第29話 一次試験結果

毎日家に着いたら、ポストから郵便物を取ってくるのが私の日課だ。たいていはダイレクト・メールや近くの飲食店のチラシや、マンションを売却しないかという不動産屋の宣伝ばかりだ。大事なものはほとんどない。みんな家に持ち帰って、大半をゴミ箱に捨てるだけだ。だがこの数日、私はドキドキしながらポストを開ける日々を過ごした。

12月25日、ポストを開けた私は大量のチラシの中に定形封筒を二通見つけた。宛名は涼ちゃんと真理ちゃん、差し出し人は茗荷谷の大学だった。封筒は二通とも、とても分厚かった。 私は全ての郵便物を握り締め、走って自分の家に帰った。

 玄関を開けると、涼ちゃんと真理ちゃんが迎えに来てくれた。二人はまだ制服姿だった。彼女たちも、帰ってきたばかりなのだろう。

「これ、これ」

と私は手にした封筒を二人に示した。

「試験結果、だよね・・・?」と真理ちゃんが聞いた。

「多分。そうだと思う」

私はスーツのまま、二人は制服のままダイニング・ルームに行って席についた。私はそれぞれに大学の封筒を渡すと、六畳間からハサミを取ってきた。

緊張の瞬間だった。まず真理ちゃんがハサミを握り、封を切った。するとまず、「二次試験のご案内」と題された用紙が見えた。信じられなかった。真理ちゃんは私を見て、安堵の表情を見せた。しかし私はまだこれが、現実のこととは思えなかった。何枚もある書類をひっくり返して、「一次検定合格のご通知」という紙を見つけた。

「・・・貴殿は、去る12月16日に行われた平成30年度フンボルト式追加募集試験において、・・・合格となりましたので、・・・、別紙「二次試験のご案内」に記載の通り・・・」

私は斜め読みをして、「合格」ということばだけ探した。その文書は、どう読んでも合格としか書いてなかった。

涼ちゃんがハサミを使わずに、ビリビリと封書を破いた。まず、「二次試験のご案内」が、続いて「一次検定合格のご通知」が出てきた。

信じられなかった。私は上を向いてポカンと口を大きく開けたまま、椅子にへたり込んだ。力がしばらく、湧いてこなかった。

「受かっちゃった」と、真理ちゃんが言った。

「私も・・・」

二人は合格通知を私が読める向きにして、静かな笑顔を見せていた。少し恥ずかしそうでもあった。私はまた、その合格通知を読み返した。間違いない。二人はそろって、一次試験を突破した。

私は頭を大きく振った。私は、二次試験のことを考え出した。さあ、この大学をどう分析し、どんな準備をするか?すでに、一次を通ったあとのことは考えていたが、もう一度ゼロベースで戦略を組み立て直そう。よし。

私は何も言わずにキッチンに入った。そして夕食の準備を始めた。今夜は、鷄の照り焼きだ。大きな皿に、鷄をのせて隣にサラダを山盛りにする。それから、野菜スープ。それからリンゴ。そしてライスだ。

私は食事を猛スピードで作り、涼ちゃんと真理ちゃんの前に並べた。

「先に、食べてて。俺はあちこち電話してくるから」

そう言って私は、携帯を握って家を飛び出した。二人に会話を聞かれると、あまりいいことはないと学んだ。私はマンションの外に出て、国道沿いの歩道で電話をかけた。最初は、日菜子ちゃんだ。

