第34話 能動的な同棲相手
自宅に帰って明かりをつけるなり、カバンに手を突っ込んだ。
便箋が大きく膨らんだ分厚い手紙を、俺は何の迷いもなくゴミ箱に捨てた。
その重さのせいで、先に入っていたゴミが底におしつけられた。
ネクタイをゆるめたあと、パソコンデスクの椅子を引いて身体をあずけた。
天井をあおいで嘆息し、肩の凝りをほぐそうと首を曲げる。
……今日はさんざんな日だった。手紙の内容が頭にこびりついて離れない。
なぜフランス語で文章を綴っているのか意味がわからなかった。
語学に達者な同僚に訳してもらうと、そこには俺に向けた激しい愛情が羅列していて、最後には、『何があっても必ず会いに行きます』と予告されていた。
俺は不可解なものに頭を悩まされ、そのせいで今日の仕事はミスの連発だった。
それから一ヵ月後──。
帰宅してカバンを持ったまま電灯スイッチを入れると、明るくなった室内のデスクから青い瞳がこちらをとらえた。
「えっ?」
パソコンの隣に背をあずけて、両足を投げだした洋服姿の小さな少女が、俺から視線を外さない。
「うわ、人形じゃないか」
まるで生きた小人のようなそれに一瞬気圧され、しかし自室になぜこういった物があるのか謎に包まれた。
棚には自分で買ったフィギュアが数体、横並びに飾ってあるが、こんな値段の高そうな人形を購めた覚えはまったくない。
留守中に、誰かが置いていったとしか思えなかった。
実家からたまに母親が来るので、おみやげ代わりに飾ってくれたのだろうか。それにしては食卓に持参の料理がないためうまく腑に落ちない。
人形はフリルのついた薄桃色のドレスを着ていて、丸い帽子もふりふりがついてる綺麗な生地のやつで、エナメルの黒い靴はピカピカで、いつの時代の人形か不明だが年季が入っているように見える。
俺は目線を向けたまま、カバンをゆっくりと置いた。
デスクの前まで進んで、腰まで伸びたブロンドヘアーの少女を手にとってみようと思った。けれども安易に触れてはいけない気高い雰囲気が、凛とした表情にあらわれている。
だから手を引いて、少しのあいだ静止した。
そして、フランスから渡って来たかと見紛う美しい客の存在を気にしつつ、部屋を通ってキッチンへと向かう。
コップに注いだミネラルウォーターを飲んでいると、うしろでカタリと音がした。
「ん?」
ふり返ってみたが、とくにこれといった目立つものはない。家鳴りかと思って、コップに視線を戻した時、違和感をおぼえた。
朝、散らかっていたはずの部屋が、なぜか片付いている。
ベッドに投げていたパジャマはちゃんと畳まれているし、出かけの際に足に当たったローテーブルの位置はもとに戻っている。
それにシンクに漬けておいたお皿やコーヒーカップは、洗ったようにして水切りカゴに置かれていた。
すぐにスマホをとって母親に訊いてみたが、今日はマンションに行ってないという。
俺は謎が深まったことにより、スマホを持ったまま頭に疑問符を浮かべていた。
「……いったい、どういうことだ。ウソか冗談を言ってる様子じゃなかったけど」
誰にともなくつぶやき、室内に静寂がただようなか、思考を巡らせていたら、ふとパソコンの電源ボタンが点滅していることに気づく。
コップをそっと置いて、近づいてみた。
昨夜電源を落としたそれが、スリープ状態になっている。
画面を立ち上げてみると、動画サイトが表示された。
「……」
タイトルは知らないが、教育番組で放送されているような外国の子ども向けの動画だ。一時停止の状態になっていて、赤いバーが途中で止まっている。
いろんなどうぶつの着ぐるみに、幼児たちが笑顔でたわむれているところだ。
俺はアニメは観るがこういった動画はめったに観ないので、いよいよ疑惑がつのってきた。
「まさかなぁ……」
陶器製の少女をどれだけ見つめても、沈黙が返ってくるだけで何ら答えは引き出せない。
俺は考えあぐねた末、今日はもう疲れたので、明日帰宅してから判断しようと思った。
翌朝。いつも通りの時間に起きた。
「……あれ?」
パジャマの前が全開になっており、胸や腹が丸出しになっている。
寝苦しさから自分でそうしたと思い、ベッドから出てスーツに着替えた。
デスクを見れば、ドールの位置が昨夜と変わっていた。
「……おかしいな。動かした覚えはないんだけど」
たしかパソコンの右側にあったはずなのに、今は左側に座っているのだ。
けれど支度に意識が向いていたので、不思議な気分を残したまま、トーストとコーヒーをとって部屋を出た。
電車に揺られながら、広告に目を置きつつ、今日は定時に終わって早く帰りたいと思っていた。
しかしそんな願いは適うことなく、あれこれと業務が重なって残業に食い込み、退社時間が遅くなってしまった。
しかも日中に何度も俺あてに、不審な電話がかかってきたらしい。
外回りから戻った時、応対した事務員が曇った顔で、「園児くらいの女の子の声でしたけど、知り合いですか?」と、伝えにきた。
詳しく聞くと、つたない口調で、『何時に帰ってくるの?』とか、『夕ごはんは何が食べたい?』、などと相手を確かめずに、繰り返し問い合わせてきたという。
俺は一応心当たりはあったが、一人暮らしなので誰かのいたずらだと返答し、今後そういったことがないようにすると話した。
事務員は会話のあいだ、なんだか煮え切らない様子を見せていた。俺がどうしたのかと訊いても、言葉を濁すだけではっきりとしない態度であった。
