第23話 AO入試

21時過ぎに家に帰ると、涼ちゃんと真理ちゃんが出迎えてくれた。彼女たちも、ついさっき帰ってきたそうだ。六畳間でスーツを脱いで部屋着に着替え、ダイニング・ルームに行った。すると二人は、同時に私に書類を差し出した。それは、進路相談のための家族面談の案内だった。

「こりゃ大変だ。すぐ涼ちゃんのおじいさんや、真理ちゃんのお母さんに連絡しなよ」と私は言った。すると二人は、何を言ってるんだとでも言いたそうに、怪訝な表情を見せた。

「これ、拓ちゃんが出るんだよ」と涼ちゃんは、力強く言った。当たり前だろうという彼女の固い意思が伝わってきた。

「いやあ、それはさすがにまずいんじゃないの・・・」

「おじいちゃんとおばあちゃんには、もう連絡したから。拓ちゃんに来てもらうって言っといた」と涼ちゃんは言った。

 あーあ。おじいさんとおばあさんは、涼ちゃんの主張を飲むしかないだろう。二人は、涼ちゃんに勝てない。

「私もママに電話した。拓ちゃんと行くって断ったよ」と真理ちゃんが言った。真理ちゃんのお母さんは、どうでもいいと言うだろうな。

 かくして私は、実質高校三年生の子持ちになったわけだ。幸い家族面談の日は、涼ちゃんも真理ちゃんも同じ日だった。一日会社を休めば済む。指定された日時は、十一月の半ばだった。普通の人ならば、最終的に受験する学校を絞り込む時期だろう。そんな重要な場所に、他人の私が行っていいのだろうか?

 しかし私は、校長先生以下の先生たちを脅迫して、涼ちゃんと真理ちゃんの退学と欠席を取り消しにした男だ。他人だとか、第三者だとかもう言えないだろう。私は覚悟を決めた。翌日会社に有休を申請し、その日に望んだ。


 二回目の茗荷谷に、私は訪れた。私はこの街がすっかり気に入った。新宿や池袋や渋谷みたいな混乱が、この街にはない。都心のど真ん中なのに、とても静かだ。住宅街を歩きながら、私も一度ここに住んでみたいなと思った。

 指定された14時の10分前に学校に着くと、受付の女の人に5階の教室に行くよう指示された。面談の案内状を見直すと、512号室と書いてある。私はスリッパを履き、その部屋を目指した。洋服は悩んだ末に、スーツを着ていた。

 この間は怒りに燃えていたから気にならなかったが、女子校に自分がいるとはなんとも奇妙な気分だった。廊下を進む私の横を、大勢の少女たちが通り過ぎた。彼女たちの何人かが、私を怪しむような目で見た。仕方ない。私は48歳の、不気味な中年男だ。本来、ここにいるべき人間ではない。

 512号室に着くと、涼ちゃんが笑顔で廊下に立っていた。彼女は私の姿を見ると、さらに顔を崩して笑った。私たちは二人で廊下に並べられた椅子に座った。家族用の待合席というわけだ。私たちはしばらく、前の面談が終わるのを待った。

 やがて一組の両親と少女が、部屋の外に出て来た。そのお父さんは青い顔をしていた。厳しい進路相談になったのだろう。

「斉藤さん、どうぞ」と呼ばれて、涼ちゃんと私は教室に入った。教室の中の教壇のそばに、若い男が立っていた。まだ三十前だろう。彼が涼ちゃんの担任なのだ。

「柿沢さん、こちらにおかけ下さい」と教壇のすぐそばの席を、彼は私に勧めた。明らかに彼は緊張していた。無理もない。あの日彼があの美術室にいたら、私は彼をボロクソに叱りつけていたはずだ。彼は、私がモンスター・ペアレントだとわかっているわけだ。

 私と涼ちゃんは、教壇から二列目の席に並んで座った。担任の先生は一列目の席に、私たちに向かい合って座った。

「斉藤さんの担任の、佐藤と申します。よろしくお願いいたします」と彼は言った。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」私は座ったままで、彼に深くお辞儀をした。もうこいつを、痛めつける必要はない。大人しく彼の話を聞こう。

「早速ですが」と彼は言って、A4サイズの用紙を差し出した。「斎藤さんが先週、本校で受けた模試の結果です」

 私はまず、左上に書かれた大きな数字を読んだ。「45」。これが涼ちゃんの現在の偏差値であるようだ。さらにその下に、現代文、40。英語、48。世界史、43。と並んでいた。まあ、こんなもんだろうなと私は思った。

