ジョギング

@Ottan

第1話

裕子は多摩川の堤防をジョギングしながら最近の出来事を思い出す。

一番の心配事は父親のこと―

土曜日の午前中、自宅近くの多摩川を走ることが習慣になっていた。

始めたきっかけは―

多摩川の堤防には走りやすいサイクリングロードがある。

裕子の家は多摩川から石段を50mほど登った丘の途中にある。石段の両脇には木が生い茂り太陽の光を遮っているが、石段を降りた辺りから先は急に木が無くなり多摩川が綺麗に見渡せた。裕子はこの少し暗い石段から明るい場所に出るこの瞬間が好きだった。

そこから堤防に登ると左右にアスファルトで舗装されたサイクリングロードが続いている。

最初はこの堤防のサイクリングロードを散歩のように歩くと気分が良かった。

だけど冬に歩いていると寒く、そこで少し走ってみたら意外に気持ち良かった。

―それから走るようになった。

今、そこに吹く風は冷たく感じる季節になっている。

走っているときは何も考えないことが普通だった。だが、ここのところは違った。繋がった思考ではなく、自分が見た光景が所どころ走りながら頭に浮かんでは消える。光景だけではなく誰かが喋った言葉が思い出されることもある。

「なんだか幽霊みたいね―」それは裕子の母親が言った言葉。

裕子と母親が病院に父親を見舞に行ったときに、病院の廊下を歩く父親を見て言った言葉だ。

裕子の父親は2か月前、狭心症の疑いがあるということで検査入院をすることになった。検査の結果はやはり心臓の冠動脈の2箇所に血管狭窄が見つかり、そのまま入院してしまったのだ。


裕子と母親が乗った病院のエレベーターが6階に止まり、扉が開くとエレベーター前には見舞いに来た人と患者が面会する為のホールが有る。

二人がエレベーターを降りると偶然にもそのホールから病室へ向かう廊下を歩く父親の後姿があった。

「おとうさん!」

「なんだか幽霊みたいだね」訝しげに母親が言う。

猫背で両手を前に垂らして老人特有な小刻みな歩幅で足を進める姿をみて、思わず母親が言った言葉だった。

父親はこんな歩き方をしていただろうか?と裕子は自分に聞いた。

こんなふうでは無かったよ―

裕子と母親は後ろから早足で近づき父親の隣に並んだ。

「おとうさん、今日の具合はどうですか?」母親が声を掛けた。

父親は横目で二人を確認すると笑顔も無しに答えた。

「だいじょうぶ」聞き取り難い、か細い返事が返ってきた。

「どこに行ってきたの?」裕子が聞いた。

「エレベーターまえ」また、か細い返事が返ってきた。

「えらい、えらい、運動してたのね」裕子は笑顔になった。

「でも、おとうさん、歩くときはこうして手を横にして振って歩くの」裕子は少しオーバーに手を振ってその身振りをやって見せる。


父親は血管狭窄を直すカテーテル手術の後、3週間程の入院生活によってすっかり足腰が弱ってしまっていた。

担当の医者はもとより裕子や母親もなるべく歩くことや体を動かすことを勧めていた。

入院から2週間は点滴を続けていた為、ベッドから離れられない状態であったが、手術も無事に終わり、数日後に点滴が外され院内を自由に動ける身になっても父親は殆んどの時間をベッドの中で過ごすようになっていた。

そして原因不明の頭痛や体の不調を毎日のように訴えた。

そのために入院が長引いていた。本来であればカテーテル手術の後3~4日で退院出来るはずだったのだが、連日のように訴える不調の原因を調べる為に検査が繰り返された。

担当医によると検査の結果、異常は見つからず悪い病気は無いとのことだった。

身体の問題では無く、鬱によるものではないかということで、内科だけではなく精神科の医者も付けて治療を続けますと説明された。

父親は入院をきっかけに老人性の鬱になってしまったのだ。

いや―正確には入院する前からその兆候は有ったように思えてきた。

「今日は何回歩いたの?」裕子は聞いた。

「さんかい」

「3回?そうなんだ」もうちょっと増やしたほうがいいのに、と裕子は思ったが、無理に勧めても駄目なことは分かっている。実際のところ、言った通りにはやらないのだ。鬱の患者に頑張れというのは逆効果だと本にも書いてあった。

「えらい、えらい」と裕子は付け加えた。

病室に戻ると父親はすぐさまベッドに入ってしまった。

「今日の具合は良いみたいね、お父さん、頭痛くないの?」

「きょうはいたくない」

「そう、良かったね」

こちらから話掛けないかぎり話すことは極端に減っていた。ベッドの中に居てばかりで喋ることも少ないために父親の声は小さく、か細い声になってしまった。

そんなことを裕子が考えていると、ベッドに入ったばかりなのに父親は急に起き上がろうとする。

「どうしたの?」

ベッド下のスリッパに足を乗せてベッドから起き上がろうとするが力が弱っているために何度か試みてようやく起き上がる。

「お父さん、何処に行くの?」母親が聞いた。

「トイレ」と言って、小刻みな足取りで廊下に向かう父親。

何かとちぐはぐな行動が目立つようになってきた。僅かに首を傾ける仕草をする裕子。

そして急ぎ足で父親のあとを追いかけた。


ここ2カ月はこうして走りながら見舞いに行ったときの父親の様子を考えることが多い。

ここ2カ月―

裕子が走るサイクリングロードの5m程先の左手にあった植え込みの一株に隠れていた雀の群れが飛び立った。そして道の反対側の植え込みの一株にまた隠れた。

入院する前日に父親と交わした会話を思い出す。

「なあ、このパソコン調子悪いんだよ、画面が半分映らなくなったんだ」

「画面が?」

裕子は父親のノートパソコンの電源を入れた。

「この間、教室で先生にも見てもらったんだけどな、修理しないと駄目かもしれませんよって言われた」

裕子の父親は2年程前からパソコン教室に通っていた。隠居生活で何もしないとボケるからと裕子が進めたからだった。だがワープロから先になかなか進まず、パソコンとはいえ家で教室から持ち帰ったワープロテキストを復習しているだけだった。

