっと玄関から廊下に上がり込むと、パタリと倒れてしまった。
「ちょ、ちょっとキミ、調子悪いのか?」
「う、うーん……」
「とりあえず、肩を貸すからリビングにおいで」と、和也が肩に担ぎ上げるため、意識がはっきりしない少女の手を、取ろうとしたら驚いてしまった。
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