第37話 身から出た錆
夏のうだるような陽射しのなか、俺はコンビニのベンチに背を深くあずけていた。
「はぁー。今日も湿気が多くて蒸し暑いなぁ。もしも俺がスライムだったら熱の影響で平べったくなってるところだわ」
ハンカチで汗を拭きながら、巨大なゴジラばりの入道雲がのぼる水色の空を眺めていたのだ。
ぶっちゃけ午後からの仕事はうっちゃらかしたい。
叶うならば、これからプールサイドのベッドに寝そべってトロピカルドリンクか、キンキンに冷えた生ビールをあおりたい気分だ。
俺は腕時計の文字盤を確かめて、手うちわでせわしく顔面をあおいだ。顧客との打ち合わせ時刻にはまだ余裕がある。
慣れない他人と接するのは苦手なほうだから、外回りの仕事はあまりやりたくない。
「うがー。訪問とかめんどくせー」
きっと商談中にまたあれこれと嫌み口を言われるに決まっている。
だが今は休憩がてら、買ったばかりの棒付きアイスの袋をあけて、体内の熱と心労を抜くようにしてため息をついた。
面接では製造部を希望したのに、結果、営業にまわされたことに不服を感じながら働く毎日。
いっそ会社を辞めて、この現実から離れてしまいたい。なんなら今すぐあの道路を渡って、職場に駆け戻り、冷房の効いた部屋で人をあごで使いまくっている上司のデスクにバシリと、退職願を叩きつけてみようか──。
などと、首にうっとうしかったネクタイを緩めて、冷気をふんわりと放つアイスを口に近づけていると……。
突然、セミのシュプレヒコールを割るようにして、高級セダンが猛スピードで突っ込んできた。
「!!」
衝突でガードパイプが折れ曲がり、クルマは低くジャンプした。
俺は声をあげる間もなく、間一髪のところで地面に身を投げ出した。受身をとる余裕などなかったことで、身体のあちこちを打ち付けてしまう。
砕けたガラスが飛び散る甲高い音が鼓膜をつんざく。無慈悲にふり落ちてくる尖ったガラス片に身をかばって、目と歯を縛ったままおののく自分がいた。
ややあってから、顔を上げると、窓枠が熱で溶けたようにくねくねに曲がった段差に、車体がひっかかっているのが見えた。回転の止まったタイヤがゴム臭い匂いを放っている。
俺はすぐに身体を起こすことができず、とにもかくにも自分の命が無事であったことを実感する。
カチャリと音が立って、運転席のドアがひらいた。
顔面を真っ青にしたポロシャツの中年男が、おぼつかない足どりで降りてきた。支えのようにしてドアのへりを持つ手が細かく震えており、もしも腰を押せば簡単に倒れてしまいそうなほどの、弱々しくおびえきった姿であった。
その視線の先から、マスクをつけた店員が面食らった感じにやってきた。店員は、破壊された窓や散乱した商品に呆れた声をあげ、動揺したていで右往左往しはじめる。
そして運転手を見、何てことをしてくれたんだとばかりに柳眉をさかだて、マスク越しの顔がみるみる赤らんできた。
「店をこんなにめちゃくちゃにして……。あなた、うちに何か恨みでもあるんですか!?」
遅れてもう一人、外から店員が手刀を振りながら走ってきて調子を合わせる。
「そうだそうだ。いきなりスタントマンのごとく駐車場に飛び込んできて窓をブチ破って、うちは映画のアクションシーンの許可を出した覚えはないぞ! 掃除してた俺に突っ込んできやがって! 危険なことをやるなら、特撮ヒーロー番組にならって、採石場をロケ地に選んで他人に迷惑をかけないよう派手にやれ」
憤慨する店員二人に対して運転手は、狼狽しつつ言い訳めいた口調で、
「いや待ってくれ。急に、急に人が飛び出してきたんだ!」
つめよる店員の腕をつかみかからんばかりの勢いで反論した。
「避けようとハンドルを左に切ったら、アクセルを踏みっぱなしになってしまって、まるでレールに乗ったかのように加速していったんだ! 嘘じゃない! 信じてくれ」
などと、雁首そろえた店員を相手に必死になって原因を伝えている。事故後の強いショックのためか目が落ち窪んでいて、ヨダレをたらし、身体が変に痩せているように見えた。