「パソコンだけじゃなくて何か他のことも始めればいいのに」

裕子は口癖のように父親に言っていた。

「じゃあ一緒にジョギングするか?」と父親が言った。

「無理だよ、その歳で」

数分が経ち、パソコンの画面が立ち上がった。

「大丈夫じゃない」

「あらら」父親は画面を覗き込んだ。

裕子がノートパソコンの液晶画面を何度か倒すと、一瞬画面がチラついた。

「あっ、接触不良かな、今ちょっとおかしかったね。やっぱり修理に出したほうがいいよ」

「そうか、じゃあ明日病院に行く時についでに修理に持っていくか」

「病院?」

「うん、明日な、検査しに行くから」

「ふーん」裕子の父親は普段から医者に行くのが習慣のようになっていたからその時はそれほど大事だとは思わず、それ以上は聞かなかった。

次の日の夜、裕子が仕事から帰ると母親が言った。

「お父さん入院しちゃったよ!」

「えっ、なんで?」

「狭心症だって。とりあえず検査入院だけどね」とそのまま入院してしまった。


(狭心症だけならもう治っているのになあ・・・)

裕子の足音で雀がまた飛び立った。走りながら雀の群れが飛び立つ先を見つめる裕子。

考え事をしていると自然と走るペースが速くなっていた。

走るペースを落としてみる。

雀はまた道の反対側の植え込みの一株に隠れた。

雀の群れと追い駆けっこをするように走る裕子。


裕子が病院に行く度に父親の様子は変わっていった。調子が良いと思えば次には悪くなる。

それを目の当たりにするうちに、見舞いに行く前に今日の様子を想像しなくなった。

父親の様子は入院が長引くほど不安定になるように見えてきた。こうなって初めて、歳をとってからの入院はこんなにも人を消耗させるのだと知った。

ベッドから起き上がるにも二度三度と反動を付けて、やっと起き上がる。でも裕子はなるべく手を貸さなかった。退院したらまた前のように自分で出来るようになるんだから、これはリハビリだから。父親が苦労して起き上がる姿を裕子は眼の前で見守った。

「お父さん喋らなくなったね」帰りのエレベーターで裕子は母親に話掛けた。

「昨日なんか私が来ても一言も言わず寝てたわよ、まったくねえ」母親は溜息を洩らす。

「そうなんだ・・・」裕子はガラス張りのエレベーターから見える夜景を眺めた。

「ここからの景色は最高なのにね」ガラスに僅かな笑顔が映る。


目の前に水門が見えてきた。この場所でいつも裕子はUターンをして道を引き返す。少し広くなっている道を利用して向きを変えた。風景が変わった。また道の左側を走り始める。

向こうから栗色の子犬を連れて散歩する人が近付いてくる。時々この場所で見かける人だ。

この子犬を連れた愛想のいい小母さんはすれ違うときにいつも笑顔で会釈してくれるので、裕子もすれ違いざまに笑顔で会釈する。そして子犬にも笑顔で小さく手を振った。


仕事帰りに病院に様子を見に行ったときのこと。

6階のエレベーターを降りてナースステーションの前で手を消毒する。面会者の記帳をする受付のカウンターには一人先に記帳をしている人がいた為、少し離れて後ろで記帳を待つことにする。

ふと、父親の病室の方に目をやると、廊下の壁にもたれかかり両足を投げ出すようにして座り込んでいる人がいる。

(何?あの人、あっ・・・嘘)早足で近づく。

「嫌だ、おとうさん、何やってるの!」

座り込んでいた老人は裕子の父親だった。前回来た時に看護師が言っていたこと―

「おとうさまは、薬が欲しくて何度もナースセンターに来るんですよ。でも決まった時間以外ではあげられないですから、待ってくださいねって言うんですけど、そのまま廊下に座り込んでしまうんです」

「えー、そんなことをするんですか?!」

「あまりに何度も来るので偽薬を使うときもあります」

「偽薬ですか・・・」

今日はその場面に直面してしまった。看護師の言うことだから言っていることに疑うつもりもなかったが、自分の目で見てしまうと本当のことだったのだと改めて思った。

入院する前から傾向はあったのだが、薬に対する依存心がこうまでも強くなってしまったのかと考えつつも、目の前で起きている状況に不思議と裕子は慌てずに対処していた。

「どうしたの?おとうさん」

「く・す・り」

「もうすぐご飯の時間だから、薬はそのあと飲むの、立って部屋に戻ろうよ」裕子は父親を起き上がらせて手を取って病室に導いた。

その日、自宅に帰ると母親に報告した。今日、本当に廊下に座り込んでいたことを―

そしてしばらく父親の様子について話し合った。

「でもね、ボケている訳じゃないのよね」母親が言った。

「今日は何曜日かも分かっているし、あれでも気分がいいときは結構普通に話せるのよ」

裕子もそう思う。暫くすれば必ず治るんだから―


裕子は走るペースを落とし、歩き始めた。ふと、後ろを振り返った。

先ほどすれ違った犬を連れた小母さんの後ろ姿が遠くに見えた。子犬を抱えてあやしているように見える。

(うちも子犬を飼おうかしら、お父さんも癒されるかもしれないし)