「全国で5万人以上が受けた模試を、斎藤さんにも受けてもらいました。ですから、信頼できる結果です」と佐藤先生は言った。

「涼ちゃん、大学に行きたい?」と、私は涼ちゃんの方を向いて聞いた。

「うん。行きたい」と、涼ちゃんは私の目を見てしっかり答えた。

「よし、わかった。では四年制の大学に行く前提で話をしましょう」と私は、佐藤先生の方へ向かい直して言った。

「四年制の大学と申しましても、今の斎藤さんの成績ではかなり難しいです」と佐藤先生は言った。

「佐藤先生、あなたのおっしゃってるのは、いわゆる有名大学でしょ?」と私は彼に聞いた。

「ええ、それは・・・」と、佐藤先生は返答に困った様子を見せた。

「あのね、大学なんてどこでもいいんですよ。四年間学び、そこで友達や先生に出会うことにこそ本当の意義がある。今の成績だって、受かる大学はあるでしょ?45なんて、平均よりちょっと低いだけじゃないの。

 もちろん、試験日当日までに学力は上げますよ。今より何ポイントも向上させますよ。だからって、無理して有名大学を受ける必要はない。受験料の無駄だ」

 私はつい、強い口調に変わってしまった。いかん、いかん。佐藤先生に嫌われてもしょうがない。

「そ、そこで提案があるのですが・・・」と佐藤先生は言った。そして、わら半紙の小冊子を差し出した。そこには、この茗荷谷にある有名女子大の名前が書かれていた。そして、その冊子の題名は「平成30年度AO入試について」だった。

 AO入試とは「アドミッションズ・オフィス入試」の略で、一般入試ではなく実際に大学の授業を受けて小論文を書いたり、面接を何回も行って合否を決める入試制度だそうだ。私もネットでこの入試は調べたが、出願時期が五、六月と早いのでもう遅すぎると諦めていた。

「AO入試はわかりますけど、もう募集期間はとっくに終わってるでしょ?」と、私は佐藤先生に言った。

「いえ、二次募集が出てるんです」と佐藤先生は言った。「一次募集で、欠員が出たんです」

「でもAO入試は、高校時代の成績も評価対象になるんでしょ?涼ちゃん、いや斎藤さんの成績はボロボロでしょ?」

「調査書も、確かに選考の一つになります。ですが重視されるのは、レポートやグループ討論での思考力、判断力、表現力です」と佐藤先生は言った。「柿沢さんが作られたプレゼン資料を、斎藤さんから見せてもらいました。それを見て、思いついたんです。これなら、この大学にも受かるんじゃないかと」

「でも、AO入試は専願が大前提でしょ?他の大学を受けられないでしょ?」

「もちろん、合格したら必ず入学するのが前提です。でも不合格になった場合に備えて、他の大学にも願書を出しておくことは可能です」と佐藤先生は言った。

「先生」と私は、佐藤先生に静かに言った。「先生は、結局自分の成績上げたいだけじゃないの?一流大学の合格者数で、自分の評価が決まるからこんなレベルの高い大学勧めてるんじゃないの?」

「いえ、決してそんなことはありません。斎藤さんには、担任になったときから人より秀でた能力を感じていたんです。確かに成績は芳しくありませんが、なんというか「人の上に立つ器」を感じるんです」と佐藤先生は言った。

 そんなに涼ちゃんを評価しているのなら、お前は彼女が退学届を出して、学校に来なくなった時何かしたのかよ。何もしてねえじゃねえか。しかし、怒ってはいけない。我慢だ。

「涼ちゃん、この学校の試験受けたい?」と、私は涼ちゃんに聞いてみた。

「うーん、わかんない。大学になっても茗荷谷に来るのは、めんどっちーかな?」

「ほら、ここに『総合的な教養と高度な専門性を身につけた女性リーダーを育成』って書いてあるよ。そんな大人になりたい?」私はその小冊子をペラペラと眺めながら、涼ちゃんに聞いてみた。

「うーん、ますますわかんない」と涼ちゃんは答えた。

「先生、このAO入試の出願期限はいつ?」と私は佐藤先生に聞いた。

「11月末です。12月から1月までかけて、試験が行われます」

「まあ、この話は涼ちゃん次第だ。涼ちゃんが受けたいなら受ければいいし」

「うん、帰って考えてみる」と涼ちゃんは言った。

「佐藤先生、そういうことです。涼ちゃんの意思次第です。よく考えてみます」

 こうして、涼ちゃんの進路相談は終わった。本当はもっと、どことどこの大学を受けるとか、細かい話をしなきゃいけないんじゃなかったっけ?


