2x18年 僕らの世界

瀬川 幾久

Sample,No1 【美人カタログ】

 久々に会った友人Nは些か、生気や精気というようなものが乏しく思えた。

 以前には掛けていなかったはずの弦の太い眼鏡が彼のやつれと疲れを強調している。開口一番、似合っていないと悪態は吐いてみたものの苦笑程度しか返っては来なかった。

 古い繁華街、これまた古めかしい木目のカウンターに肘を着き、バーテンダーが振るシェイカーの音を聴く。彼に指定されて初めて訪れた店だが、値段的に、バーテンダーの彼女は人間ではないのだろう。

 「しかし、久しいな。3年前の同窓会振りか。」

 目の前に差し出されるマティーニを優しく捕まえながらNが呟く。遅れて届いたラスティネイルのグラスに手を伸ばしながら同意する。

 「今日呼んだのは、他でもない。ちょっとな、女のことで困ってて、な。」

 「女?」

 「まぁ、な。もちろん…リアルじゃない。」

 それはそうだろう。改めて注釈するほどでもない。人間関係に物理的な接触が必須というのは前時代的な発想だ。僕だってそう思っている。けれど、だからこそ、だ。

 女で困る?どういうことだ?考えるだけで面倒くさそうだ。

 「よくわからんが、困っているなら別れればいい。」

 もはや人間は独立している。付き合うも付き合わないも完全な自由意思だ。人間同士の不和が発生したなら切り離せばいい。男女なら尚更だ。僕だってそうしているし、誰だってそうするだろう。

 けれどNにとっては、そうではないようだ。浮かべる苦笑にも微かに深刻さが混ざり始める。

 「…はは…うん、言いたいことはわかる。ただ、そうはいかないんだよ。2人とも、俺がいないとダメだって分かってるんだ。だから…どちらを選ぶことも出来なくて、困ってるんだ。」

 人が人に依存する?人に依存しなければ生きていけない?

 「…もしかして、相手は子供か?」

 驚いたように見開かれた目が僕を見る。

 「まさか!そんなわけないだろ!」

 集まる衆目。バーテンダーの咎めるような目。そこまで強く否定しなくてもいいだろうと思いながら、場を収めるためにも素直に謝る。憤慨を見せながらも再度、琥珀を舐めるN。

 「大きい声を出して済まない。けど、2人とも大人の女性だ。確かに、変な話だと思われても仕方ない。でも現実に、2人とも、俺がいないとダメなんだ。浮気した俺が悪いんだ。2人ともに良いことばっかり言って、喜ぶ姿が嬉しくて、のめり込んでしまった俺が悪いんだ。けれど、最近それぞれの口から、それぞれの話が出てくるようになってきた。そしてとうとう…。」

 「…とうとう?」

 「どちらかを、選んでくれと言ってきたんだ。」

 ここまでくると古典映画の粗筋かとさえ思えてしまう。けれどNの表情は真剣で、役者のそれ以上にオーバーで、今にも泣きそうな激情に満ちていた。

 「アンリアルでの関係だろ?なんでバレるんだ?」

 「…彼女たち2人は隣同士だから、バレるのは当然だ。バレない方がおかしい。」

 「…隣同士?2人はリアルで顔見知り?そんなことってあるのか?それ、本当にアンリアルか?どっかで知り合ったんじゃなくて?」

 「…。」

 訳が分からない。ただ、Nの悩みは本物のようだ。

 「本当は、初めに出会ったA子だけで満足すべきだったんだ。俺の求める全てを持った理想的な女性だったよ。俺のことをよく理解してくれていて、彼女との関係はとても心地が良かった。」