日菜子ちゃんは、10コールくらいで電話に出た。

「一次、通ったよ」と電話が繋がるなり、私は言った。私は、まだ興奮状態だった。

「嘘でしょ!?どっちが?」と日菜子ちゃんが聞いた。

「二人とも」と、私は答えた。

「嘘でしょ!?」と言って、日菜子ちゃんは絶句した。気持ちはわかる。私だって、いまだピンとこないんだから。

「考えられない・・・。だって、調査書も英語成績も基準点をクリアしてないんだから」

「その考えられないことが、起こったみたい」

「信じられない・・・」

「明日、合格通知を見せるよ」そう言って私は、日菜子ちゃんとの電話を切った。

次に電話したのは、涼ちゃんのおじいさんだ。彼はまた、ツーコールで電話に出た。

「茗荷谷の女子大の、一次試験に受かりました」と私はいきなり言った。

「知ってる。さっき涼からメッセージをもらった。家内はもう、大騒ぎしてるよ」と、彼は言った。

「今は、お話しても大丈夫ですか?」

「実は今、ルノーの経営陣と会食中だ。年寄り同士でお世辞を言い合う、バカみたいな食事会だ。君の電話の方が重要だよ」

「大丈夫ですか?」

「席を外して、今は廊下にいる。後のことは副社長に任せりゃいい」と、社長である彼は言った。

「一次は通りましたが、次は二次試験の準備をしなくちゃなりません。浮かれているのは、一瞬です」

「ふむ、で、俺にできることは?」と彼は聞いた。

「とくに、ありません」と私は言った。涼ちゃんのおじいさんは、笑い出した。

「会社はもちろん、政財界探しても俺にそんな口をきくやつはいないぞ」

「すみません」と、私は素直に謝った。

「謝ることはない。それが君という人間だ。だから涼は、君を全面的に信頼してるんだ」

「最近、目黒の家にご挨拶に行けなくてすみません。土日はずっと、勉強しているものですから」と、私は言い訳を言った。

「それも知ってるよ。君が授業をやってるんだろう?涼から、君が作った資料をもらってるし、君が説明した内容もLINEで教えてもらっている」

 あらら、そんなことしてるのか。

「しかし君は、本当に変わった男だな。様々な問題に対する、観点が人と違う。うちの社員は、毎朝日経を読んで記事を頭に叩き込んで出社する。でも君は、記事を読まない。行間の、書いていないことを問題にする。社説に赤ペンで訂正線をそこら中に入れて、全体を書き直すような男だ」

 今夜の涼ちゃんのおじいさんは、とても饒舌だった。ルノーの経営陣を放っておいて、私みたいなサラリーマンの屑としゃべって時間を潰していいのだろうか?

「ルノーのみなさんは、気を悪くされませんか?」と私は恐る恐る聞いた。

「大丈夫だよ。俺は、家族の問題に取り組んでいるんだ。仕事なんか関係ない。彼らもわかるよ」と、彼は言った。そして話を続けた。

「うちの家内は、経営学で博士号まで持ってるんだよ。俺なんか四年生の大学を出て、一台ずつ車を売ってただけのアリみたいな男だ。家内の方が、ずっとアカデミックなんだよ。それでも君の授業には、首をひねってるよ。特に、論理的思考の授業はね。君に質問したいことが山ほどあると言ってる」

「多分半分以上は、涼ちゃんが答えられますよ。涼ちゃんが答えられなかった質問だけ、私が今度目黒にお邪魔してお話しします」

「涼はもう、家内がわからないことを身につけてるってことか?」

「多分、大丈夫だと思います。授業中は、質問を自由にしてわからないことが残らないようにしてますから」

 涼ちゃんのおじいさんは、しばらく黙って考えていた。そして、「つまり家内の知識より、涼はもう上を行っているということか?」

「そうではないです。私は難しい問題を、高校三年生が理解できるところまで簡単に、抽象化して説明しています。現実の問題は難しい。いくつもの糸が複雑に絡み合い、容易に解決できません。でもその問題のコアを教えるために、私は糸をぶった切り、立方体をした概念に変えます。18歳でも理解できる形に変えます。もちろん、切り捨ててしまった事実は残ります。しかし、涼ちゃんは提示された立方体を軸に、論理を組み立てます。今はそれでいいし、そもそも単純な背骨を持たない思想はうわべだけになります。世の中で役に立たない。誰だって目の前の現実を単純化し、それに対応する解決策を立ててから個別の問題に立ち向かう必要がある。そうしないと、信念のない行き当たりばったりな解決策になってしまう。そんなやり方は破綻します」

「君の意見は面白い。そして、耳が痛いよ」と涼ちゃんのおじいさんは言った。そして、「俺に説教するやつなんていないぞ。もちろん、先輩の経営経験者は俺にいろいろ意見するけどね。年下にこんなに言われるのは、新鮮だ」