 廊下を出ると、次の家族が面接を待っていた。教育熱心そうな両親が、可愛らしい少女を挟んで座っていた。とても、緊張した面持ちだった。いかん、私はこんなに真剣じゃないぞ。もっと真面目に考えなくては。

 涼ちゃんは私に手を振りながら、自分のクラスに戻っていった。

 さて、真理ちゃんの面接は16時だった。まだ、一時間半以上ある。それまで校内で待たねばならない。よく考えてみれば、同じ日に進路相談を二つも受けるなんてまずない経験だろう。双子をこの学校に入れない限り、あり得ない話だ。いやあ、大変な人生になったもんだ。

 私はさっきの家族が部屋に入った後、その空いた椅子に座って時間を潰すことにした。しかし、すぐに次の家族が現れた。私は、急いで席を彼らに譲った。参ったなあ、居場所がないぞ。校長室に行って、佐々木校長と世間話でもするか。いやいや、彼は私の顔も見たくないだろう。これもダメだ。

 私は廊下の床に腰を下ろし、ノートPCを引っ張り出した。電源を入れてヘッドフォンをつなぎ、作曲ソフトを起動させた。ギターがないのが残念だが、バーチャルキーボードが作曲ソフトにはついているので、それでメロディを作ることはできる。私は、自分の子供を殺したお母さんの曲の続きを作ることにした。

 自分の作った曲を、ノートPCで再生させて聴いた。気に入らないところが見つかったら、ちょこちょこと手直ししていく。いやあ、やはり音楽はいいなあ。無心になれる。私は身体を小さく揺すってリズムを取りながら、その曲の手直しに没頭した。

 ふと気がつくと、椅子に座って順番を待っている家族が「何だ、こいつは」という目で私を見ているのに気がついた。仕方ない。彼らから見れば、明らかにおかしな人間だ。でも、私だって行き場所がないのだ。校内をうろつく訳にもいかない。彼らには、我慢してもらうしかない。私は作曲に戻った。

 自分の子供を殺したお母さんの曲(「弁護士の眼」という、変な曲名をつけた)は、まだ何かが足りなかった。最後のリフレインに戻る前に、強烈なフックが欲しい。それは何だろう、と廊下の床に座って考えた。そして考えた挙句、ビーチボーイズの Good Vibrations から一部だけアイデアを借りることにした。大サビの4小節パターンを四回繰り返し、最後の1小節をAonBにする。そして、全ての楽器を鳴らさずに1小節「Ah〜」とボーカルで叫ぶ。ボーカルは、五声のコーラスだ。コードはAonBのまま。このコードをBから考えると、B7(sus4,9)という複雑で不安定なコードになる。そして曲のリフレインに戻る。コードは、E7(#9)。AonBからは、強進行になるのでスムーズな流れだ。

 これだよ、これ。私は歌うことはできないので、ほかに何も鳴らない1小節にピアノの和音だけ入れた。そしてその箇所を、何度も繰り返して聴いた。よし、問題ない。これで行こう。

 作曲に集中したら、あっという間に時間が過ぎた。気がつくと16時5分前だった。真理ちゃんの進路相談は、一つ下の階の410号室だった。私は急いで階段を降りた。

 真理ちゃんは廊下の待合席に座って、私を待っていた。

「ごめん、遅くなっちゃった」と私は真理ちゃんに謝った。

「まだ、あと5分あるよ」と、真理ちゃんはニコニコしながら言った。

 私は真理ちゃんの隣に腰掛け、出番を待った。前の生徒の進路指導が長引き、私たちは予定より十分くらい待たされた。

「真理ちゃん、他の子たちはどんな学校を目指してるの?」と、私は暇つぶしに真理ちゃんに聞いてみた。

「やっぱり、国立志望の子が多いかな。最初から私立、っていう子は少ないかも」

 なるほど、さすが名門校だ。レベルが高い。そういや、この進路相談には夫婦で来ている人ばかりだ。よほど教育熱心なのだろう。でも子供にしてみれば、余計なお世話な気がする。勉強はしたいとき、知りたくてしょうがない時にすればいいのだ。その方が、圧倒的に効率的だ。スポンジが水を吸うように、知識がすっと頭に入る。逆にまったくやる気がないときに教えても、全然頭に入らない。ぐちゃぐちゃに水分を含んだ、スポンジみたいなもんだ。