小母さんは子犬を下ろしてまた散歩を始めた。

裕子は向き直り、また走り始めた。


「いろいろ検査をしましたが特に悪いところはありません。脳の委縮についても年相応かむしろそれより少ないくらいです。頭痛や不調の原因はまだはっきりと分かりません。」

それは裕子と母親が担当医から治療の状況を説明したいと連絡があり病院に出向いたときのこと。

「やっぱり鬱なんでしょうか?」裕子が聞いた。

「そうだと思います。歳を取って入院されると入院のストレスなどで鬱の症状が出る方は割と多いんです。現在、治療の目的だった狭心症は治ったのですが、その治療によって全体的な力を落とされているのだと思います。元に戻るにはまだ少し時間が掛かると思います」

「先生、最近は何時行っても辛そうな顔ばかりしています。私も入院中のストレスが有るんじゃないかと思うんです。どうでしょうか、一度退院してみることは出来ますか?」と裕子が聞く。

「そうですね、今週出来るだけリハビリをして、来週に一度退院してみますか?退院してご自宅で様子を見るのもいいと思います。精神科の先生とも相談してそういう予定で進めましょう」


そして今、裕子の父親が退院してから二週間が経っていた。

自宅に戻った数日は少し落ち着いたようにも見えた父親だったが、それ以降は結局、入院中と同じように一日おきに頭が痛いなどと言う日々が続いている。休日の夜などにも急に不調を訴えると、裕子が車で救急の外来に連れて行くこともしばしば有った。

週に一度の外来の診察に連れて行っては、今週の容体を説明すると「では薬の種類を変えてみましょう」と言う医師の言葉に、裕子は翌週からの期待を持つことを二週に渡り繰り返した。

―昨日の夜。

昨日の夜は、就寝前の薬を飲んだ後に居間の椅子でまどろんでいる父親に、ベッドで寝たら、と声を掛けると無言で寝室に入って行ったのだが、裕子が少し目を離した隙に父親はベッドの脇でドスンという音と共に転んでしまった。慌てて駆け寄り、朦朧として一人では起き上がれない父親を抱えてベッドに寝かせ付けた。

以外に重かったのが少し安心したけど―

寝付ける時にベッドで父親が溢した言葉が頭に浮かんだ―「退院してもちっともよくならない・・・」


足元にカサカサと音がした。銀杏の葉が地面に落ちている。もう裕子の家が近い、あの石段の両脇に生い茂る木は銀杏の木だった。銀杏の葉が黄色く色づく季節になっていた。

裕子が走る先を見ると石段を覆う黄色くなった木々が見えてきた。

銀杏の葉を踏みつける音を聞きながら裕子は走る。

―ブーン、ブーン―

腰に付けた携帯ホルダーからバイブレーターの振動が伝わって来た。走りながら携帯電話を左手に持ち、耳に近付ける。

母親からの電話だった。

「お父さん居なくなっちゃたのよ!裕子、帰ってきて一緒に探してよ!」

「えっ、本当?!」

先週の金曜日に裕子と母親が留守の間に、父親が一人で病院に行ってしまった出来事が思い出された。あとで病院から電話が有り、裕子が迎えに行ったのだ。


―あれっ?

走りながら携帯電話を持つ裕子の進む先に一つの後姿が見えた。

走るスピードを緩めてその後姿に目を凝らす。

(あっ、あれっ?幽霊?! ちょっと!)

携帯電話を右手に持ち替えて、裕子はまたスピードを上げる。銀杏の葉を踏みつける音が激しさを増す。

その後姿が近付くとスピードを落とし、ゆっくりと近づいて横に並ぶ、横顔を見ながら前に回った。

「ちょっと、おとうさん!何しているの?!」息を切らせながら裕子は言った。

父親は目の前にいる人物が裕子だとわかったのか笑顔になった。

「じょ・ぎん」

「えっ、何?」

「じょ・ぎん」父親は同じ言葉を繰り返す。

「何?・・・あージョギングね」裕子も少し笑顔になる。

「おとうさん、ジョギングしに来たの?」

父親はそれ以上答えない。

(でも、まさかこれって徘徊?・・・徘徊かしら?・・・)

裕子は父親の横に並んでゆっくりと歩き始める。父親は何も話さずそのまま歩いている。

裕子は歩きながら父親の横顔を見ている。

(笑顔を見たのは久しぶりだな・・・だけど、おとうさん・・・ )

時々抱いていた懸念がまた頭の中で急速に廻り始めた。俯いて歩くと足元に黄色い銀杏の葉が絨毯のように沢山散らばっているのが目に入った。そして石段を覆う黄色の木々が目の前に有る。裕子はその鮮やかな黄色に目を奪われた。そして、ふと、隣にいた筈の父親の姿が無いことに気が付いた。その視線の先を追うように後ろを振り返ると、裕子の父親は地面に足を投げ出すように座り込んでいた。

「ちょっと、お父さんどうしたの?!具合が悪いの?」

「じゅう・たん、黄色のじゅう・たん」

「大丈夫なの?」

「だいじょうぶ、おまえも座れ」

「ちょっと、こんな所に座ったら駄目、自転車来るから・・・」裕子は言い掛けた言葉を止めて、サイクリングロードの前後を見渡すと父親の隣に同じように足を投げ出して座った。 

「黄色の絨毯ね・・・」

腕を後ろに着けて身体を支え、父親の横顔を見る。

―まあいいか、もうあれこれ考えないことにしよう。おとうさん、私、もう何が有っても驚かないよ。ただ横に並んで、いつも見ているよ―


銀杏の葉に触れるとカサッと音がした。

「あっ、いけない、電話!」

携帯を耳に当ててみたがツーという音がするだけで切れていた。

リダイヤルをして慌てて電話を掛け直す。

電話口に母親が出た。

「あっ、お母さん!私よ、ごめんね電話切っちゃって。幽霊・・・じゃあなくってお父さん見つけたから安心して、今、多摩川の堤防に居るの、もう少ししたら帰るから。えっ?、無事よ、大丈夫、大丈夫よ・・・」