「いえ、私も48歳です」と、私は言った。

「四十代なんて、まだ鼻垂れ小僧だ。六十、七十になったときに社会に何ができるか、それで人の最終的な価値は決まる」

「わかりました。覚えておきます」

私と彼の間に、沈黙が訪れた。私はこのへんで、電話を切りたかった。そして真理ちゃんのお母さんに連絡したかった。でも、涼ちゃんのおじいさんは話を続けた。

「涼には、本当につらい思いをさせてしまった・・・」

彼はそう、小さな声で絞り出すように言った。もうルノーの人のことなど、完全に忘れたようだった。

「はい、おおよそのことは知っています」と私は答えた。しかし、彼は私の答えなど聞いていなかった。

「あの、バカな父親さえいなければ・・・」

「涼ちゃんのお父さんなら、私会いましたよ」

「なにっ!?」涼ちゃんのおじいさんは、驚きと戸惑いの入り混じった様子で叫んだ。

「涼ちゃんからいろいろ話を聞いて、彼と会わなければと思ったんです。都内で待ち合わせをして、涼ちゃんのお父さんと二人で話をしました。十月のことです。

で、どう思われるかわかりませんが、私は彼に『涼ちゃんに近づいたら殺す。逃げても、探し出して殺す』と伝えました」

「ふうっ、ふっ、ふっ、ふっ」と、涼ちゃんのおじいさんは笑い出した。心から愉快そうな笑い方だった。「つまり君は、俺がずっとあいつに言いたかったことを、代わりに言ったわけだ。参ったな」

「でも、涼ちゃんのお父さんとお会いしてわかりました。涼ちゃんとお父さんは、そっくりなんです。あの涼ちゃんの美貌は、父親譲りなんです」

「もちろん、わかっているさ。そんなことは」彼はため息混じりに答えた。

「でもたかだか、顔の作りの話です。心は別問題です。涼ちゃんは、お父さんとは全く違う人生を歩む。だから、大した話ではないです」

「そりゃ、そうだ。俺も同感だよ」

「それから、涼ちゃんのお母さんとも電話で話しました」

「ええっ!?」涼ちゃんのおじいさんは、さっきよりももっと大きな声を出した。

「あつかましいことだとは理解していましたが、涼ちゃんのためには必要なことだと思ったんです」

「あの子は男を作って逃げて以来、俺と家内にすら一度も連絡をよこさないんだぞ。どうやって君は、あの子の電話番号がわかったんだ?」

涼ちゃんのおじいさんは、おそらくこれまでで一番興奮していた。怒ってすらいた。私ではなく、自分の娘に。なぜかはわからないが、この親子はその縁を絶ったらしかった。

「電話番号は、涼ちゃんのお父さんに教えてもらったんです」と、私は説明した。

「何だと・・・。それはつまり・・・」

それはつまり、涼ちゃんのお父さんとお母さんはまだ繋がっているということだ。認めたくないかもしれないが、仕方ないことだ。私は何かを言いかけているおじいさんを遮った。

「時間はかかるかもしれないですが、私は涼ちゃんとお母さんに和解する機会を作りたいと思っています。それを涼ちゃんが心の底で望んでいると、話していてわかったからです。

焦る気はない。涼ちゃんが、あるいはお母さんが『会いたい』と言い出すのを待つつもりです。それは、そんなに遠くないことだと思います。そしてそれは、涼ちゃんとお母さんにとって、しなければいけないことだと考えます」

また長い沈黙が流れた。涼ちゃんのおじいさんは、ずっと何も言わなかった。

「人の家庭のことに、差し出がましいことをして申し訳ありません」

「いや、構わん。全然構わんよ」と、彼は言った。「君は口だけだ。差し出がましいなんて聞こえのいいことを言いながら、涼のためなら何でもやる気だろう?君は自分の信念と、涼の気持ちにだけ従うわけだ。それで構わんよ」