 やっと前の家族が出て来た。お母さんが厳しい表情で、娘を叱っていた。その女の子は、今にも泣き出しそうだった。そんな怒らないでくれよ。たかだか大学じゃん。社会に出れば、実力の勝負だ。勉強よりも、生活の知恵を持ってるやつのほうが勝つくらいだ。そんなことを考えながら、私と真理ちゃんは教室に入った。

 中には、大月先生が立って私たちを出迎えてくれた。彼女は私を見て、恐怖のどん底に落とされたような顔をした。

「柿沢さん、このたびは本当にありがとうございました。私たちが、全て間違っておりました。心を入れ替えて、一からやり直します。本当に、申し訳ありませんでした・・・」

 大月先生は、キツツキのおもちゃみたいに何度も腰を折って、私に頭を下げ続けた。

「大月先生。終わったことは、もう忘れましょうよ。今日は、平松さんの進路相談でしょう。その話に集中しましょう」

 私にそう言われて、大月先生は急いで自分の席に座った。私と真理ちゃんも、先生の向かいに座った。大月先生は、涼ちゃんの時と同じように模試の成績表を見せてくれた。

 総合偏差値、40。現代文、45。世界史、42。英語、35。

「真理ちゃん、この英語 35 って何?これ取る方が難しい点だよ」と私は真理ちゃんの方を向いて言った。真理ちゃんは、バツが悪そうに笑った。

「英語全然ダメなの・・・」

「言ってよ。俺が全部教えてあげるよ」と私は、できる限り優しく真理ちゃんに言った。

 しかし、予想をはるかに下回る成績である。ここまでくると、合格できる学校がこの世に存在するのか不安になる。

「現在の成績ですと・・・、進学は・・・、かなり困難かと・・・」と大月先生は、戸惑いながらすまなそうに言った。下手なことを言うと、私がまた怒り出すかもしれないと恐れているようだ。

「大月先生。そんな遠慮しないで、お考えをどんどんおっしゃって下さい」と私は言った。

「平松さんは、ずっと進学を希望されてなかったんです。ですから本来は、今日の進路相談も就職を検討する予定だったんです。でも、平松さんからついこの間、『進学したい』という申し出があったんです」と、大月先生は説明した。

「真理ちゃんは、ずっと就職希望だったの?」と、私は真理ちゃんの方へ身体を向けて聞いた。

「うん」と真理ちゃんはうなずいた。「ママから、大学に行く金は出さないってずっと言われてたの。だから、中学の時から大学進学は諦めてた」

 そうか。真理ちゃんのお母さんなら言いそうな話だ。18才になったら、一人で生きていけってことだ。彼女の人生哲学みたいなものを感じた。

「でもね。拓ちゃんの授業を聞いて考えが変わった。特に親鸞。あの話を聞いて、すごく勉強したくなった」と真理ちゃんは言った。

「親鸞ですか。すごいですね・・・」と、大月先生は驚いた様子で言った。「柿沢さんは、お家でそんなことを教えていらっしゃるんですか?」

「いえいえ、大した話はしてませんよ。親鸞も、ちょっと触れただけです」と私は言い訳をした。そして、話を元に戻した。

「とにかく、今の平松さんの学力じゃ、進学はとても難しいということですよね?」

「はい、そうです」とだけ、大月先生は答えた。

 私は時間を計算した。試験日は、二月。今は、十一月半ば。あと三ヶ月だ。三ヶ月あれば、英語の成績をぐっと上げることは可能だろう。要は、勉強の仕方なのだ。非効率な勉強をしてたら、どれだけ時間をかけても成績は上がらない。どんな知識にも、ツボがある。外国語習得の場合、それは文法だ。それを集中して叩き込む。単語や慣用句は、二の次だ。よし、今夜からそれを始めよう。

「大丈夫です。試験日までには、まずまずの英語力を身につけます。偏差値50ぐらいになった前提で、進学先を選びましょう」と私は言った。そして、もう一度真理ちゃんの方へ身体を向けた。