裕子は足元の銀杏の葉で出来た絨毯をシューズの先で優しく掃った。



「おい、ちょっと、これ見てくれるか」

リビングから聞こえてきた声で裕子が振り向いた。

「なあ、このパソコン調子悪いんだよ、画面が半分映らなくなったんだ」

「画面が?」

裕子は父親のノートパソコンの電源を入れた。

数分が経ち、パソコンの画面が立ちあがった。

「大丈夫じゃない」

「あらら、おかしいな」

裕子がノートパソコンの液晶画面を何度か倒すと一瞬画面がチラついた。

「あっ、接触不良かな、今ちょっとおかしかったね。やっぱり修理に出したほうがいいよ」

「そうか、じゃあ明日病院に行く時についでに修理に持っていくか」

「病院?」

「うん、明日な、検査しに行くから」

「ふーん」


幸夫はその日、市大病院行きのバスに乗っていた。

膝の上には病院の後、修理に出すつもりのノートパソコンを抱えている。バスは病院手前の坂を登りきる為、エンジンの音を大きくこもらせた。

週明けの月曜日の為か、待合室には人が溢れていた。幸夫は受付を済ませて椅子に座り診察を待った。受付から一時間半が過ぎていた。

(パソコンの修理は明日また行くかな)

「高井さん5番診察室にお入りください」とアナウンスが流れた。

(やっと来たか・・・)

幸夫はノートパソコンが入ったバッグを抱えて診察室に向かった。

診察室に入ると、細面でメガネをかけた四十代前後であろう医師が幸夫を迎えた。

「こんにちは高井さん、大分お待たせしましたね。飯田先生からのご紹介でしたね。狭心症の疑いがあるということで・・・

それで、午前中に取った心電図で、やはりしっかり検査する必要があると思います。この心電図の此処にあるようにその疑いがありますから検査入院が必要ですよ」医師は心電図のグラフを見せながら幸夫に言った。

「検査入院ですか?」

「ええ、ご家族に連絡を取ってすぐに入院の準備をしてください」


幸夫は九年前に仕事をリタイアした。

三十年間続けた個人タクシーを辞めた後は自宅でゆっくりとすごしていた。それまでも殆んど趣味を持っていなかった幸夫は仕事に行かずゆっくりと過ごす毎日もあまり苦にはならなかった。それでも娘の裕子には仕事があるだけ幸せだというのが口癖になっていた。

やはり、張り合いが少ない毎日を続ることは心の底に塵が静かに積っていく。病院のベットで点滴を受けながら少し揺らぐ意識でそんなことを考えていた。

「おとうさん、大丈夫ですか?」

妻の明江の声がした。

目を開けるとベットの前に明江が心配そうに自分の顔を覗いていた。

「急でびっくりしましたよ。着替えは一通り持ってきましたから」

「ああ、悪かった」

「とにかくちゃんと調べてもらいましょうね」

「ああ、そうだな」


それから二週間が過ぎた。検査の結果、心臓の冠動脈の2箇所に血管狭窄が見つかり、カテーテル手術を受けた。本来なら手術後3~4日で退院出来る見通しだったが、連日のように不調を訴える為、検査が繰り返された。検査の結果は異常は見つからないが、その後も頭痛や身体の不調を訴えた。

幸夫は長く長く感じる時間を我慢していた。ベットに横たわり理由のない頭痛に耐える。眠れない夜が来ると不安で、ナースセンターに薬を要求しに行く。医師の処方以外では薬が貰えないと宥められるが、ベッドに戻るのが嫌で廊下に座り込んでしまう。

(なぜこんな身体になったのだろうか)

毎日のように明江と裕子は面会に来てくれるが、それにも応える気力が出てこない自分の情けなさを責めた。

それでも昼間の僅かな不調を感じないときはリハビリの為、病院の廊下を歩いてみた。

身体が以前とは違うものに感じる程に言うことを聞かなかった。

「お父さん、そんな歩き方じゃ幽霊みたいよ」後ろから裕子に声を

掛けられる。(これでは本当にそうだな)と思いながらも返事が出来なかった。

なんでこんな身体になったのだろうか・・・

自分の何がいけなかったのだろうか・・・

酒も煙草もやらずに健康には気を遣ってきた自分が・・・

一体どこがいけなかったのだろうか・・・

幸夫は二十八で明江と結婚して三十五になるまでは実家の長野で父親の経営する印刷会社を手伝っていた。明江は幸夫の得意先の会社で事務をしていて知り合った。とはいえ実質的には見合いをして結婚に至ったのだった。

三十五で上京して東京のタクシー会社に勤める。実家を手伝っていたかったが兄弟が多く(幸夫は六人兄弟の末っ子だった)印刷会社の生計も立たなかった為、幸夫が三十のとき生まれた裕子を連れて明江と上京した。タクシー会社は夜勤も多く、裕子が朝、学校に行く少し前に幸夫が必ず土産を持って帰宅することが多かった。

