紺青に空は沈む
河名 色
はじまり
真夜中の訪問者
古びた鐘時計がぼうんと鳴った。
午前二時、薄暗い書斎の端では立派なレンガ造りの暖炉が爆ぜる。
外の厳しい寒さとはうってかわって、中は気持ちの良い温かさだ。
(あぁ、今日も寝れそうにないな)
彼は一度ペンを置くと大きく伸びをした。
干潮の日まであと3日。
それまでに終わらせなければならない仕事が山積みである。すっかり冷めきった紅茶はすでに香すらとんでしまっていた。鐘時計は相変わらず規則正しく針音を刻む。軽くにらんでみるも時間が止まるわけもなく諦めて仕事に戻る。屋敷で暮らすほかの人々は、もうとっくに夢の中だろう。明かりが灯っているのは彼の書斎だけだった。
コツコツとペン先が机に当たる音だけが響く。
その時、手元の蝋燭の炎が微かに揺れた。
部屋の外に誰かがいるのだ。
彼の緊張は一瞬でピークに達した。
「……誰だ?」
鋭く言い放つと重たい木の扉がゆっくりと開く。
遠慮がちに覗く顔は彼が想像していたよりもうんと低いところから現れた。
「お父さん…」
愛しい一人息子のミシェルであった。
息子はすでに涙目で、暗く寒い廊下を一人で歩くのが相当怖かったのだろう。
予想外の訪問者のおでましに彼は思わず微笑んだ。
「なんだ、ミシェルか。そこは寒いだろう、中へおいで」
それまで氷のように動かなかった息子は、彼の声で我に返ると、一目散に駆け寄り、彼の足にひしとしがみついた。
彼は椅子から降り、しゃがみこむと優しく息子を抱きしめた。
「よしよし、怖かったのだろう。よくきたね」
息子の寝室からこの書斎までは結構な距離がある。
廊下は冷えていたのだろう、息子の体はひんやりと冷たかった。
しばらく息子は彼に抱きついたままだったが、やっと安心したのかゆっくりと顔をあげた。
「いったいどうしたんだい?ミシェルがここに来るなんて珍しいね」
息子は小さく頷いた。
「あのね、おかあさんがいないの、いつもは隣にいるのに、僕が起きたらいなかったの、きっと、悪い魔物に連れていかれちゃった……!!」
一度おさまったはずの涙が再び溢れ出した。
彼は息子の真っ赤な髪を撫でながら、安心させようと穏やかに話した。
「大丈夫。お母さんは強いから、食べられたりはしないよ。スーザンもいないのかい?」
「スーザンもいない……、目が覚めたら一人だったの」
自分にも確かにこんな時期があったと彼は懐かしく思った。
夜中に目が覚めた時、暗闇に一人きりの心細さときたら!
「でもね、スーザンは昨日からいないの」
そういえばスーザンからは電報が届いていた。感謝祭が近づいているためしばらくの間お休みが欲しい、と。忙しいあまりすっかり読み飛ばしてしまっていたようだ。
しかし、妻がいないのはおかしい。
彼女が夜中に息子を一人ぼっちにしておくはずがない。
何か心当たりはないかと必死に頭を働かせる。
その時、ふと目にとまった壁掛けのカレンダー。
今日の日付に大きな丸がついていた。
そうか、今日は……。
彼はこんなにも大切な日を忘れていた自分に腹がたった。
「ミシェル、お母さんは大丈夫だ。きっと夜のお散歩に行ったんだよ。そのうち戻ってくるさ」
すると息子は大きく目を見開いて叫んだ。
「夜のお散歩!?どうしよう!そんなの、悪い魔物に食べられちゃうよ!!」
息子はすっかり気が動転してあたふたと視線を泳がせた。
彼は思わず声をだして笑った。
「落ち着け、言っただろう?お母さんは強いって。怖かったらお父さんが部屋まで送ってあげるから。さぁ、お部屋に戻ろう」
息子はまだ安心しきっていないらしく、もじもじしながら「おかあさんが帰ってくるまでここにいたい」と呟いた。
その返答に驚きながらも、彼は少し嬉しかった。
「わかった。今夜はここで寝なさい。確か毛布があったはず……」
彼は立ち上がるとクローゼットを開けた。中から大きな毛布がひとつ。
「寒いから暖炉のそばにいなさい。しっかり毛布をかけるんだよ」
「お父さんも一緒に来て」
息子は彼の手を強く握って離さなかった。
上目遣いで眉根を寄せたその表情に彼は弱かった。
息子の翡翠色の瞳が妻のそれと重なるのだ。
「まいったな……」
机の上に山積みの書類と、まっすぐに自分を見つめてくる息子とを交互に見た。
どちらを選ぶかなんて最初から決まっている。
「よ~し、わかった。お父さんも一緒に寝よう」
彼の言葉に息子の瞳は輝いた。
「本当に?ありがとう!!」
息子はすぐに暖炉の前まで行くと、赤いカーペットの上に横になった。
彼もその横に寝そべると、上からそっと毛布をかけた。
「ミシェル、学校はどうだい?」
「たのしいよ。この前のテストで僕が優秀な点数をとったから先生がほめてくれたの。すごくうれしかった」
「そうか、そうか。お父さんも嬉しいよ。ミシェルは自慢の息子だ」
「それ、お母さんにも言われた」
「本当かい?さすが夫婦だな」
息子はかわいらしい笑い声をあげた。
「ねぇ、おとうさん」
「なんだい?」
「なにかお話しして」
暖炉の炎に浮かび上がる柔らかな頬にちいさな手をあてて、息子は彼を見つめた。
「う~ん、お父さんはお母さんのように話がうまくないよ」
「うまくなくて、いい」
「じゃあ……」
彼は窓の外の星空を見つめた。
今日というこの日に、息子が自分に話をせがんできたのには
なにか意味があるのだろうか。
彼は目をつぶると微かにほほ笑んだ。
何を話すかはすでに決まっていた。
大切な一人の女の子の話をしよう。
ルイーゼ、君の物語だ。
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