またしばしの沈黙があった後、涼ちゃんのおじいさんは独り言のようにつぶやいた。

「俺と家内は、今までいったい何をやってたんだろうな。つまらない意地を張って、結局涼のことを真剣に考えてなかった・・・。そういうことになるんだろうな」涼ちゃんのおじいさんは、とても寂しそうな話し方をした。

おじいさん、おばあさんと涼ちゃんのお母さんとの間で何があったか、それはもちろん私に知りようがない。仮に私が三者に、現在の気持ちや過去の記憶を聞いたとしよう。それは無駄ではないが、全てを信じるほどの価値はない。なぜなら、人は時間とともに過去を変質させて語るものだ。そしてそこには、必ず自己弁護が潜んでいる。それは、仕方のないことだ。つまり、真実がつかめることはない。

ただ私たちがしてはいけないのは、おじいさん、おばあさんの言い分だけを聞いて涼ちゃんのお母さんを責めることだ。そんなことをしたら、涼ちゃんは激怒するだろう。必ず、お母さんの言い分も聞いて総合して判断しなければならない。それは、一般常識に属するルールだ。

しかし今、涼ちゃんのおじいさんは自分を責めていた。私のようなゴミみたいな男の前で、自分が過去に犯した罪を悔いていた。私はずっと気になっていた。涼ちゃんが、あまりにおじいさんとおばあさんに素っ気ないことを。彼女は二人との暮らしを説明もなく捨てて、私という汚い中年男との生活を選んだ。LINEは送るけれど。それは誰かに、話を聞いてもらいたいという気持ちからだろう。真理ちゃんと三人で目黒に行ったときも、涼ちゃんはとてもクールだった。つまり涼ちゃんは、おばあさんとおばあさんが実はあまり好きではないのだろう。それは涼ちゃんの態度に現れていた。

「親鸞の『総じてもって存知せざるなり』という、ことばをご存知ですか?」とはおじいさんに言った。

「おいおい、なんだお前は。本気で俺に説教する気か?」

「多分、ご存知ないですよね?」

「知らないよ。いったい何が言いたいんだ?」

「親鸞の言葉は、宗教の教祖として極限まで行っています。往生するか、地獄に行くか、私にはわからないと言ってますから。でもここに、彼が突き詰めた結論があると私には思える。

宗教対立、イデオロギー対立、民族主義の対立。世界は様々な対立がある。でも個人の生活まで下りたとき、また別種の対立がある。身近な人々との対立、衝突です。それは時として、人が生命を絶ちたくなるほど苦しいものとなることがある。そんな時、人は過去を振り返り『違う選択をしていたら』と考えたくなる」

「貴様は、俺がさっき言ったことに絡んでるんだな。わかったよ。続きを聞かせろよ」

「全ては存知せざることです。正しかったとも、間違っていたとも言えない。親鸞は、信者が自分を神格化することを嫌った。なぜなら、人が人生で選択したことを、彼は善悪判断する気がなかったからです。彼は、ただ念仏を唱えて人が救われることだけを望んだ。親鸞ならただ涼ちゃんや、涼ちゃんのお母さんが救われることだけを望むでしょう」

「君の言うことは難し過ぎて、俺にはお手上げだ。帰って家内に相談するよ。で、俺にどうしろって言うんだ?」と、涼ちゃんのおじいさんは笑いながら言った。きっと私の理屈っぽさに、うんざりしたのだろう。

「過去のことは捨ててください。綺麗さっぱりと。そして涼ちゃんと、涼ちゃんのお母さんの未来を現時点から考えて下さい。たった今からです。さっきのセリフもなしです」と、私は涼ちゃんのおじいさんに言った。

「それが、救いだということか?」

「そうです」

「はあっ、はっ、はっ、はっ」おじいさんは笑い出した。「こんなに怒られたのは、最近記憶にないよ」と涼ちゃんのおじいさんは、愉快そうだけど少し呆れたように言った。

「怒ってはいないです」と私は言った。

「いや、強烈なパンチが三発くらい入ったよ。そのうち一発は、本当に効いたぞ。テンカウントで、立てなかったな。KO負けだよ」

「生意気なことばかり、申し上げてすみませんでした」

「馬鹿野郎、口先だけのセリフを言うな」と、涼ちゃんのおじいさんは怒鳴った。「俺はマットに這いつくばって、立てないんだ。そんな相手に謝るか?KO勝ちだと、利き手を上げて誇れ。涼は、そんな貴様の姿にゾッコンなんだ。俺には本音でこい」と涼ちゃんのおじいさんは言った。