土産は駅前で買う横浜のシウマイだった。

裕子は今でも朝食に食べるシウマイのことを覚えている。

今でも時々、駅でそのシウマイを見かけると子供の頃の朝食を思い出し懐かしく思う。

タクシー会社で十二年実直に勤めた幸夫は独立して個人タクシーを始めた。

個人タクシーを始めた数年後、現在の多摩川沿いの家に引っ越した。

裕子は大学に入ると建築科を専攻し、卒業すると建築設計会社に勤めた。数年後、建築士の資格を取るが三十でした結婚を機に退社した。

幸夫がほっとしたのもつかの間で三十四で離婚してしまった。

離婚後は建築の仕事に再び就き、ひとり暮らしを続けていたが、明江の誘いで四十になり再び両親と同居することになった。

幸夫は裕子が一人でいることを憂いでいて、いつまでも同居することに抵抗があったが、今の自分がこの状態ではさらに裕子を家に縛ることになると思うとさらに憂鬱となるのだった。

いったい何故こんな身体になったのだろう・・・

ベットの中で幸夫は自問することを繰り返していた。


その後も続く長い毎日に意識が朦朧とすることが多くなった。

自分の居る場所がどこであるかが、分からなくなるときも出てきた。容体が改善しない幸夫の様子を見ていた明江と裕子は医師に相談をして、一度退院して自宅で様子を見たいと提案すると、検査結果にも異常が見つからないことから、その提案には医師もすんなり賛成をした。

退院の日、見送る看護師たちに入院中は殆んど見せなかった笑顔を返し、家に戻った幸夫は、数日間落ち着いた様子を見せた。

だがその後はまた、入院中と同じように一日おきに頭が痛いなどと訴える日々が続いていた。

休日の夜などに不調を訴えると、裕子が車で病院の救急外来へ連れて行くこともしばしば有った。

殆んど毎日のように夜になると眠れないと薬を要求しては明江と裕子を困らせる。

週に一度の外来で診察を受けると改善しない容体に医師は「では薬の種類を変えてみましょう」と言われた。それでも幸夫はそれでまた期待を持つことが出来た。

そんな日々が続く間に季節も過ぎて行き冬が近くなってきた朝、窓の外を見ると堤防の手前の銀杏の木はすっかり黄色になっていた。

その黄色を幸夫は眺めた。

窓を開けると冷たい風が入ってきた。いつもは朦朧としていた幸夫の意識に鮮明に記憶が蘇った。

裕子がまだ子供の頃、住んでいた家の裏山には銀杏の木が有った。

冬になると幸夫は裕子を連れて裏山に行き、銀杏の実を拾いに行ったものだった。

裕子も幸夫とそこにいくことが好きだった。

幸夫が銀杏の実を拾っていると裕子は地面に敷き詰められたような銀杏の葉の上に寝転んで遊ぶのが好きだった。

「きいろいじゅうたん、きいろいじゅうたん」と言っては銀杏の葉の上を転がって遊んだ。毎年冬になると幸夫は裕子を連れて銀杏の木に行ったものだった。


幸夫は冷たい風が入る窓を開けたままにして、台所に遅い足を進めた。

そこにいる明江を見つけると聞いた。

「ゆうこはどこ?」

「えっ、あー、ジョギングじゃないかしら?」

「わかった」

部屋に戻ると上着を探した。見つけた冬物の上着を羽織ると幸夫は庭から多摩川へ歩き始めた。

庭を横切ると石段が多摩川に向かって続いている。石段の手前で暫く躊躇した後、そろそろと一歩づつ石段を下り始めた。

退院してから一度も外を歩くことなど無かった幸夫はその日、一人で石段を下り始めた。入院する前はよく一人でも石段を下りて堤防に散歩に行ったものだった。石段を下りる足はその頃のように言うことを聞かなかったが、気持はその頃を思い出してきていた。

幸夫にとっては長い長い石段をゆっくりと時間を掛けて下りると、石段の両脇の木々もそこで途切れ、日差しが差し込んだ明るい場所に出た。すると、そこから多摩川が綺麗に見渡せた。

そして、その先に見える堤防にゆっくりと足を進めた。

幸夫は堤防に歩く間に、入院する前日にパソコンの調子を見て貰おうとした際に、裕子と交わした会話を思いだした。

「パソコンだけじゃなくて何か他のことも始めればいいのに」

「じゃあ一緒にジョギングするか?」

「無理だよ、その歳で」

昨日の夜も寝室に行く際に、よろけてベットの前で転んで起き上がれない自分を裕子が助けてくれた。

その時、不甲斐ない自分のことを恨んで裕子に愚痴を言ってしまった。

(無理だろうか、この歳では・・・)


幸夫は堤防を登ると、アスファルトで舗装されたサイクリングロードを迷わず歩き始めた。


明江は昼食の支度が一段落したので、幸夫の様子を見に行くと、いつもは殆んど布団の中にいるはずの幸夫の姿が無かった。

トイレ、裕子の部屋と見てみるが幸夫の姿は無かった。庭に出てその先の石段の上と下を探しても姿を見つけることが出来ないとわかると、家に戻り電話器の前に立ち、キーを押して記憶させてあった裕子の携帯に電話をした。

