第34話 涼ちゃんの疑問

翌日の日菜子ちゃんは、こちらが気の毒になるほど恥ずかしそうだった。顔を真っ赤にしてダイニングルームに現れ、うつむいて一言も口を聞かなかった。でも彼女は、キッチンに入って朝食の準備を手伝ってくれた。

昨日の夜、涼ちゃんが「お雑煮まだ食べたい」と言ったので、今朝も元旦と同じメニューになった。それじゃ変化に乏しいので、私は日菜子ちゃんに大根や茄子や人参やキュウリやらの漬け物を切って、盛り合わせにして四皿に分けるのを頼んだ。そして、彼女の実力に気がついた。

もう、包丁を持たせるのが危険なレベルだ。あれ、日菜子ちゃんはずっと一人暮らしのはずだよな?私は無言で危なっかしく漬け物を刻む彼女を、不思議な思いで見ていた。でも彼女はまだ、昨夜の余韻の中にいる。私は、何も言わないことにした。


八時になり、みんなで朝食を食べた。日菜子ちゃんはうつむいたままで、箸もなかなか取らなかった。

「日菜子ちゃん」と、私は隣に座った彼女に優しく話しかけた。「朝ごはんしっかり食べないと、今日の授業中にお腹減っちゃうよ」

日菜子ちゃんは、驚いたように横を向いて私の目をじっと覗きこんだ。まるで朝食のことを忘れてたみたいに。しばらくそのまま、彼女は動かなかった。だいぶ経ってから、やっと微笑を浮かべて正面を向き、箸を動かした。

テーブルの席は、自然にいつも決まっていた。キッチン側の、庭が見渡せる席に涼ちゃんと真理ちゃんが並ぶ。庭側の、それに背を向けた席に私と日菜子ちゃん。涼ちゃんと真理ちゃんは、私と日菜子ちゃんのぎこちないやり取りを興味深そうに眺めていた。でも、二人とも何も言わなかった。あえて、口を挟まないでくれたようだ。


今日の授業は大変だった。イースター島やマヤ文明の崩壊を紹介した後、話題は国連に移った。そこで国連の解体を主張する前に、まず現在の国連を一から説明しなくてはならなかった。ある程度予想通りだったが、涼ちゃんと真理ちゃんは国連の仕組みをほとんど理解していなかった。少なくとも、中学では習うはずなんだが。これでは、日々のニュースを見てもわからないことだらけのはずだ。ユニセフ、IMF(国際通貨基金)、WTO(世界貿易機関)、WHO(世界保健機関)、・・・。これには、日菜子ちゃんも苦笑していた。

「現在の国連はね、そのおおもとは第二次世界大戦の連合国なんだ」と、私は説明した。

「第二次世界大戦?そんな大昔の話なの?」と、涼ちゃんが不思議そうに言った。

「そうなんだ。第二次世界大戦の戦勝国の連合に、敗戦国も含めた世界中の国が加盟している。だから、戦争中の主要メンバーであるアメリカ、イギリス、旧ソ連(現ロシア)、フランス、そして中国の発言力が圧倒的に強い」

「そんなの、不公平じゃん」と、真理ちゃんが発言した。

「そのとおり。だから、今の国連は世界をまとめられないんだ。だから、様々な問題を解決することができない」

第二次世界大戦後に、アメリカが世界に払った、金、人、時間は、膨大なスケールである。その功績は尊敬と感謝に値するものだし、当時のアメリカ人たちも新しい世界秩序を自ら構築しようと燃えていた。だが彼らは同時に、世界はアメリカの国益に沿った形で再構築されるべきだと考えた。それが当たり前だと、信じて疑わなかった。そこから、新たな間違いが始まったと言える。

 私は当初の予定を変更し、午前中を国際連合の歴史と仕組みを説明することに費やした。無駄ではないが、大幅な計画変更である。私はその場で、モニターに映されたスライドに文字を追加しながら解説を続けた。ほぼ、アドリブなのでとても疲れた。

