病のねじれ
三津凛
前編
…病の概念は、ある状態が他の状態より劣っている、という価値判断に基づいている。レスビアンに関していえばこの価値判断は、愛することや働くことができないといった機能不全ではなく、明らかに歓迎されざる選択に基づいたものだった。この価値観に照らせば同性愛は悪であり、異性愛は善であったのだ。
リリアン・フェダマン
「レスビアンの歴史」
私の手首には骨がない。
「手首に骨がないなら、どうして君は剃刀を握れたんだい?」
先生が私の瞳を覗き込む。
「でも、ないものはないんですよ」
私は脚を組んで、椅子に背を思い切り預ける。
「いいかい?ちょっと手を貸してごらん」
先生が私の方に手を伸ばす。
途端に猛烈な怒りが私を捕らえる。不意に過去の無意味なセックスの堆積と男たちの手が蘇ってくる。
決して私を満たすことのなかったそれらが、この白衣の男の手に全て重なって見えてくる。
「触るんじゃない!」
思い切り権威の塊のような医師の机を蹴り上げる。先生は特に驚いた様子もなく、一つ息を吐き出して指を組む。
私は無視して、その後ろの巨大な本棚を眺める。
この男の頭の中を、解剖しているようだと私は思った。
こいつは変態だ。人の精神を弄くり回して、ピンセットで摘み上げては顕微鏡で覗き込んで病気のラベルを貼っている。
さながら、ここにいる人間はみなこの男のための生きた標本なのだ。
「私は病気じゃありませんよ。普通なんです、普通ですよ。ここにいるような、頭のおかしな連中とは違う」
私は努めて冷静に言った。
それは冷静かつ知的に映っただろうと、私は自信を持つ。
「…残念だが、それは違うよ。マーサ」
マーサ。私はこの名前が嫌いだった。
背中を冷たい舌先で舐めあげられるような嫌悪感が走る。
「何も違いません。私は…」
「今日はここまでにしよう」
先生は優しく言って、ブラインドを降ろした。
「パターナリズムって言うんだよ、そういうの」
私は目の前の分からず屋に向かって言い放った。
少し迷惑そうな顔をして、男は応える。
「いい加減にしたまえ」
ここでは何もかもが不愉快だった。
私の手首には骨がない。
骨がどこに行ってしまったのか、記憶から手繰り寄せようとする。
今日は同室のアンナがラリっていて騒がしい。
私は私をこんな監獄に閉じ込めた奴らの顔を忘れないつもりだ。
父に母、それから姉…祖父母もいたっけ……いいや、祖母はもう死んだはずだった。あれは父方の祖母だったのだっけ…いや、母方の祖父だ。
傍でアンナが執拗に騒いでくる。
「アンナ!うるさい!」
私は大声で叫ぶ。
「マーサ!ごめんなさい!ごめんなさい!」
アンナはこれ見よがしに泣いてみせる。彼女は自分のことを有名女優だと思い込んでいる。いつもこそこそと周りを伺って、トイレだってギリギリまで我慢する。そのくせ誰の視線も自分に向いていないと、自殺すると騒ぎ出すのだ。
まったく、この女は頭がおかしい。
私は一体何を考えていたのだろう。
アンナが大声で泣くと、看護師がすっ飛んで来た。
私は心底嫌になって、行きたくもない大広間に向かうはめになった。
大きなテーブルにきちんと座っているのは一人を除いていなかった。
虚ろな影のようにここでは男も女も、歩き回っている。
私はできるだけ肩を触れ合わないようにして、椅子に座った。
斜向かいには俯いて本を読んでいる女がいるきりだった。
私の手首には骨がない。
あの女の手首には骨がある。
どっちが正常で、どっちが異常なのだろう。私は分からなくなる。
「私の手首には骨がないの」
女に向かって私は呟いた。
彼女は顔をこちらに向ける。やや無気力な光が宿っている。
「そうなの、大変ね」
「そう、大変なの。骨を探さないといけないのよ」
彼女は本を伏せて机に置いた。興味深そうに瞳を見開いく。
「骨はどこに行っちゃったの?」
「それが分からないのよ、だから多分こんな所に隔離されてるんだわ」
私は俯いて言った。
「…ちょっと手を貸してくれない?」
私は上目遣いに彼女を眺めた。少し痛んだ髪がちょっと立っている。女は寝起きにそのまま往来を歩いているような気安さを纏っている。
私は不思議と嫌悪を感じない。彼女の笑顔からは絶対的に正しいものも、絶対的に間違っているものもないとでも言いたげな香りがあった。
だから、素直に手を差し出せた。
彼女はそっと私の手首を握って撫でる。
「大丈夫よ、ちゃんと骨はあるわ。ちょっと勘違いしちゃっただけよ」
私はまっすぐ彼女の瞳を覗き込んだ。
「でも、またすぐに無くなってしまうのよ」
「ならその時考えればいいわ、そうじゃない?」
彼女は軽い調子で言い放つ。
私は不思議な思いでそのまっすぐに伸ばされた背筋を眺める。
「あなたはどうしてここにいるの?」
「…なぜ聞くの?」
だって、と私は呟く。
「だって、あなたはここにいる誰よりもまともに見えるわ」
ふふ、と彼女は寂しそうに笑った。
「私の身体には男の魂が宿ってるって言われるの」
「どういうこと」
彼女は少しためらっていた。私は鼻先を近づけて、彼女を急かす。
「教えて、私はあなたが悪い人じゃないって分かってるわ」
「…ありがとう。私はね、女の人が好きなの。恋人もいるの、マチルダっていうとっても素敵な女性よ」
私は訳が分からなかった。
「それで?」
「…だから、それがおかしいって言われるの。駆け落ちしようとしたけれど、結局私もマチルダも精神病院に入れられちゃったの。だから、私はここにいるの。お医者様は私の身体に、男の魂が閉じ込められてるって言うの」
やっぱりあの男は変態だ。
「でも、あなたとマチルダは愛し合ってるんでしょう?それのどこが変なの?あなたはまともだと思うわ」
彼女は不意に泣きそうな顔をした。瞳が揺らめいて、涙が瞳に膜を張っている。
「ありがとう…でも、あんまりそういうことは大きな声で言わない方がいいわ。あなたも同じように見られてしまうから」
私は嗤った。ここではまともな人間が病人で、まるで病人がまともであるかのようだ。
私は掌を閉じたり、開いたりしてみた。
ちゃんと、骨がある。
「ねぇ、あなたの名前は?」
「サラよ」
私は手を差し出した。
「握手?」
うん、と頷く。サラはちゃんと私の手首に骨があるように、確かめる仕草をしてから手を握ってくれた。
サラは優しい女性だった。
そして、彼女にはちゃんと愛する人がいるのだ。
それはとても気持ちの良いことだと思った。
春先に強い風に当たってみること、夏の夕方に涼しい風に当たって汗を乾かすこと、それと同じように気持ちの良いことだと思った。
「大丈夫、ちゃんと骨があるわ」
サラは歳下の妹に含めるように、言ってくれた。
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