呼び出し音が五回繰り返された後、電話口に裕子がでた。

「お父さん居なくなっちゃったのよ!裕子、帰ってきて一緒に探してよ!」

「えっ、本当?わかった。すぐに戻るから!」

「頼むね、裕子」

退院してから一度、明江と裕子が留守をした際に一人で病院に行ってしまい、後で病院から連絡があった事件以来、決して一人にはしないように気を使ってきたが・・・

明江が家に居る間に居なくなることは無かったので、油断をしていたのかも知れないと、明江は後悔した。

走りながら携帯電話で話す裕子は電話を右手に持ち替えて、走るスピードを上げた。

「あれっ」目を凝らして前を歩く後ろ姿を見つめる。

「お父さん!」


歩く幸夫の右側から息を切らせた人が追い着いて、幸夫の前に廻った。

「ちょっと、お父さん!何しているの?!」と息を切らせながら言った人物は裕子だった。

「どうしたのよ?お母さんから電話があって、お父さんが居なくなったって言うから!」

幸夫は裕子を見つけて笑顔になった。

「何やってるの?」裕子は再び聞いた。

「ジョギング」

「えっ、何?」入院してからの幸夫の声は聞き取り難くなっていた。

「ジョギング」

「何?・・・あージョギングね」裕子も諦めたように笑顔になる。

「おとうさん、ジョギングに来たの?」

幸夫は答えずに歩きだした。

首を傾げながら裕子も幸夫の隣を歩いた。幸夫の歩く先には銀杏の葉が敷き詰められたサイクリングロードがあった。カサカサと音を立てながら幸夫はその上を歩いた。

一面に銀杏の葉が敷き詰められたところで幸夫は足を止めた。

そしてゆっくりとしゃがみ込むと、そこに座り込んだ。

そして足を投げ出した。


裕子は考え事をしているのか、幸夫が足を止めたことには気づかず暫く先を歩いていた。足下の景色の変化に気が付いたのか足下を見たときに、隣に幸夫が居ないことにやっと気が付いたようだ。

「ちょっと、お父さんどうしたの?!具合が悪いの?」

幸夫のところに慌てて戻って来た裕子に幸夫が言った。

「絨毯だよ、黄色の絨毯」

「大丈夫なの?」裕子が怪訝な顔で聞いた。

「大丈夫だよ、お前も座れ」

「ちょっと、こんなところに座ったら駄目、自転車来るから・・・」

言いかけた裕子はサイクリングロードの前後を見渡すと諦めたように幸夫と同じように足を投げ出すように座った。

「黄色い絨毯ね・・・」

暫く足で銀杏の葉を掃っていた裕子は急に思い出したように携帯電話をポケットから取り出した。母親に電話をしているようだ。

大丈夫、大丈夫と言い、電話を終わった裕子に幸夫は話し掛けた。

「覚えているか?あの銀杏の木」

「うん、黄色の絨毯ね」

「今度、実家に帰って見てみるか」

「そうだね、おかあさん連れて帰ってみようか」

裕子はまた足下の銀杏の葉を掃った。

(裕子、いつもありがとうな、感謝してるよ)


「お母さん、コーヒー買ってきたよ、飲まない?」

裕子は居間のテーブルにファーストフード店で買ったコーヒーの入った紙袋を置いた。

母親はテーブルに両肘を乗せて腕の上に頬を乗せた姿勢で居眠りを

しているようだった。普段からその姿勢で居間のテーブルで居眠りをするのが癖のようになっていたから裕子はそのまま自分の部屋に行き、荷物を置いてまた居間に戻ってみるとまだ母親は先ほどの姿勢で寝ているようだった。

「飲まないの?」

ようやくゆっくりと顔をあげる。

「ああ、ありがとうね、後で頂くよ」

「どうしたの、何か具合悪いの?」

「うん、ちょっとだるくてね、手が痺れるんだよね」

「手が痺れる?何時から?」

「今朝、顔洗ってて気がついたんだよ、左手がうまく動かなくて」

「なんか顔が浮腫んでいるみたいだけど、朝ごはん食べたとき言ってなかったじゃない」

「うん、寝違えたのかなと思ってね、でもまだ直らないし、なんだろうね、脳梗塞にでもなったかしら」

「脳梗塞って、ちょっと・・・」

裕子は部屋に戻りパソコンを開き立ち上がるのを待って脳梗塞の症状と入力して検索した。

脳梗塞症状とは朝発症することが多く、兆候があった場合なるべく早く医師の診断を受けることが必要・・・と画面に書かれていた。

裕子は居間に急いで戻り母親に言った。

「ねえ、直ぐに病院行こうよ、そういうのは直ぐに行ったほうがいいよ」

父親が入院していた病院の救急に電話をして、車に母親を乗せて病院に急いだ。

父親が退院してから三ヶ月、母親と裕子二人で父親を見てきた。退院しても、ほとんど毎日のように夕方になると不調を訴えるようになっていた。訴えがひどいときは夜でも救急の外来に車で連れていくことも時々あった。昼間は裕子が仕事に行っているので

ほとんどの時間は母親が介護していた。

この三ヶ月の負担、いや、入院中も毎日のように病院に面会に行っていた母親、その約半年間の負担がこの結果だったと裕子は病院までの道を運転しながら思った。

(ちゃんと母親のことも見ていなければいけなかったんだ)

病院に着くと車を駐車場に入れて、裕子は勝手知ったるように救急外来に母親を連れて入った。父親を何度も連れてきた病院だ、母親までこの病院に連れてくるとは思わなかった。

医師の診察を受けたが、この段階でははっきりと分からないが大事をとって入院を進められたのでそのまま入院させることにした。

母親を病院に預けると、父親を一人残してきた家に戻った。

戻ってみると父親は居間で静かに寝ていた。

今日は落ち着いているようで良かった。

でも、明日からどうしよう、3、4日は休みを取るにしても母親の入院はしばらく掛かるだろうし。

―こんなとき独り身は困るな―


翌朝、仕事先に電話で事情を説明すると、電話に出た同僚が心配して父親を一時的に預かってくれる施設を探してくれると言う。

それだけではなく、裕子が病院に行っている間に父親のことも見に来てくれることになった。今の裕子にとっては本当に有難い申し入れだった。

電話を終わると母親の着替えを手早く揃えて、父親にこれから同僚が家に来てくれることを説明して、母親のいる病院へ向かった。

病院に着くと、まず病室に行き、母親の容態が昨日と変わっていないことを確認した後、入院の手続きを終わらせると携帯電話に着信が有ったことに気が付く。裕子の家で父親を見てくれている同僚からだ。折り返し電話をした。