 そして午後やっと、国連の解体に辿り着いた。そして、質問の嵐。日菜子ちゃんもいれた三人で、矢のように発言が飛び交った。結果、活気あるディスカッションになったと思う。

「結局、ガンはアメリカなんだね」と、授業の終わりで涼ちゃんが言った。

「俺も、そう思う」

「なんでアメリカは、世界中に口出すんだろう?」と、真理ちゃんが疑問を投げかけた。

「人は誰でも、一度手に入れたものを手放せないんだよね。金持ちが自分の財産を投げ出して、貧乏人になることはまずない。アメリカも一度手に入れた世界の覇権を、手離さずに今日まで来てしまった。莫大なお金を払い、とんでもない数の犠牲者を出してね。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン介入。アメリカは戦争でたくさんの人を殺したけど、同時にたくさんの若者を失った。彼らの未来を奪ってしまった」

「バカみたいというのを通り越して、ひたすら虚しい」と、日菜子ちゃんが言った。


 さて本日は、国連の仕組みと解体だけで終わってしまった。本題の環境問題は、明日に回すしかない。明日の講義内容は、すし詰めになってしまった。私は早速、明日のためのスライドを作り直す作業に入った。六時間の授業に収めるため、いくつかのスライドを涙を飲んで削除した。そして、順番を大幅に入れ替え、午前と午後の二つのファイルに作り直した。

 突貫工事なので、完成度はイマイチだ。まあ、夕食の後に全部見直すことにしよう。また、明日の朝早く起きて考え直すこともできる。経験的に、夜の頭より朝の頭の方が回転が早い気がする。仕事も、普段より短時間でできる気がする。


 夜は久々に、以前行ったカレー屋に行くことにしていた。その店は、一月二日から営業していた。昼に電話をかけて四人の予約を頼むと、17時30分に来てくれるとありがたいと言われた。19時以降の混雑する時間を避けるためだろう。

「実は今夜は、あのインドカレー屋を予約してあるんだ」と私は言った。

「ぎゃーっ!」

「いーっ!」

 涼ちゃんと真理ちゃんは、両手を上げてはしゃぎ出した。そしてキョトンとしている日菜子ちゃんに、真理ちゃんが「すっごい、美味しいカレー屋に行くんだよ」と教えていた。

 私たちは大急ぎで出かける支度をして、車に飛び乗った。店には、17時20分過ぎに着くことができた。

 また開店したばかりの空いた店で、私たちは一番奥の四人席に案内された。店の少し歪な造りのおかげで、その席は少し奥に引っ込んでいた。他の客席とは、隔離された場所だった。ここなら少し大きな声でしゃべっても、他の人に迷惑をかけなくてすみそうだった。

「ここのナンがね、出来立てで最高に美味しいの」と、真理ちゃんが説明した。

「日菜子ちゃんも、二枚食べられるよ」と、涼ちゃんが言った。

「いやあ、さすがに二枚は無理だと思うよ」まだこの店の、ナンの味を知らない日菜子ちゃんは答えた。

 三人とも種類は違えど、辛さのグレードは最高のカレーを頼んだ。注文されたメニューを聞いただけで、汗が出てきそうだ。もちろん私は、最低グレードにした。


「ねえ、どれだけ勉強すれば頭が良くなるの?」と、食事をしながら涼ちゃんが私に聞いた。とんでもない、難問である。

「いやあ、食事中にするには重いよ、それ。頭痛くなっちゃって、カレーの味がわからなくなるよ」と、私はやんわりと辞退した。

「私は、知りたい!」と、涼ちゃんは毅然として言った。怖いときの涼ちゃんだ。その勢いに押されて彼女を見ると、眉をキリリとさせ大きな瞳をさらに開いて私を見つめていた。かっこいいなあ。こんな顔に生まれたかったもんである。