そして業務の忙しさから昼食を簡単に済ませたこともあって、疲労と空腹感が身体に居座っていた。
帰宅の途中、飲食店に寄ろうと思ったが、やはり部屋が気になるので素通りした。
マンションのエレベーターを降りて、カバンから鍵を出し、シリンダーに差し込んで回す。
ノブを捻ってドアをひらいた瞬間、俺は玄関に入ることに抵抗を感じた。
「あれ? 電気がついてる……」
朝、出かける時にスイッチをさわった覚えはない。なのにどうしてこうなっているのか。
それに、いつもとは匂いが違う。いや、違うというか、これってもしかして……。
まさかと思い、靴を脱いで廊下を足早に進んだ。
「ええ!?」
食卓に広がったものを見て立ち止まり、驚嘆の声をあげてしまう。
今までにない光景に目が丸くなってしまい、棒立ちのままカバンを落としそうになった。
「なんだ。この豪勢な料理は……」
一流のコックが手がけたかと思うほどに、それは素晴らしいものだった。
もしや母親が尋ねてきて、俺を驚かせようと仕組んだのだろうか。
しかしうちの母はもっぱら和食派であり、こういう西洋の高級レストランで見るような料理を作るはずがない。
セロリの葉が浮いたコーンスープなんて出してくれたことはないし、切りそろえた肉や野菜にソースを模様みたいに走らせた料理なんてのも、ついぞ見たことはない。
だから俺は、ポケットのスマホを抜き取ろうとした手を止めて、パソコンデスクのほうに目をやった。
今朝と同じポジションで、足を投げ出してリラックスしている少女が、俺を高貴な瞳で見つめていた。
顔がちょうどこちらに向いており、帰宅した俺を待っていたかのような具合になっていた。
「おや?」
なんだか違和を感じて、ドールのそばまで寄ってみた。
一度凝視してみて、顔が何で汚れているのかと思えば、人形の口端にソースらしきものがついている。
指ですくってみようと思ったが、やはり気安く触れてはいけない雰囲気に圧されて、指をひっこめた。
「なんなんだこれは……。こういうことって実際にあり得るのか」
まるで漫画やアニメのような状況に、俺は夢か現実かわからないけれど、どこか心地のよい気分につつまれた。しかし安心してはいけない危機感もあった。
なぜなら昨日、自分の手でこの少女を連れてきた覚えはない。万が一、人形が自身の足でやってきたとしても、どんな理由で訪れたのか疑問だ。
よって、素直に食卓の椅子を引き、あたたかい料理の前に座ることはできず、立てられているナプキンに触れる気もおこらない。
並べて準備されていた光沢の帯びるスプーンやフォークを使って、料理を口にすることだってもちろんできない。
いや、せめて感謝の意を伝えるために、お礼だけは述べておいたほうがいいのだろうか。
「うーむ」
俺はこれからどうしようかと、肘を手にとってあごを撫でながら考えた。
やっぱり料理はありがたくいただこうかな……。捨てることなんてできないし、空腹にこんな美味しそうな匂いはガマンができない。
あの白い湯気のたつ濃厚そうなスープを一口飲めば、今日の疲れなんてどこかへ飛んでいきそうだ。
新鮮であろう肉や野菜、その他の名前も知らない高級な料理を食べれば、どれだけ身体が喜悦をあげるだろう。
俺は部屋を満たしている香りを鼻から吸い込んだ。料理に不審感はあるものの、食欲に負けそうになっている。
頭の中で、YesかNoかで天使と悪魔がせめぎあっているが、やはりここはとりあえず礼を伝えるべきだと思い、身体の向きを転じて人形と正対するかたちになった。
青くて深みのある瞳が俺を見つめている。その瞳の奥から慈愛めいたものを感じとった。
「信じられないけれど、やっぱりそうなのか……」
黙って目線を合わせていると、照れが出てしまい、どんな顔をしていいのか迷った。
口を引き締めたり、頬が緩んでしまったりして、何をやっているのかと自分を少し叱りつける。
もしもこのコといっしょに住むなら、単調で質素だった独身生活がどのように華々しくなるだろう。
これからはこうして俺が留守のあいだに、小さな身体を使って掃除や料理などの家事に励んでくれるのだろうか。
などと、まるで彼女ができたような幸福感に満たされ、未来のいろんな場面が思考に巡り、そんなファンタジーな空想からつい微笑が浮かぶ。
そういえばこの一ヵ月、時々部屋の様子が変わっていた気がする。それもきっとこのコがやってきて、部屋で遊んだりしていたのだ。
俺はふたたび微笑を浮かべてしまった。
そして軽く咳払いをして、挨拶をまじえて礼の言葉をつむごうとした時だった。
ふいに、カタリと音がした。
俺は意表をつかれて、そこへ視線を向けた。
「……」
ベッドの下に何かがいた。
サイドフレームと床の間に挟まれるようなかたちで、人が横向きになって隠れている。
「ひっ!」
見間違いではない。薄暗い隙間に、痩せこけた裸の女がいる!
その落ち窪んだ目が、俺を見上げていた。
「うわ! 誰だ!」
心臓がせり上がって背筋が冷たくなった。後ずさって床に尻もちをついた。
髪の長い不健康そうな女が薄笑いを浮かべた。
「……おじゃましています」
「!!」
脆弱な声とその顔に見覚えがある。
先月、俺が告白を断ったことで退職した事務員だ。
捨てたはずの手紙の束が、差出人である女の手に握られていた。
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