「ありがとうございます。そうします」と、私は言った。

「勉強が忙しいのは、理解している。だが、私も家内も寂しいんだ。涼の笑顔を、ほんの少しでも目にしたい。君の言う通り、それだけで救われるんだ。君の作っている綿密な計画も理解した。それが不可能を可能にすることも理解したよ。だが、たまには目黒に来てくれないかな?」

「それは、全然構いません。私は、毎日勉強しても頭に入らないと考えていますから。休みを入れて、集中力を高めたところに教えるのがベストだと思っています。むしろ社長が、いつ目黒の家にいるのかが問題です。この間みたいに、午後は会議ってのは勘弁して下さいよ。涼ちゃんが、腹を割って話す時間もないじゃないですか」

「馬鹿な部下が、どんどん予定を秘書を通して入れるんだ。もう、大晦日も元旦も予定が入ってる。俺は猿回しの猿なんだ。部下に首輪を引かれて、無理矢理笑ってるだけさ」

「わかりました。でもその秘書に調整してもらって、30日までに一日時間をください。また10時頃から、お家にお邪魔しますよ」と私は言った。

「よくわかった。秘書をこき使って、絶対一日フリーの日を作るよ。約束する」と、涼ちゃんのおじいさんは言った。

「最後に一つ、頼んでもいいですか?」

「なんだ、あらたまって」

「涼ちゃんの前で、涼ちゃんのお母さんの悪口を言わないでください」と私は言った。

「ううっ」と、彼は低いうなり声をあげた。それきり、何も言わなくなった。なので私は、話の続きをした。

「つらくて悲しい出来事が、何度もあったと思います。でも、今は涼ちゃんの幸せだけを考えましょう。それにお母さんの悪口は、不必要なんです」

「くうーっ」と、涼ちゃんのおじいさんは言った。それは、肉食動物が低く唸っているみたいだった。

「クロスカウンターだ。これまた、強烈な一発だ」と、彼は言った。「つまり君は、俺と家内がずっと過ちを犯してきたと言うわけだ。君が想像している通りだよ。俺たちはずっと娘の悪口を言って、ずっと涼を傷つけてきたんだな」

「ですから、もう過去はいいです」

「しかし、俺たちの気持ちが治らないよ」と、彼は言った。

「ならば今週か来週に、お家に遊びに行ったときに涼ちゃんに伝えてください。『今までお母さんの悪口を言ってすまなかった、もう言わない』と」

「うむ、わかった。そうするよ」と涼ちゃんのおじいさんは言った。「だが、実際口にする段になると、真の勇気を必要とするな。君の指摘から行けば、私も家内も同罪だ。よく二人で話し合っておくよ」

「焦る必要はないです。今週末で、話せなくてもいいです。また、次の機会があります。タイミングのあったときに、伝えてもらって構いません」

 ようやく、涼ちゃんのおじいさんとの長い会話が終わった。目黒行きは、土日でなければ会社を休まなくてはならない。急な有給申請に、嫌な顔をする上司が頭に浮かんだ。

 

 私は少し休んで、気分転換をしてから真理ちゃんのお母さんに電話をかけた。電話は、10コールくらいして留守番電話になった。私は「柿沢です。真理さんが女子大の一次試験に通ったのでご連絡しました。また、お電話します」と、メッセージを残した。そして私は、五分くらいしたら掛け直すためにマンションの前に立っていた。