「私ね、拓ちゃん」と、涼ちゃんは静かに言った。

「うん」

「あの学校で、一度も勉強したいと思ったことなかったの。中等部のときも、高等部に入ってからも」

「多分、そうだったんだろうね」と、私は答えた。あの最初に書いた手紙を思い出せば、どんだけ勉強してなかったかわかる。

「でもね、拓ちゃんと真理ちゃんと海を見てたときにね、ピカッと感じたの」

「何を?」

「知りたいって、感じ」

「知りたいって、何を?」

「なんでも。なんでも知りたい、勉強したいって思ったの」

「どうして?何がきっかけ?」と、日菜子ちゃんが涼ちゃんに聞いた。

「それが、何がきっかけかはよくわかんない。強いてあげれば、太平洋かな。とにかく、猛烈に知りたくなったの」と、涼ちゃんは説明した。

「確かに、新聞やニュースを熱心に見るようになったよね」と、私は言った。

「うん。これまでのマイナスを取り戻そうと思って。でも、新聞見てもニュース見てもわかんないことだらけ。だからしょっちゅう、拓ちゃんに質問してた。拓ちゃんの話を聞いて、やっと納得できた」

「拓ちゃん、大変」と言って、日菜子ちゃんは笑った。おいおい、あなたは教師なんだから、私の代わりに教えてくれよと思った。でも日菜子ちゃんも、年末年始はスイッチを切っているのだ。まもなく、授業が再開する。そして、生徒たちの受験が始まる。受かる奴も、落ちるやつもいる。よく考えると、それも心労が絶えないよな。せめてこの二、三日だけでも、彼女を休ませたいと私は思った。

 三人とも、ナンのお代わりをした。最初に日菜子ちゃんがそれを一口食べたとき、顔つきが変わった。無理だと言ってた、二枚目に彼女は挑戦した。

「私、これ三枚食べられるかもしれない」と、日菜子ちゃんは言った。

「いや、それは無理でしょ」と、今度は涼ちゃんと真理ちゃんが言った。でも私だけ、それは可能な気がした。あの筋肉質の彼女ならば、それを養うために人並み以上にエネルギーを必要とするはずだ。

「とにかくね、わからないことだらけなの」と、涼ちゃんは二枚目のナンをちぎりながら言った。

「拓ちゃんがいろんなことを授業で教えてくれるから、今はだいぶ頭が良くなった気はするけど。最近、ゴールはどこなんだろうと思うの。もっと簡単に言えば、どんだけ勉強すれば、拓ちゃんみたいになれるんだろう?って思う」

 私はどうしようか、考えた。今はゆっくり食事を楽しめばいい気もした。一方で、涼ちゃんの真剣な問いに真摯に答えたいという気持ちもあった。するとついつい、難しい話をすることになる。ううむ。

「ねえ、どんだけ勉強すればいいの?」と、涼ちゃんは最初の問いを繰り返した。その言葉で、ついに私はスタートボタンを押した。

「まず最初に」と私は言った。

「うん」と、涼ちゃんが私の目の奥を見つめながらうなずいた。

「勉強には、きりがない。いくら勉強しても、ここで終わりということはない。一生勉強するんだよ」と、私は言った。

「そうなの?一生、やんなきゃ何もわからないの?」と、涼ちゃんは悲しそうな表情になって聞いた。

「いや、それは間違い」と、私は言った。

「どうして?」

「人の頭は、今知っていることで答えを出すからさ」

「どういうこと、それ?」と、ずっと黙っていた真理ちゃんが聞いた。

「どういう意味なの?わかんない?」と、涼ちゃんも言った。

「私も」と、日菜子ちゃんが続いた。

「会社なんか典型的なんだけど、毎日会議がある。参加者全員で今わかっていることを資料で確認し、みんなで意見を出し合う。そして、一時間の会議で、みんな納得できる結論を出す。