 ぐいと、グラスを飲み干すN。空のグラスをバーテンダーに突き出しお代わりと呟く。

 「けど、つい、浮気心が湧いたんだ。いつも彼女の隣にいるB美を、少し摘まもうとお思ってしまって、それが、いけなかった。」

 「!…おい、それって…。」

 「…ああ、自業自得だ。本当に、バレない方がおかしいって話だよ。想像つかない方がおかしいだろ?そうなんだ。俺はおかしいんだ…。」

 …さすがにこれはダメだ。僕がどうこう言える問題じゃない。

 それっきりNの言葉が続くことはなく、2杯目のマティーニを舐め切った後、彼はそれじゃと言って席を立った。何の役にも立たなかった僕を責めることもなく、だ。

 僕は自身の感想を、言葉にしないながらも隠すようなつもりはなかった。彼もきっと僕の呆れには気付いていたことだろう。

 Nの背中に声を掛けることもなく、ラスティネイルをのんびりと空にした後で帰路に付く。

 「お帰りなさい。Nさんはお元気でした?」

 玄関を開けると共に向けられる優しい声。長い黒髪の、僕好みの顔をした女性が笑顔で迎えてくれる。愛しさにただいまと応えながらも浮かぶのは苦笑。

 精神的な疲れを感じていた。着替えもそこそこに、深くソファに座り込んでため息を吐く。

 横からの微かな香ばしさに目を向けると、コーヒーを差し出す彼女の笑顔。僕の受け取りに合わせて隣に寄り添ってくる。

 「お疲れみたいですね。あんまりいい話ではなかったんですか?」

 返事の前に一口。適温の苦みが心を揉む。カップをテーブルに置き、口を開こうとするも、先に浮かぶのはやっぱり苦笑い。

 「Nはなんでも、女性問題で困っているらしい。詳しくは聞いてはいないけれど相手の友達にも手を出して、その二人から依存されているみたいだね。」

 「まぁ、珍しい。もしかして…Nさんは生粋のホモフィリアとか?」

 「うーん、どうだろ。それなら関係もリアルだろうけど、実際の付き合いはアンリアル上みたいだからそうとも言えない気がするな。」

 ホモフィリア。どうしても人間相手じゃないと駄目。そういう層がアイドロイドとの関係を否定していることは知っている。けれどそれはあくまで性交上のこだわりのようなものらしく、そんなドロドロとした人間関係を楽しむような嗜好は聞いたことがない。あまつさえNはそれで悩んでいるのだから、そうだとすれば本末転倒過ぎる。

 「もちろんNの浮気心というものも理解できない。それ以上に相手に依存して、しかもNを人間同士で取り合うなんて、そんなことが本当に、しかも身近で起こるだなんて思ってもみなかった。」

 「そうですね…昔はそれこそ他人同士の大きな問題だったとは知っていますが、今の時代ではとても不毛な印象がしてしまいますね。もちろん、心を通わせることが悪いとは思いませんけど。」

 ふいに、そう語る彼女の顔を見たくなる。彼女の視線はまっすぐと僕に向いていた。少し見詰め合った後、悪戯っぽくも、扇情的な笑顔を浮かべる彼女。

 「でも、もしかしたら、私だって貴方の心が他に向いちゃったりしたら、嫉妬しちゃうかもしれませんね?」

 とても僕好みの、愛らしい反応と台詞。もちろん、そうあるようにと昔から傍にいる彼女にとっては、それこそが自然な動きであり、そこに違和感や不自然さなどは微塵もない。

 だから僕は気の向くままに彼女を押し倒す。微かな抵抗と耳を擽る甘い声が上がる。

 「もしかしたら…Nもさ、どこかでそんな願望を持っていたのかな。」

 ただの思い付きだ。深い意味はない。けれどそんな戯言さえも、優しく短い笑い声で受け止めてくれる。

 「うふふ、けど少なくとも、私は貴方が苦しむような、想い詰めてしまうようなことはしません。安心、してくださいね?」

 そんな囁きの最後で、耳たぶにキスを受ける。情欲のまま、そのまま身体を重ねつつ、どこか冷めたところでNのことを考えていた。

 そう、アンリアルならアンリアルでリミッターがあるはずだ。古来人間を苦しめるのは人間でしかなかったのだから、これだけ成熟した世の中で、侭にならない相手に依存する気持ちが分からなかった。

 それこそNだけが捨てられて、A子もB美もNに似たアイドロイドに自らを委ねたとしても特別なことではない。ごく自然な選択だ。現に僕のアイドロイドにだって実際のモデルがいる。そのモデルをベースとして、それ以上の、僕の好みになってくれている。

 そこに主観的な操作はない。僕の願いを汲み取って、ごく自然に彼女が変成した結果だ。人が相手では決して得られないはずの無償の献身が、当たり前に、誰しもにあるはずだった。

 だからこそ、僕には分からない。

 それが楽しいというのであればNも笑っていればいい。けれど、彼は本当に苦しんでいるように見えた。悩み相談に見せかけた自慢のようにも思えなかった。

 なんとなく、不安が募る。明日、再度連絡を取ってみよう。


 後日、僕は死んだNの第一発見者となっていた。

 度々の連絡にも応答しないNの自宅で目の当たりにしたのは、無残に破壊されたNのアイドロイドと思わしき亡骸と、首を吊って、黒く膨れたNの顔。

 既に通報を済ませているので、ここにいる必要はない。けれど出口に足は向かず、散乱した部屋の中を眺めてしまう。

 僕を心配して付き添ってくれていた彼女が一冊の本を指差した。嵐が過ぎ去った後のような室内で、唯一何事もなかったかのようなままベッドサイドに置かれていた。その傍らにはアンリアルに意識を投入する為のゴーグル型のギア。かなり旧型だが、これも壊れているようには見えなかった。