 すると三分くらいして、真理ちゃんのお母さんから電話がかかってきた。

「もう電話してくるなって、言っただろう」

 私が電話を取るなり、彼女はまずそう言った。

「すみません。真理さんが茗荷谷の女子大の一次試験に合格したものですから、どうしてもお伝えしたくてお電話しました」と私は言った。

「金ならないよ。私はあの子を、大学に行かせる気なんてこれっぽっちもないよ」

「わかっています。授業料は、私が立て替えます。真理さんが社会人になってから、返してもらう約束になっています」

「あんた、インポなんだろう?」と、真理ちゃんのお母さんは言った。「私はあんたぐらいの歳で、十代の娘に入れ上げる男を何人も見てきた。でも、あんたは違うんだろ?」

「はい、違います」

「まったくわけがわかんないよ」と、彼女は言った。

「まだ一次に通っただけで、来月二次試験があります。それに通って初めて合格です。その結果が出たら、またご連絡します。お店のお忙しい時間に失礼しました」

 そう彼女に言って私は、電話を切ろうとした。

「ちょっと、ちょっと待ちなよ。そんなすぐ電話を切ろうとするなよ。もう、他人じゃないんだから」と、真理ちゃんのお母さんは言った。

 他人じゃない?私は彼女の意外な発言に驚いた。

「私はね、高校の頃から働いてた。卒業してスーパーに就職しても、せっせと金を貯めてた。いつか自分の店を持つんだって、はっきりした目標があったからね」

 真理ちゃんのお母さんは、自分の身の上話を始めた。そんなことを私に話して、なんになるんだろう。私は、よくわからなかった。

「28の時に、自分の店を持った。借金もたくさんしたけどね。もう誰にも、命令されずに済むんだ。いい気分だったよ」

「はい・・・」と私は、曖昧な返事をした。

「そんな時に、真理ができちまった。相手は妻子持ちだ。失敗したよ」

「ちょっと待ってください。真理さんのお父さんは、他に家庭のある方なんですか?」

「そうだよ」と、なんでもないことのように真理ちゃんのお母さんは答えた。

「その方は、今お元気なんですか?」

「元気も何も、今でもしょっちゅううちの店に来るよ」

「真理ちゃんは、そのことを知ってるんですか?」

「知らないよ。話してないからね。ただ、真理が自分の子供だと認知はしてもらった。でもそいつの家族は知らないよ」

「それって、その人の家族が戸籍謄本を見たらわかることじゃないんですか?」

「そいつも頭を使ってね、真理を認知した後にすぐ本籍地を変えたんだよ。そうするとね、新しい本籍地の戸籍には真理の名は載らない。前の本籍地の戸籍にしか載ってないんだ。だから、真理の存在を気づくには前の本籍地の謄本を取り寄せる必要があるんだ」

 私も認知された子供なので、その事情はよくわかる。私が認知された記載は、父の最終本籍地の神奈川ではなく、父の生まれ故郷の謄本の記載から見つかった。人の婚姻関係を調べるためには、本籍を置いたすべての役所の戸籍謄本を取り寄せる必要がある。

「なんでこんな話をするかというとね。もう真理の父親は長くないんだよ。末期の癌なんだ。あと、二、三ヶ月ってところかな。だから、そいつが死んだ後の相続手続きのために、あんたに話しておこうと思って」

 なんてことだ。私は驚きで、身体が左右に揺れた。

「さっき、その方は元気だとおっしゃいませんでしたか?」

「元気にうちに来てるよ。でも日に日に痩せていってるし、酒もほとんど飲めないよ」と、真理ちゃんのお母さんは感情の起伏を見せずに言った。

「その方と、真理さんが会うことはできますか?」

 もう残された時間は少ない。あまりにも、少ない。私の頭から、二次試験のことなど吹っ飛んだ。

「会えるよ。明日店に来るよう電話しとくよ。あんたは何時に来れる?」

 私は一所懸命、時間を計算した。

「私は19時半、真理ちゃんも同じくらいに店に行けると思います」

「わかった。それより前に店に来るよう、真理の父親に連絡しとくよ」

 こうして私たちは、明日会う約束をして電話を切った。私の頭は、激しく混乱したままだった。この勉強に集中すべき時に、心に傷を負いかねないことをすべきだろうか?真理ちゃんが動揺して、勉強が手につかなくなったらどうしよう?