「お父さんを一時的に預かって貰える施設が見つかったよ、明日からでも大丈夫だそうだよ」

「本当に!良かった」

大変なことが自分の周りに起きているが、反対に自分と家族を救ってくれることがこんなにもスムーズに起きてくれることに裕子は感謝した。

翌日、父親を連れて施設を訪れた。

その施設は介護が必要な老人を預かる施設で、裕子も初めて訪れた。

施設はとても清潔にされていて好感を持ったが、そこに暮らす老人たちの姿を見ていると寂しさを感じた。此処へ自分の父親を置いて

行くことは辛かったが、今は他に選択肢が無かった。

―預かってくれるところが見つかっただけでも感謝すべきだし―

「お父さん、また明日、様子見に来るからね」と言って、父親の施設を後にする。そして、少し安心した裕子は母親の病院に向かった。

病院の駐車場に車を止めると、母親の病室に急いだ。

4人部屋の一番奥に行き、仕切りのカーテンからゆっくりと覗きこんだ。

母親はベッドに横たわり目をつぶっていた。

少しして声を掛ける。

「お母さんどう?具合は」

母親はゆっくりと目を開けた。

「ああ、なんとか大丈夫だよ」大分だるそうに見える。

「そう、良かった。お父さん、施設でしばらく預かってくれたから安心して」

「そう、良かった」

病室の扉が開き、担当の医師が入ってきた。

「あっ、こんにちは」

「あ、こんにちは、どうですか?高井さん」

母親に対する問診が終わると、裕子は医師に話掛けた。

「先生、どうでしょうか」

「うん、そうですね、昨日から容態は変わっていないですね。ちょっと向うで話しましょうか」

裕子はナースセンターの奥の部屋に通された。

「昨日のCTでははっきりとはまだ分かりません。明日、MRIをやりますからそれでわかると思います。脳梗塞の可能性が高いので今はこれ以上、梗塞が進まないように薬で抑えています」

「そうですか、先生、宜しくお願いします」

医師の説明が終わって病室に戻ると、昼食が運ばれて来ている。

―そうか、もうお昼か―

ベッドの脇から折りたたみ式のテーブルが出されてテーブルの上に

お粥の入った茶碗と小皿が一つ、そして浅い皿には白身の魚の煮付けが置かれている。

「病院食って感じだね、食べれる?」

「ベッドから動けないからお腹が減らないんだけどね」

「ご飯はちゃんと食べないとね」

「そうだね」母親は右手で箸を持ち食事を始めた。左手が上手く動かない為、食べ難そうだった。

「スプーンないの?」

「ないね」

「あっ、じゃあ貰ってくるよ」

裕子はナースセンターに小走りで走った。

「済みません、412号の高井ですが、母が左手が使えないので

スプーンを頂けますか?」

「412の高井さん、はい、すぐにお持ちします」

病室に戻り母親のベッドの横の椅子に座って食事を取る様を見ていた。しばらくすると看護士がプラスチックのスプーンを持ってきてくれた。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「お母さん、はい、スプーン」

「ありがとうね」

「なんか、あまり進まないね。この御浸し食べないの?」

「うん?御浸し?」

「これだよ」

裕子が母親の左に置かれた小皿に入った御浸しを少し前に差し出した。

「どれ?」

「えっ、これだけど・・・」

「あっ、こんなのあったの」

「見えないの?」

「分からなかった」

「お母さん目が見えにくいの?」

「なんか、左側がよく分からないんだよ」

「えっ、いつから?」

「今、気がついたよ」

「ちょっと、右側は見えるの?」

「右は見えるね」

「えー、ちょっと先生呼んでくるね」

裕子はまたナースセンターに行くとパソコンの前にいた看護士に

声を掛けた。

「すみません、412の高井ですが、先生いらっしゃいますか?」

「先生は回診に行っておりますが、どうしました?」

「あの、母親が、左側の目が見えないようなんですが、昨日まではそんなこと無かったので」

「わかりました先生に連絡を取ります、少しお待ちください。私も直ぐに行きますから」

「お願いします」

部屋に戻りながら裕子の動揺は大きくなっていく。

どうしよう、これ以上に悪くなったら―

病室に戻り椅子に座ると、母親は食事を済ませたようだった。

小皿の御浸しは少しだけ手を付けたようだった。

「もういいの?」

「もう、ごちそうさま」

「ねえ、左目とあとはどこかおかしいところは無い?」

「顔の左側がなんか引き攣るような感じが少しする。ご飯食べると涎が出るんだよ口の左側から」

裕子も先ほどから母親の顔の左側に違和感を感じていた。

「ちょっと麻痺が出てるのかな、今先生呼んだからね」

確かにこうしてみると悪くなっているように感じる。

どうしよう、これ以上悪くなったら―

心臓の鼓動が早くなって来た。

医師と看護士が足早に病室に入ってきた。

「高井さんどうです?目が見えにくいですか?」

医師の問診が始まった―


その後のことはあまり覚えていない―


裕子は暗くなった道路で車を走らせていた。

医師の言葉だけが頭の中に残っている。

―また、梗塞が進んでいる可能性がありますから、点滴を増やして

なるべくこれ以上起こらないように処置して様子をみることになります―

(まいったなー、なんでこんな・・・でもしっかりしなきゃ)