 「これは…美人カタログとそのデバイスですね。」

 美人カタログ。確か、アイドロイドが一人一台となる以前、人が自身の理想の性交相手をバーチャルリアリティに頼っていた時代の代物だ。それにより少子化に拍車がかかり、抜本的な解決としてアイドロイドの量産、安定供給がなされた経緯を知識として知っている。

 「これ、Nが使ってたのかな?」

 触ろうとする僕を優しく静止し、指紋のない彼女が美人カタログを手に取る。パラパラとめくられるそこには多種多様な年齢、人種の女性が、扇情的な下着姿でこちらを見ていた。

 「最後の使用履歴が3日前になっていますね。現在進行形でNさんがご利用になられていたんだと思います。ただ…これ、大人用ではないですね。」

 「というと?」

 「はい。美人カタログ自体、アンティークと言えるようなアダルトグッズですが、Nさんがご利用されていたこれは大人用のプリセットタイプではなく、美人カタログのシリーズでも最初期に作成された低年齢層の性教育用のものをベースにしているようです。子どもの性的成熟に合わせて登録された異性が行為を変えるタイプのものですね。」

 「そんなものが?」

 「ええ、ギアを介した脳刺激を主とするスタンドアロンVRですが、個々の性的成熟度、乱暴な言い方をすれば欲求の度合いによって内容を大きく変化させる特徴を持っています。初めは異性に触れる程度ですが、人によってはコミュニケーションも出来ますし、口技さえも行えるようになるとか。その為、特殊な性癖を増長してしまう傾向があり、模範院AIから反社会的と問題提起され、短期間で製造中止になったと記録しています。」

 「模範院が動いたとなると、かなりの危険性があったってこと?」

 「そうですね。私たちのように抑止を行うようなこともなく、その妄想を空想的かつ現実的に叶えてしまう機構です。日常生活への不適応は避けられません。模範院AIの判断も、そういう理由だったみたいですね。」

 そんな彼女の説明に疑問が過る。あまり良い気はしなかったけれど。

 「その中に、A子って名前はある?」

 ぱらぱらと進むページがやがて止まる。

 「このページ、ですかね。」

 見開きの左。僕らと同じ黄色人種の、20歳と設定されたショートカットの女性の姿。A子という名前の下で艶めかしく笑っていた。そして、その隣、右側のページには、やはりと言うべきか、25歳でブロンドの長い髪をしたB美がいた。

 「これがA子とB美か。Nはこの2人が自分を取り合っているって言ってたんだと思う。」

 そんな素っ頓狂な話にも彼女は笑わない。僕が真剣だからだろう。

 今ばかりは、笑い飛ばしてくれた方が救われる気もする。

 「恐らく、美人カタログはNさんの願望や妄想に、機能のまま応えてしまったのかもしれません。」

 「そういう事例はあった?」

 「いえ、ないですね。」

 きっぱりと神妙な面持ちで応える彼女。一息置くようにして、ですが、と続ける。

 「子どもの無知を念頭にしたレーティングの低さ、Nさん本人のアイドロイドを通した異性の体験と性交の経験。そこにもし、A子さんを選びながらもその隣で流し目を向けるB美さんの存在が快楽のエッセンスとして認識されていたのであれば、あり得ないとまでは言えないのかもしれません。」

 再度、美人カタログに目を落とす。A子やB美の表情は当然変わらない。けれど、カタログにはそのページだけ癖がついており、きっと何度も、見開いて眺めていたことが想像出来た。

 「Nさんの状況をアイドロイドが見逃すはずはありません。ですが、その制止さえNさんにとっては邪魔だったのでしょうね。同じ役割をもつ存在として、少しだけ、悲しく思います。」

 美人カタログが閉じられる。彼女の視線は仲間の亡骸に注がれていた。

 若干の気不味さに目を逸らし、カタログと一緒にあったギアを見る。

 言われて見れば確かに、大人が装着するには小振りに思えた。

 「後は、警察に任せよう。僕らは、帰ろうか。」

 「ええ、そうですね。」

 Nの亡骸に一瞥を向け、僕らは部屋を後にする。

 玄関から、一度だけ振り返った。

 閉じた今の扉の先、カーテンも閉め切った暗闇の中には事切れたN、殺されたアイドロイド、そしてきっと、A子とB美も、そこにいるのだろう。

 カタログで見せていた笑顔を思い出す。その目が、僕さえも誘っているように思えていた。

 「もしかして、美人カタログ、気になります?」

 からかうような弾むイントネーション。短く、けれど笑って返す。

 「いや、いいかな。少なくとも僕には、浮気なんてものを楽しむ機会はなさそうだしね。」

 2人して笑い合いながら、惨状を後にした。

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