 しかし、時間が少ないんだ。真理ちゃんのお母さんはあと二、三カ月だと言ったが、容体が急変して亡くなる可能性だってある。ダメだ。やはり明日会わねばならない。私は決心した。


 家に戻ると、二人が順番にシャワーを浴びているところだった。時計は22時30分を指していた。

「長かったね。誰と話してたの?」と、もう寝巻きに着替えた涼ちゃんが聞いた。彼女は、22時のニュースを見ていた。

「日奈子ちゃんと、涼ちゃんのおじいさんと、真理ちゃんのお母さん」と私は説明した。そして、完全に冷え切った鳥の照り焼きを食べようかと思ったが、その前に冷蔵庫からビールを出して、ソファに座ってフタを開けた。すぐに涼ちゃんが、膝の上に乗った。

 真理ちゃんのお父さんは、私とそんな年は変わらないんじゃないかと思った。人生は儚いものだ。きっとご家族も、悲しみにくれていることだろう。そんな家族にとって、私たちは寝耳に水の存在だろう。歓迎されるわけがない。しかし、真理ちゃんとお父さんは、会わねばならない。それだけは間違いない。私はビールをちびちびと飲みながら考えた。

 ようやく真理ちゃんがお風呂から出た。長い髪を丹念に乾かすドライヤーの音がしばらく続いた後、やはり寝巻き姿で彼女はダイニング・ルームに戻って来た。

「拓ちゃん、日奈子ちゃんと、私のおじいちゃんと、真理ちゃんのお母さんと話してたんだって」と、涼ちゃんが代わりに説明してくれた。

「ええっとさ、いろいろ決まったことがあるから伝えるよ。まず一個目は、また目黒に行こう。涼ちゃんのおじいさんに一日予定を開けるよう頼んだから。30日までに行こう」

「あーい」と、二人は元気に答えた。異論はないようだった。

「ドリー、元気かな?」と、涼ちゃんが心配そうに言った。

「それから二つ目。これがちょっと重いんだけど・・・」と私は言って、いったん言葉を切った。

「何?」と涼ちゃんが言った。

「重いってどういうこと?」と真理ちゃんが聞いた。

「明日の夜、真理ちゃんのお母さんの店で、真理ちゃんのお父さんと会うことになった」

 涼ちゃんも真理ちゃんも、何も言わなかった。部屋の中を、張り詰めた空気が支配した。

「今さらだよ。そんなの・・・」と真理ちゃんが、やっとそれだけ言った。

「そうだよ。今まで何もしなかったやつに、わざわざ会う必要あんの?」

 涼ちゃんは少し怒っていた。まあ、当然だよな。

「二人の言う通りだと思う。でも、事情があるんだ。真理ちゃんのお父さんは末期ガンで、あと二、三カ月だそうだ。つまり彼が生きているうちに、真理ちゃんと会う必要がある」

 また部屋が静まり返った。そりゃそうだろう。私だって、未だショックから抜け出せてないんだから。

「わかった・・・。お父さんと会うよ」と真理ちゃんは沈黙を破るように言った。

「よし。学校から真理ちゃんの家に最寄り駅まで、一時間で行けるよね。お店は駅のそばなの?」

「ちょっと歩くけど、まあ駅の近くかな」と真理ちゃんは言った。

「じゃあ明日は、19時に駅集合。集まったら、みんなで真理ちゃんのお母さんの店に行こう」

「うん・・・」と、真理ちゃんは小さくうなずいた。

「もう、時間がないんだね」と涼ちゃんが言った。

「そうだね。こればっかりは、焦らなくちゃいけない」と私は言った。

 それから私は缶ビールを一本飲み干し、冷えた食事を大急ぎで食べた。シャワーを浴び、六畳間へ退散した。涼ちゃんと真理ちゃんはテレビを見ていた。でもそれが頭に入っているかは、怪しいところだった。

 やれやれ、一次試験合格の感激なんて吹き飛んだぞ。憶測ならいくらでもできる。だが、そんなことは無駄だ。何より真理ちゃんのお父さんに会い、彼の言葉を聞くことだ。そうしなければ、何も始まらない。私は大量の睡眠薬を、いっぺんに口に放り込んだ。そしてさっさと布団に入って眠ることにした。



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