千堂要は気がつかない

湊 めそこ

第1話

平平凡凡。

この言葉を彼、千堂要が使うとだれしもから渋い顔をされる。

185センチを超える長身、某大学院で優秀な成績を収め研究者にもなれるとまで言われた頭脳、音楽の道に進むことすら進められたピアノの腕前。恵まれているという自覚はなかったが、少なくとも彼は自分が得意とする分野においては一級品の才能を持つ人物ではあった。


ただ、それだけであった。彼には、それ以外が何もなかった。

長身ではあったが筋肉はなく育ちすぎたモヤシのようだと揶揄された。

優秀な頭脳の持ち主ではあったが、度胸がなく学術発表の席ではお茶を濁すばかりだった。

ピアニストとして一流の腕前を持つが、本番に弱く演奏会が苦手だった。

とにかく自分で何かをして結果を出すのが苦手で苦痛でしょうがなかったから、教師になった。

教師ならば自分のがんばりを結果として出すのは生徒だから、ちょっとは自分よりうまくやってくれるだろうなんて淡い期待を抱いて。

そんな淡い期待を抱く日々にもなれて、ただ日々を教師として生きていた彼にちょっとした出会いが訪れたのは6ヶ月前のことだった。

そう、出会ったのだ。本物の、天才に---


「…んせい、千堂せんせい!」

「…お」

「お、じゃないですよ、もうみんな帰ってますよ!」

「あ、ああ。そうか。…お前は何でいるんだ、琴坂」

「そりゃあ、練習をしてたんですよ。さすがに怒られる時間なのでやめましたけど」

「8時回ってる?もしかして」

「はい。私ももう帰る時間なのでご挨拶をと思って」

「そうか、すまん。ご苦労様。俺ももう帰るし近くまででも送るわ。お前に何かあったら俺は琴坂先生にどやされるじゃ済まされねえから」

「…お父さんのことはあまり気にしなくても」

「お前が思ってる以上に俺はお前の親父さんからいろいろ言われてんだよ。…まあ、それを抜きにしても生徒を心配するのは教師なら普通だろ」

「…わかりました。じゃあ、お願いします」

「こんなおっさんが帰り道のお供で悪いけど、我慢してもらうしかないな。嫌なら早く男を作れ」

「…不純異性交遊を推奨するつもりですか?」

「不純じゃないやつで頼むわ。じゃ、準備するから待ってろ」



本物の天才、そして今しがた千堂を思考の海から引っ張りあげた少女、琴坂明音。それが彼女の名前だった。全校生徒の9割以上が初等部からのエスカレーターであるこの学校で、今年度8人しかいない高等部受験入学者。およそ中学生に課すとは思えない難易度の試験と大手企業もかくやといわんばかりの面接、論文課題。それらをパスしてきた上に父がこの学校の保険医であるが故にコネではないかと疑われ学年から向けられる好奇の目もものともしない精神力。強豪吹奏楽部といわれるこの学校の吹奏楽部において1年にしてすでに大会選抜メンバーとして都大会で実力を遺憾なく発揮したトロンボーンの腕前。そしてその実力を裏付けるような練習量。かといって冗談が通じないわけでも生真面目すぎるわけでもなく、あっという間に学校に馴染んでしまう社交性。授業中に居眠りなどしては怒られて笑ったりするその姿はまるで欠点まで魅力にするように見えて恐ろしさすら覚える。もし彼女が漫画や小説の登場人物なら、メアリー・スーといわれても仕方がなかったのではないかと思うほどに。

この年の学生としてはあまりに完成されすぎているその彼女がなぜ自分を気にかけているのかはわからないが、慕われている自覚は千堂にはあった。吹奏楽の顧問で担任の教師である千堂が彼女の学園生活にかかわることは多いからだろう。そのせいか、彼女の父親である保険医からは威嚇にもとれるほどの注文を受けることもしばしばあった。プレッシャーだ。このレベルの生徒になると、打てば響くその才能に何かを教える喜びと同じくらい必ず育て上げなければならないというプレッシャーがかかるのに。もっともこんな娘がいれば気が気でなくなるだろうし、半ば仕方ないと千堂もあきらめてはいたけれど。


荷物をまとめて職員用玄関を出ればすでに帰る準備ができていたらしい琴坂が暇そうに虚空を眺めていた。イマドキの高校生なんだからスマホのひとつでもいじっていればいいのに、と靴を替えながら見つめていたらこちらに気がついたらしく小走りで駆け寄ってくる。

「すまん、遅くなったな」

「いいえ。送ってもらう身ですから」

「…送るっていったって車じゃなくて歩きだぞ」

「知ってますよ、それでも一人よりは二人のほうがいいじゃないですか」

「まあ、確かに女の子の一人歩きは危ないし」

「違いますよ!帰り道が退屈しないじゃないですか、ってことです!私は先生と話しながら帰るの、結構好きですよ」

「そりゃあどうも。おら、早く帰るぞ。こんな時間だとたぶん琴坂先生も帰ってきてるだろ」


校門を出て歩き始める。

秋も徐々に深まってきた季節、色づき始めた葉や山際の小さな田園が上りはじめた月に照らされている。この町は東京都のはずれ、一番の山際だから自然の移ろいが目で楽しめるのがいいところだ。単身赴任していた父を追いかけるようにして上京してきた琴坂は、景色を楽しむようにきょろきょろとあたりを見回している。


「…あ、」

「どうした」

「いや、かわいいお地蔵さんがあるなあって」

琴坂が指差した先にあるのは彼女の言うとおり60センチほどの地蔵だった。

「まあ、この辺田舎だし、珍しいもんでもねえよ」

「へえ。…東京にもあるんですねえ」

「おまえ、東京を何だと思って…」

そう千堂が口を開きかけたときには琴坂はその地蔵の前にしゃがみこんでいた。

手を合わせて聞こえない声で小さく何事かをつぶやいているその背を見ると、それ以上何かいうのは野暮な気がして千堂は口をつぐむ。

(しかし、それだけ才能があってほかに何がほしいんだか)

喉まで出掛かった羨望を飲み込むと、小さな願い事が終わったらしい彼女に声をかける。

「もういいか?そろそろ行くぞ」

「はい、大丈夫です!」


家の近くの十字路で別れて、彼女と反対側の道を進む。

何でもない日常だ。別に、遅くまで練習している生徒は今までも彼女だけではなかったし、その中に家が近い生徒がいれば送り届けてやったこともある。

そして家に帰り、遅い夕食をとり、風呂に入り、ベッドで目を瞑る。

これまでも、そしてこれからも教師として自分はこんな日常を繰り返す。


そのはずだった。

次の朝、目を開けるまでは。

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