「真理ちゃんは、どんな学校に行きたいの?」と私は聞いた。

「四年制の、文学部に行きたい。それから、できれば女子大」と真理ちゃんは言った。

「OK。四年制の女子大を目指そう」と私は答えた。そして、「そういや、涼ちゃんの進路相談でこんなのもらったよ」と言って、この茗荷谷にある女子大のAO受験の資料を見せた。

 真理ちゃんの目が、キラリと光った。とても鋭く、妖しく、野心的な目だった。真理ちゃんは、私が手にした資料をじっと睨んだ。私がそれを真理ちゃんに手渡すと、食い入るような目で資料を読み始めた。

 大月先生は、狼狽した様子を見せた。「いや・・・、ちょっとそれは・・・」

「涼ちゃんは、これ見てもあんまり乗り気じゃなかったよ」と、私は大月先生を無視して真理ちゃんに話しかけた。

「いい。これいい」と真理ちゃんは言った。目は血走り、口を少し開けていた。目の前を獲物が通り過ぎたら、食いつきそうな表情だった。

「いや・・・、それはちょっと・・・」と大月先生は、私たちに水を差し続けた。

「大月先生。いいんですよ、これで。真理ちゃんが受けたいと言うんだ。受ければいいじゃないですか。成功か、失敗か。そんなことは、後の話だ。どうでもいいんですよ。やる気になった時に、全エネルギーを注げばいい。力を振り絞って勉強したら、それは人生でずっと残るんだ。それでいいんですよ」

「そ、そうですか?」大月先生はまだ、半信半疑な様子を見せた。

「ダメなら、他の女子大を二月に一般入試で受験すればいいでしょ?」

「まあ・・・、それは、そうですね・・・」

 真理ちゃんは、私と大月先生の会話など無視してその女子大の募集要項を読んでいた。格好いい、と声をかけたくなるほどの気合いと熱意が伝わってきた。

「大月先生、英語は一ヶ月で50まで上げます。現代文と世界史は、すでに手を打ってある。来月には、これも効果を出しますよ」と私は言った。

「いったい、どんなことを教えてらっしゃるんですか?」と大月先生は私に聞いた。

「佐藤先生が、私の作ったプレゼン資料を持ってるそうですよ。斎藤さんが、渡したそうです。それを見ていただければ、と思います」と私は言った。言い終えた後で、考え直した。「でもプレゼン資料だけじゃ、わかんないと思います。スライドのキーワードを足がかりにして、いろんな話をしてるので。文字にされてない、しゃべりが重要なんです」

「そう!拓ちゃんの授業、超難しいよ。先生も、一度受けてみたら?」と真理ちゃんが言った。

「け、検討します」と、大月先生は苦笑いしながら答えた。

 

 それから私たちは、偏差値50くらいの女子大をいくつか候補に上げた。真理ちゃんは、茗荷谷より西の女子大を全て却下した。「だって、西千葉から通えないじゃん」と真理ちゃんは言った。大学も、私の家から通うつもりらしい。まあいいか。

「入学金や授業料は、どうされるんですか?」

 来た、と私は思った。

「そんなもん、私が払うに決まってるでしょう。医学部に進むわけじゃないんだ。大した額じゃない」と私は言った。

「平松さんのお母さんは、どうされるのでしょう?」と大月先生は言った。

「ママは出してくれないと思う」と真理ちゃんは言った。「拓ちゃん。就職したら、働いてちゃんと返すよ」と、うるうるした目で真理ちゃんは私に言った。あまりに可愛らしくて、抱きしめたくなるのを私は必死にこらえた。

「焦って返そうとするなよ。ゆっくり、ちょっとずつだけ返せばいいから。お金はまず、自分のために使うんだよ」と私は答えた。

 大月先生は、そんな私と真理ちゃんのやり取りを唖然とした表情で見ていた。だが、私と真理ちゃんは親友だった。親友のために尽くすのは、当然のことだ。

 帰り際、大月先生が言った。「私も、柿沢さんの授業に参加させてくれませんか?」

「毎週、土日の午前と午後やってますから、いつでもいいですよ」と私は答えた。「ただし、厳しいですよ。最後のレポートがダメだったら、ボロクソに怒りますよ」

「そうなの。文章一個ずつ、直されるからね」と真理ちゃんが言った。

「すごく、怖くなってきました」と、大月先生は答えた。でも今日一番の笑顔を、彼女は私たちに見せた。

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