「あのねぇ、そんなことが起こるわけないでしょう。人を避けたあとにアクセルを抜いて、ハンドルを戻せばいいだけのことです」
「おう、そのとおりだ。秋名山を攻めるハチロクじゃないんだぞ。クルマが溝落としみたいな高速旋回をするはずがねえ。だいたい左曲がりなのはおめーのポコチンのことだろうが!」
俺は、そんなかしましい様子を黙って見上げていた。
すると背後に人の気配がした。
女の子がフランクな声音で、「だいじょうぶ?」と問いかけてくる。ついで、肩に手がおかれた感触がした。
誰だろうかと振り仰ぐと、そこには二十歳前後の可愛い女の子が前かがみの姿勢で眉根をさげて、俺の目をじっと見つめてきた。
下着みたいなミニスカワンピの肩紐が、片方落ちそうになっているのが気になった。鎖骨まわりの白くてみずみずしい肌に目が吸い寄せられた。柔らかそうな胸の谷間に、思わず固唾を呑んでしまう。
「おほ……」
「まったく今日はアンラッキーな日だね。クルマの事故に巻き込まれて、こんな目に遭っちゃって」
女の子の艶っぽいピンクのくちびるから吐息が漏れた。うすく茶色に染めたショートボブと、長いまつ毛、それに黒目がちの瞳が魅力的だ。
俺は声から推測した以上の美しい女だったことに照れくさくなってしまい、だけど返事の代わりにてのひらを小さく挙げてみせる。つい、照れ笑いを浮かべてしまう。
たぶん、俺よりも3つか4つ年下だろう。大学生かと思うがそうでもないように見える。年下で口調もやや子どもっぽい感じなのに、俺よりも大人の雰囲気が出ていた。
「ねえ、聞いてる??」
「あっ、すみません。危ないところでしたがなんとか助かりました」
俺は、目の前にしゃがんだ薄着の女の子の魅力的な肉体を、なるべく直視しないようにして話をつづけた。
「いやぁまさかクルマが、自律誘導のミサイルみたいに突っ込んでくるとは思わなかったです」
女の子は、「そう」と安心したように相好をくずして、髪を耳のうしろになでつけた。イヤリングが揺れて、ただよってくる香水の甘い匂いが心地いい。
「大変だったね。ホント、いきなりのコトでびっくりしたでしょう?」
「ええまあ。でもどこもケガしなくて済んだことは不幸中のさいわいです。クルマが着弾する寸前のところで座席からベイルアウトしましたから」
「うん。見てた。すごい動きで慌ててたね」
「なんと言うか、チャフ・フレアを射出する間がなくて、とっさの判断で脱出するほうを選択したんです」
女の子は感心したように目を丸くしたあと、数度うなずく。
「そっか、普通はこんなコトが起こったら身が硬直して動けなくなっちゃうのに、なかなかいい判断してるね」
俺は危機を回避できた安堵感と、褒められたことにより、ほほを熱くしながら頭をボリボリかいて目をそらす。
「いやぁ。何と言っていいやら」
「わたしは離れたトコロにいたから、とてもじゃないけれど助けてあげることはできなかった……」
「それはまあ仕方のないことですし、そういう気持ちだけでもありがたい限りです」
女の子が前かがみの姿勢にもどって、手をそっと差し伸べてくる。
「ねえ立てる? 事故ったクルマのそばにいるのもなんだから、移動したほうがいいかも」
「あっ、そうですね」
俺は膝頭に手をやって、うんしょと腰に力を入れた。
「肩を貸そうか?」
「だいじょうぶです。自分で立てますから」
細くてしなやかな肩に触れてみたかったが、下心があると思われては困るので、俺は自力でそろそろと立ち上がって、それから店内に目をやった。
事故現場の散らかり具合は相当なものだった。
雑誌や書籍を陳列していたマガジンラックがボンネットに乗り上げ、ページのひらいた週刊誌などがフロントガラスに折り重なっていた。他の商品棚もドミノ倒しになっており、色とりどりの売り物が床にバラ撒かれたようになって、そのいくつかは破損している。
アイスクリームを冷凍する重そうなショーケースもゴトリと倒れていて、本来は客の涼を楽しませるべき商品たちがその役目を果たせることなく、床に散らばり、そして廃棄されるのを悔やむような心情で待っているようであった。