 さてここで、問題です。この会議の結論は正しいでしょうか?」

 三人は、顔を見合わせた。みんな目が泳ぎ、何と答えていいのかわからない様子だった。

「みんなで出した結論だから、正しいんでしょ?」と、大人の日菜子ちゃんがみんなを代表して答えた。

「半分正解で、半分間違い」と私は答えた。

「どうして?」と、涼ちゃんと日菜子ちゃんが同時に言った。

「人には、完全性を求めるという欲求があるんだ」

「完全性?」と、日菜子ちゃんが言った。

「何、それ?」と、涼ちゃんが言った。

「わかんなーい」と、真理ちゃんが可愛らしく答えた。彼女は、この問題には白旗を上げて降参のつもりのようだ。でも涼ちゃんの目は、厳しいままだった。

「人は自分の知識、与えられた条件や事実、これから予想される未来を全部考える。そして、結論を出したがる。もっと詳しくいうと、発生原因から現時点の結果、そして未来までの因果系列を全て知り尽くして結論を出そうとする。それが好きなんだ。それがしたくて、一生懸命勉強する。つまりこれが、物事を完全に知り尽くそうとする欲求なんだ」

「それが、知りたいっていう気持ちの理由?」と、涼ちゃんが聞いた。

「だいたい」

「何でだいたいなの?」

「この完全に物事を知り尽くそうという欲求が、最も強く現れるのは人がピンチのときなんだ」

「ピンチ!?」と、涼ちゃんは意外な言葉に驚いて言った。

「人は追い詰められたとき、問題に立ち向かうか、逃げるかを選ぶ。立ち向かう選択をしたとき、自分のピンチの原因を過去から未来の予想まで自分の知恵を総動員して考える。そして、答えを出そうとする。そして運良く答えが出せたとき、ピンチから解放される。助かった。明日から頑張ろうという気持ちに戻れる」

「ピンチだから、物事を完全に知り尽くして答えを出そうとするのね。なるほど」と、涼ちゃんは答えた。

「で、でも、さっき拓ちゃんは、会議の結論は半分間違いだって言ったよ」と、日菜子ちゃんは聞いた。

「そうだね。ここで、ゆっくり考えよう。涼ちゃんが今自分の抱えている問題の全てを考えて、完全に知り尽くしたとする。そこから導かれる結論はベストだ。今日においては」と私はそこであえて言葉を切った。そして、話の続きをした。「でも、涼ちゃんは勉強をコツコツ続けたとする。そして知識や経験を蓄えていく。そしてもう一度、同じ問題に立ち向かったとき、涼ちゃんは違う答えを出すかもしれない。知識や経験が増えているから、同じ問題でももっと完成度の高い結論を導き出す可能性がある。

 さっき会議の結論が半分正解で、半分間違いと言ったのは、この事情によるんだ。今日はベストでも、明日新事実が発生する可能性がある。俺の会社に例えれば、資材会社が突然値段を倍に上げると言い出したとかね。そうすると、昨日の会議の計算が根本的に狂う。昨日の結論じゃ、『この工事、赤字じゃん』ということもありうる。ではまたもう一回みんなで集まって、今日の与件で完全な結論を探し直すというわけさ」

 三人は考え込んだ。食事の手も止まってしまった。ほら、だから今は難しい話はしたくなかったんだよ〜。でも、涼ちゃんの問いは真剣そのものだった。答えないわけにはいかなかった。私がもっと、わかりやすく物事を説明する能力を備えていればいいのだが。今のところ、これが限界である。

「そうするとさあ」と、涼ちゃんは言った。「私は今の自分で、完全に考えてベストな結論を出す。これはこれでいいってことね。でも、勉強を続けて、知らないことをどんどん知っていけば、もっともっとパワーアップできるってことね」

「その通り。大正解だよ」と私は答えた。

「でも、これはキリがないのね。死ぬまで勉強しても、果てがないのね」

「まあ、そういうことだね。俺だって、ずっと勉強してるよ。みんなに授業で話してることは、四十代になってやっと理解できたことが多い。小学校から四十年間かかって、やっとたどり着いたんだよ。でも、まだ俺もパワーアップできる。もっとみんなに優しくなれる。そう考えると、やる気がわいてくるでしょ」

「わあい、もっと優しくして!」と、真理ちゃんが大きな声で嬉しそうに言った。

「私にもして・・・」と、日菜子ちゃんが真面目な目で訴えた。こらこら、お姉さん。

 それから私たちは、食事を再開した。でも涼ちゃんは、カレーをナンにつけて食べながら難しい顔で考え事をしていた。おそらく彼女は、まだ納得していないのだ。ここでも完全性の欲求が働いている。全て知り尽くさないと、気が済まない。「こりゃ、次がくるな」と、私は身構えた。

 食事を終えて、食後の飲み物を頼んだ。宣言通り、日菜子ちゃんはナンを三枚食べた。下手すると、四枚目を頼みそうだった。家の料理は涼ちゃんと真理ちゃんの食事量を基準にしていたので、きっと日菜子ちゃんには足りなかっただろう。失敗したな、と私は思った。

 私と涼ちゃん、真理ちゃんは、この店お薦めのラッシーを頼んだ。でも日菜子ちゃんだけ、ワインを頼んだ。グラスじゃ頼むのが面倒なので小さなボトルを頼んだ。日菜子ちゃんは、誕生日プレゼントでももらったみたいに喜んでくれた。

「ねえ、拓ちゃん」と、涼ちゃんは言った。「さっきの話、まだわからないことがあるんだけど」

「なあに?」やはりきたな、と思いながら私は答えた。

「拓ちゃんは授業でよく、『これはいい、これはダメ』ってはっきり言うよね。どう勉強したら、正解不正解がわかるの?私、自分ひとりで歴史を勉強しても、何が正しくて何が正しくないのかわかんないよ」と、涼ちゃんは言った。

「十八才でそれがわかるのは困難だと思うし、俺もその年ではわからないことだらけだったよ」と私は言った。「でも、大学入試はそれを求めてるからね。やり過ぎだと思うけど。だから今夜は、物事を考えるときの注意事項だけ教えるよ。

 何が正しくて、何が正しくないかは、涼ちゃんが自分で決めればいい。俺の意見と違っても構わない。そのうち、わかるようになるよ。

でもね、人が難しいことを考えるときにやっちゃいけないことがある。今夜は、それだけ話そう」

「何それ?」

「やっちゃいけないことって何、何?」

 涼ちゃんも真理ちゃんも、身を乗り出した。日菜子ちゃんだけ、ワインの海に漂ってゴキゲンだった。

「その一。概念を実体化するな」

「何それ?」

「いきなり、超難しんだけど」

「例えば、『自然』という言葉を例にしよう。これは、明日の授業にも繋がるから。人は自然とか環境という言葉を使うと、言葉にしたことでそれを実体を持った自分の理解できる対象だと勘違いする。

 しかし、『自然』とは森や川や山や動物や植物や空気や地球や、終いにゃ宇宙まで対象になる。さらによく考えると、自分の身体も一番身近な自然だ。病気なんか、自分の意思でどうにもできないものだからね。

 でも人は、こんなに範囲が果てしなく広いものを『自然』の一言で片付けてしまう。これって、おかしいと思わない?」

「そう言われてみれば、確かにおかしい」と、涼ちゃんは言った。

「それって、『女』って言われてくくられるのと一緒だよね。でも私は、普通の『女』じゃない。『女』だからああしろ、こうしろと言われても聞かない」と真理ちゃんが言った。

「真理ちゃんの指摘は、もっともだよ。それも概念の実体化だ。この世に『女』という実体的な対象はない。ただ、個々の女の人がいるだけだ。でも、日常的に人は、この間違いを犯す。むしろ、その方が自然なくらいだ。だが、それは確実に真理ちゃんみたいな人を傷つける。だから、やっちゃダメなんだ」