被害総額はいくらなのか不明だが、店舗の入り口あたりを破壊して中を半分殺したような状態だと、本日の営業に差し支えるのは間違いない。
かたわらに立つ女の子があきれた声を出す。
「あちゃー。これはあと片づけがタイヘンだね。グッチャグチャになってて悲惨だなぁ」
午後一時を過ぎていたこともあって、運良く客はさほど多くなかったようだ。それにクルマが飛び込んだ付近には偶然にも誰一人いなかったらしい。
店員二人と運転手が今もやりとりをしていて、俺は通報や事故処理についての会話を耳にしつつ、ふたたび店内の様子を確かめた。
「ん?」
鼻についた油臭さに目を落とせば、フロントをベッコリへこませたクルマの底から、オートマ用のオイルが漏れて床に広がっている。
背後の騒々しさに振り返れば、物見高い野次馬が大勢集まっていて、中にはスマホを向けて撮影している者もいた。
まだ警察が到着していないことで、のちに張られるであろうタイガーロープがないため、境界線が敷かれていない現状から積極的な野次馬の幾名かが至近距離までやってきて、興味と怖いもの見たさをあわらにした顔つきを浮かべている。
肩からスクールバッグを下げた帰宅途中らしき生徒も何人かいた。
そして、その中の女子生徒が唐突に、悲鳴じみた金切り声で叫んで衆目を集めた。
「見て! あれって人の……!!」
女子生徒は目をみはって口を押さえながらクルマの底に指を向け、それから仲間に泣きつくようにして胸にとりすがる。受けとめた女子と、その群れが逃げるようにして離れていく。
俺はいったい何を発見したのかと胸がざわつき、一点を凝視した。
同じく目を向けた野次馬から、次々と上がる驚愕の声!
クルマの底から、血濡れた腕が伸びていた。
赤く染まった半そでのシャツ。てのひらは半開きの状態で、指一本さえピクリと動かない。
「ヒィッ!」
こぼれおちたアイスに見覚えがあった。床に広がる液体はオートマオイルかと思っていたのに、そのまぎらわしい色に血液が混ざっているのがわかった。
野次馬たちが、俺の身体を通り抜けて、どんどん集まってくる。まるで俺が、透明人間であるかのように……。
ためしに人の身体に触れてみようとしたら、思いっきりすり抜けて転びそうになった。
「なっ、なんてことだ! すると、あそこに挟まれているのはもしかして、俺ってことなんじゃぁ……」
背後から、忍び笑いの漏れる音が聞こえてきた。
恐るおそるふり向けば、女の子が腹を押さえてくつくつと笑っている……。
さっきとは打って変わったいびつな笑顔。まるで妬み嫉みが晴れた具合に、瞳が異常なほどにらんらんと輝いていた。
俺は不気味なものを覚えながら口を切った。
「な、なんでそんな奇妙な顔で笑っているんだ? 何がおかしいのか教えてくれよ。だって、あれって俺だろう?」
「そうね。あんたは慌てて逃げようとしたけれど、一瞬、あがいただけで間に合わなかった。代わりに身体から抜けた魂が地面にすっ転んだのよ」
俺は状況がうまく理解できないまま、自身の死体に目をやった。女の子はなおも笑顔をくずさず、睨め上げるようなかたちで口をひん曲げて、
「たぶん、あの運転手のおじさんは薬物の常習者だね。わたしもそうだったから、様子を見てるとそんな感じがする……」
「なにを言ってるんだ?」
「あと、さっきから店員のそばでまくしたててるあいつ。あれは昼間はコンビニの店員だけど、夜の街に出れば薬の売人として別の顔を持ってる」
女の子の目が細められ、キッとした厳しいものに変わった。
「わたしはあの売人に恨みを持っていて、昼も夜もずっと付きまとっていたの。いつも耳元で復讐の言葉をささやいていたから、こうして偶然にも願いが叶った」
憎々しげに言ってから、指をクルマの後ろ側に向けた。俺はつられて目線を下げた。
地面には生温かそうな血液が、どんどん広がっている。壊れた窓枠の手前にも血だまりができており、俺の上半身と下半身が窓枠を境にして、内と外に分断されているのかもしれない……。
いや、違う!