「なるー」と、涼ちゃんが言った。

「わかったー」と、真理ちゃんが言った。

「でも、現実はそう簡単じゃない。超一流の学者たちだって、この間違いを犯している」

「ほんとー?」

「例えばー?」

「現代数学の『無限』の概念について話そう。ヒルベルトという数学者が、こんな譬え話を作っている。『あるところに無限の部屋を持つホテルがあった。しかしある晩、無限の部屋が満室になってしまった。そこへ一人のお客が、予約なしにその無限ホテルに現れた。お客は満室だと聞いてがっかりしたが、ホテルの受付は大丈夫だと答えた。彼は、一号室の人は二号室に移ってもらう。二号室の人は三号室の人に移ってもらう・・・。これを無限に繰り返せば、一号室は確実に空くと言った。なぜなら、ホテルは無限に部屋があるからだ』と。ここには、無限+1という単純な計算式が成り立っている。

 だがこの話は、二重の意味でバカげている。まずこの世に無限ホテルが実在し、しかも満室であること。次に無限+1という計算で一部屋空室ができると考えることだ。無限に1は足せない。無限なんだから。満室なら、部屋は空かないんだ。

 この間違いは、無限を『アレフ』と名付けて記号化したことから始まっている。この分野の数学者たちは、『アレフ』+1という数式を疑問なく受け入れた。ここには、無限を数えられるものと考える根本的な勘違いが潜んでいる。無限という概念を実体化し、自分の理解できるものだと考えた典型的な例だ。ある意味、とても自然と似ている」

「ギョエーっ」

「キッーっ、きっつー!」

 涼ちゃんと真理ちゃんは、奇声をあげた。他のお客さんと離れた席でよかった。

「こんなの試験に出ないよね?」と、真理ちゃんが聞いた。

「多分でない。でも、無限ホテルの話を褒める文章は出るかも」と、私は言った。

「なんで?」と、涼ちゃんが聞いた。

「ヒルベルトという数学者は、十九世紀から二十世紀にかけてのスーパースターだからさ。権威に負けて、彼を言うことを聞いちゃうやつは多いんだよ」

「でも、やっちゃダメなんだよね?」と、真理ちゃんが言った。

「うん、ダメ」

「でもこれを使うやつは、いっぱいいるんだよね?」と、涼ちゃんが念を押すように言った。

「うん、いっぱい生き残ってる。大学の先生にもいるかも」

「やだあ。そんな先生に会ったら、どうすればいいの?」と、さらに眉毛を動かして私に問いかけた。

「じゃあさ、今度は有限と無限の実体化の話をしよう」と、私は言った。

「また、わけわかんない」と、真理ちゃんは言った、「でも、拓ちゃんと付き合ってすっかり慣れたけど」

「拓ちゃん。ねえ、何が言いたいの?」と、涼ちゃんが聞いた。

「有限と無限という言葉を並べると、有限<無限という不等式がすぐに出来るよね。有限より、無限の方が大きいに決まってるからね。

 でもここで、一本のペンを考えよう。ペン先がゼロ、上が1としてペンを数直線だと考えよう。こう想定することで0.12345...という数値が、このペンのどこかに点を打つことで表現できることになる。

 ここで、この世に存在する本、雑誌、新聞、インターネットの文字を全て数値に変換するとしよう。アルファベットだとわかりやすいので、Aは01、Bは02、・・・、ピリオドは27、クエスチョンマークは28、・・・と置こう。文字は全部英語に翻訳して、数値に直していこう。

 そうするとね、0.01080121....というように文字を数値化できる。いくらでもできる。最終的には、この世に存在する全ての言葉を無限に数値に還元できる」

 涼ちゃんと真理ちゃんは、私の言っていることを必死に理解しようとしていた。二人ともラッシーの注がれた、瀬戸物のコップを睨んでいた。私は、この話の結末を説明した。

「論理的には、この出来上がった数値をこのペン、0 から 1 までの数直線の一点に打つことが出来る。この小さなペンに世界中の全ての情報が詰まってる。これを、百科事典棒と言う」