クルマが走ってきた方向をたどれば、駐車場の中ほどから、赤いもみじおろしのような跡が続いている。
まさかと思い、うずくまるようにしてクルマの底をのぞいてみた。女の子が見下ろすようにして微笑んだのが視界の端に映った。
「!!」
車体後部の下に、血塗れた人間が引っかかっていた。
「死体が、死体がもう一つある!」
コンビニのユニフォームを着た男が、今にも叫びそうな顔を張りつかせて動かなくなっている。
背中や後頭部が削れて赤く濡れていて、摩りおろされた肉片が地面に跡を引いていた。手に持ったホウキが、硬く握り締められているのが見えた。
俺は恐怖にさいなまれて、ひざ立ちのまま歯がガチガチと鳴っているのがわかった。女の子が、ほらねとばかりに、あけすけな口調で話しかけてくる。
「あいつ、今もああやって運転手を問い詰めてるけど、相手に姿は映ってないし、声もまったく聞こえないのに必死になってるね」
「……」
「あんたはあんたで上半身がグチャグチャに潰れちゃってるし。これはまったく、あと片づけをする人たちが悲惨で目もあてられない」
俺は、ただいなるショックのあまり、視界がねじれたようにして渦巻き、思考がままならない状態になっていく。
同時に、遅れて気づいたことに戦慄した。
なぜなら野次馬たちは俺の身体を通り抜けたのに、この女の子は俺の肩に触れることができた。つまり、この子もすでに人間の身体をもっていない存在であることがわかったからだ。
今にも失神しそうになったが、話の筋道が見えてきたことにより、俺は薄らいでいた意識をとりもどして立ち上がった。
そして事故のトリガーとなった首謀者が誰なのかわかったことで、その者に対し、強く糾問せずにはいられない。
「キミが、キミがすべて仕組んでやったんだろう? 恨みを晴らすために道路に飛び出して、運転手に憑依して車を突っ込ませた!」
だが女の子は、自分は無実だというふうにして、両手を軽い調子にひらひらと振って見せる。
「わたしは何もやってないよ? ただ近くで見てただけ」
「キミは、嘘をついているのか……?」
「いいえ。これも本当のコトよ。たぶん運転手は、飛び出した人を避けたあと、薬でラリってたか、禁断症状で混乱してておかしな具合に突っ込んだんじゃない?」
あっけらかんと言いのけて、空を見ながら腰に手をやった。
「じゃあ、道路に飛び出したのは、いったい誰なんだ……?」
「あれはあんたの思念体」
「なんだって……?」
思いがけない答えに心がざわつき、しかしそんな心情とは裏腹に、女の子は淡々とした口調で説明をつづける。
「どうしてかは知らないけれど、鬱憤が溜まってるみたいな顔をしながら、道路を走って横断してたね。……ねえ、さっきベンチに座ってて、何を考えていたの?」
俺は実際にそんな現象が起こりうるのかと、半信半疑のまま棒立ちになる。
けれども今こうして自身が霊魂という立場になっていることで、それらすべてを受け容れざるを得ないと思った。
女の子は俺の呆然とした姿を見つつ、歯を見せてひとしきり笑ったあと、「ん~」と気持ちよさそうに腕をあげて伸びをする。
「こっちの世界もそうわるくないものよ? 毎日ネクタイを締めてあくせく働かなくてもいいし、退屈なコトが多いけれど、慣れればどうにかなるから……」
救急車両のサイレンが近づくなか、野次馬を見れば、何名かが身体の透けた状態で現場を眺めているのがわかった。
俺は絶句したまま、最後に食べ損ねたアイスを買いなおして、ゆったり舐めたい気持ちがわいてきた。しかし、もうそんな人間らしい行いは永遠に不可能なことだと悟る。
女の子は、憑き物がとれたみたいな朗らかな声音で話しかけてきた。
「まあなんにせよ、おかげで恨みが晴れたわ。ちょっとお礼をしてあげるから、ついて来なよ」
言ったあと顔つきが淫靡なものに変わり、くちびるをひと舐めして、店の裏に目をやった。
──太陽が地表の出来事など素知らぬていで、さんさんと燃え盛り、セミの唱和とともに夏の狂熱的な歌をやめる気配はない。
むしろ午後に入ったことにより、すでに俺と乖離してしまった人間界の気温は、まだまだ高まっていくようだ。
俺は店の壁にもたれて、澄んだ水色の空を、気だるい面持ちで見上げていた。
そして、下半身から昇ってくる甘美な波を感じながら、まぶたをそっと閉じる。
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