「一本のペンに、何もかも情報が記録できるってこと?」と、涼ちゃんが聞いた。

「その通り。もちろんそんな精度の高い装置を開発することが前提だけど。

でね、この話のオチは、有限>無限と不等式の向きがひっくり返っていること。有限なペンに、無限の情報が入るんだ。なのに昔から現代まで、有限<無限という不等式は絶対だと考える人が後を絶たない。それは、有限と無限を実体化しているから、柔軟な発想ができないからなんだ」

「すごい・・・」と、真理ちゃんが驚いた様子で言った。

「無限は有限の中に入るんだ・・・」と涼ちゃんは、天井を見上げて計算でもしてる風だった。

「この百科事典棒は面白い発想だけど、ちょっと話が長い。もっとシンプルな例を上げよう。円の面積は、有限だよね?」

「そりゃ、そうでしょ」と、涼ちゃんが口を尖らせて言った。

「それが、どうしたの?」と、真理ちゃんが不思議な顔で言った。

「でも、円の中の点は無限だよ」

「げえーっ」

「そりゃ、そうだ」

「これも、有限の中に無限が入る一例だよ。ねえ、これで有限とか無限を実体化して考えることのバカバカしさがわかったでしょ?」

 涼ちゃんと真理ちゃんは、私が言ったことについてしばらく考えていた。日菜子ちゃんだけ、戦線離脱してワインを楽しんでいた。私たちの会話も、バックラウンド・ミュージックだと思っているようだ。

「でも、これが一つめなんだよね?」と、涼ちゃんが言った。

「そうなんだけど、もう一つめでお腹いっぱいじゃない?」と、私は言った。

「確かに」と、真理ちゃんが言った。

「今夜は、有限と無限のことだけ考えてみる」と、涼ちゃんは言った。

「じゃあ、二つめ以降は今度にしよう。ドライブのときか、ホテルで夜景を見てるときに話すよ」

「二つめ以降って、もしかして三つめもあるの?」と、涼ちゃんが聞いた。

「ある」

「ひええっ!?」と、涼ちゃんは悲鳴をあげた。真理ちゃんは、もうお手上げという顔をした。

 それから私たちはラッシーを飲み干し、ワインですっかり酔っ払った日菜子ちゃんを支えながら店を出た。


 家に帰ってから、涼ちゃんも真理ちゃんも部屋にこもって勉強を始めた。テレビは21時のニュースだけ見た。酔っ払った日菜子ちゃんは、私の六畳間の布団で横になってもらった。私は彼女を、一回抱き上げてそっと布団に下ろした。

「楽しかったあ・・・」

 寝ぼけ眼の彼女は、それだけ言って早々と熟睡し始めた。私はダイニング・ルームのテーブルで、明日のスライドの見直しをした。時間をかけて、じっくりと。しかしこれは、キリのない作業である。どこかで見切りをつけないと。私は、スティーブ・ジョブズほどの完璧主義者ではない。

 涼ちゃんが部屋から出てきて、私に質問をした。彼女は大学の過去問題に取り組んでいて、解答の意味がわからないと言う。それは、英語の長文だった。でもそれは、問題の難しさではなかった。涼ちゃんが、長文を読みきれていないのだ。出題された文章を理解していないから、出題者の意図もわからない。

私は涼ちゃんと、その長文をひとつずつ訳していった。基本は、涼ちゃんが訳す。私はそれを聞いているだけだ。案の定、涼ちゃんが訳せない文章が出てきた。もちろん難しい単語もある。でも、それは辞書で調べればわかることだ。その長文も、涼ちゃんはわからない単語を全部調べて余白に書き込んでいた。でも、文章の意味がわからない。

それは涼ちゃんが、長い文章の文型を見抜けていないからだった。SV、SVO、SVOO、SVOC。英語はどんなに長くとも、この文型のどれかである。これに、形容詞句や前置詞句やらがくっつくので、文章が長いと文型の切れ目がわかりにくくなる。もちろん出題者は、それを狙っている。長い文章で受験生を躓かせ、ふるいおとすわけだ。

私はまず、涼ちゃんが訳せなかった文章の中に「/」をいくつも書き込んだ。そして文章の下に、S、V、O、Cと書いた。これが主語で、これが動詞だよ、ということだ。

「こうやって、区切りをつけると意味がわかるでしょ?」

「わかったあ。私、この文章を全然別の意味に取ってた」と、涼ちゃんは言った。

「というか、文章がわからなくて、自分の想像で意味の空白を埋めてたはずだよ。それは、やっちゃダメなんだ」

「私、長い文章になると必ず引っかかるんだよね。その一文だけで、何分もかかっちゃう」

「それは誰でも同じだよ。You Make Me Happy. こんな短い文章なら、誰でもわかる。でも、長い文章になると、日本語と英語の違いが鮮明になる」

「どういうこと、それ?」

「例えば、『なんだか頭が痛いなと思い、ダイニングルームの薬箱から頭痛薬を取り出した』という日本語の文章があったとしよう。これを英語に翻訳すると、『(私は)取り出した、頭痛薬を、薬箱の中から、ダイニングルームにある、というのは、(私は)思った、(私は)感じた、頭痛を、なんとなく』という並びになる。もう、全然ちがうでしょ」

「ほんとだねー」

「もう言語の組み立て方が、全然違う。英語は最初に主語の取った行動を宣言して、その条件やら理由やらをだらだらと話す。いつまで話すんだとツッコミたくなるけど、英語を話す人たちはこれでいいんだから合わせるしかない。

あとね、今わざとやったんだけど、最初の日本語には主語がない。頭が痛いのは私なのか、涼ちゃんなのかわからない。でも日本語は、これで成立しちゃう。

だけど英語は、そうはいかない。くどいくらい主語が出てくる。これも大きな違いのひとつだね」

「ねえ、なんで英語を習わなきゃいけないの?」

「そりゃもちろん、英語が今の世界の共通語だからだよ」

「なんで、英語が共通語なの?」

「いいところを突いてきたね。さすが、涼ちゃんだ。鋭い」と、私は彼女を褒めた。彼女は私の賞賛に、身を愛くるしくすくめて幸福そうに笑った。

「十九世紀までははね、ヨーロッパの国際会議の公用語はフランス語だったんだよ。ブルボン家に代表されるように、フランスはヨーロッパの大国だったからね。

でもイギリスが、その地位を奪った。次いで、アメリカがその世界のトップの座を引き継いだ。だから、今の世界共通語は英語なんだよ。もしかすると二十二世紀は、中国語が共通語になってるかもしれないね」

「ふーん、昔はフランス語だけど、今は英語ってことね」と、涼ちゃんは言った。

「いや、日本に限れば、江戸時代の終わりまではオランダ語だね。鎖国のせいで、オランダ語と中国の本しか入ってこなかったから。だからヨーロッパの知識を学ぶには、オランダ語ができないと話にならなかったんだよ。

でも、明治になって状況は一変した。いろんな言語が日本に入ってきた。フランス語、ドイツ語。でも、英語が一番だったかな。当時の世界最強国は、イギリスだったからね」

「ふーん、世界の覇権を持つ国の言葉が、世界共通語になるんだ」と、涼ちゃんは言った。

「それからもうひとつ。イギリスやアメリカの植民地や勢力範囲だった、東南アジアからインド、アフリカ、中南米諸国まで、彼らの生活の中には英語が根付いている。その人たちもカウントすると、膨大な数の人が英語を使っている。だから当分、英語の天下は変わらないかもね」

涼ちゃんは、大きなため息をついた。そして言った。

「どうやっても、英語から逃げられないってことか」

「そゆこと」


24時になった。もう勉強はやめようと、真理ちゃんにも声をかけた。みんなで寝支度をして、布団に入ったのは深夜1時だった。日菜子ちゃんは洋服のままだったが、起きるわけないので放っておいた。私は電灯を消して、今夜も布団の端に横になった。そして、日菜子ちゃんの頭を自分の肩にのせた。










 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る