ハンドルを持つ手に力を入れた。


翌日、朝になると仕事先に連絡をして今日も休みを取った。

昨夜は殆ど眠れなかったので今になって眠い。

ぼーっとした頭に昨日の医師の言葉が浮かんだ。

「リハビリは早く始めるほど良いですよ」

昨日、裕子が母親の後遺症を気にして医師に治るものか聞いたときの答えだった。

急いで顔を洗い、簡単に朝食を取ると、直ぐ買い物に出かけた。ホームセンターの健康器具を扱っている売り場で手の握力を高める器具、手のつぼを刺激するボールなど棚に置いてあるものを色々と物色した。

とにかく目に付くものは持って行こう。

そして母親の入院する病院へ車を走らせる。

「お母さん、リハビリは直ぐに始めたほうが良いって聞いたから

これ買ってきたの」小さな籠いっぱいに入っている器具を母親に見せた。

「随分といっぱい買ってきてくれたね」

「うん、とにかく、今日からこれを使って左手を動かしてみて、そんなに疲れるほどはやらなくていいけど、なるべく動かしたほうがいいよ」

「わかったよ、今日からやってみるよ」

「ちゃんとリハビリすれば必ず治るからね」


病院からの帰り道。

もう、桜咲く季節だった。

車で通った道の横には川が有る。その川の両側には桜が満開に咲いていた。桜の木の下は大勢の人で賑わっている。

今年の桜は花の数が多い。こんなに咲くのは初めてかも知れない。

お母さん。今年は桜が見れないね、こんなに満開なのに―

「さて、これからお父さんの様子見に行かないとね」

そのまま父親の介護施設に向かう。施設は車で1時間程掛かり距離が有る。家から母親の病院そして父親の施設と周ると半日掛かりとなる。でも、受け入れてくれる施設が見つかっただけでも有難かった。

施設に着くと受付で面会票を出して、部屋に向かった。

部屋の引き戸をゆっくり空けて中を覗くと、父親はベッドの中で寝ているようだった。

途中、施設の看護師に様子を聞いたところ施設に来てから二日間、殆どベッドの中で横になっていると聞いた。

―やっぱり落ち込んでいるかな―

「お父さん、どお?」

父親はゆっくりと目を開ける。

「ああ、裕子」

「寝ていたの?」

「お母さんはどうだ」

「うん、容態は落ち着いているから大丈夫だよ」

「そうか」

「お父さん、ちょっと散歩に行かない?少し動いたほうがいいよ」

施設の玄関を出て、先ほど走る車から見つけた公園まで歩いた。

「お父さんごめんね、一人にして、私は明日から昼間は仕事に戻らないといけないから、おとうさんのこと見れないんだ。しばらくは

我慢してください」

「そうだな、お母さんも大変だしな」

「ねえ蜜柑食べない?お父さん蜜柑好きだったでしょ。季節はずれで値段高かったんだから」裕子は施設に来る途中のスーパーで買った

蜜柑をトートバックから取り出した。

公園のベンチに二人で座って蜜柑を食べた。


翌日の朝、目覚まし時計のベルが鳴った。

といっても裕子はベルがなる30分ほど前に目が覚めてボーっとした頭で新聞を見つめていた。慌てて寝室に駆け込むと目覚まし時計のボタンを押してベルを止める。

(さあ、今日から仕事に戻らないとね)

冷蔵庫の扉を開けて、朝食になるものを物色しだした。

簡単に朝食を取り、化粧をして身支度を整えると車に乗り、事務所に向かう。

事務所に付くと裕子の上司が心配そうに声を掛けてくれた。

「ご両親どうなの?」

「ええ、とりあえず入院させて今は落ち着いています。済みません御心配掛けまして」

「でも一人じゃ大変だ、仕事のほうはあまり無理しなくていいよ」

「有難うございます。しばらくは早く帰りますけど」

「うん、了解」

涼子は会釈して自分の席に着いた。

パソコンを立ち上げるといつものようにメールを開く。

得意先からのメールの中に、今日から出張で不在の同僚の女の子からのメールに目が留まる。

メールを開いた。

「高井さん、おはようございます。

お母さん大丈夫ですか。

昨日、知りました。私の母も身体が丈夫ではないので出張で家を空けるときはちょっと心配なんですよ。

高井さん、どうか頑張り過ぎて身体を壊さないでくださいね。適当に力を抜いてゆっくりと頑張ってください。

お母さん、早く良くなるといいですね。押し付けがましいかもしれませんが、私の好きな詩を添付します。子供を思う母親の気持ちを綴った詩です、私と私の母も大好きな詩です」

添付ファイルを開き、その詩を読み進むと、それまで束ねられていたものがほどけるように感情が揺れ始めた。

涙が止め処なく溢れる。

声を出して泣きたかったが、口に手を当てて抑えた。

そして、涙を隠すように慌ててメガネを掛けて仕事を始めた。

でも、駄目だった。

喉の奥から嗚咽が漏れ出した。

大声で泣き出した裕子の周りに事務所の同僚たちが慌てて近づき、輪を作った。


その日、定時の5時を過ぎると早々に仕事先の事務所を後にして母親の病院に向かった。

ナースセンターで面会の記帳をすると病室へ歩く。

今日は病室のベッドを仕切るカーテンは全て開かれている。

裕子は手前のベッドの患者に軽く会釈をして母親のベッドの横に進んだ。

母親はベッドで目を瞑っていたが、裕子の気配で目を開けた。

昨日より顔立ちはすっきりしているように見えた。

「どう、お母さん、具合は」

「昨日の夜、ずっとこれで手のリハビリしたんだよ、そしたら、ほら」母親は左手を動かして閉じたり開いたりして見せた。昨日まで麻痺で動かなかった左手が動くようになっていた。

「えー本当に?どれどれ、もっと手動かしてみて!」

「すごいじゃない、本当に治って来たね!こんなに早く良くなるんだね!」

「お前がこれ持ってきてくれたお陰だよ」

「良かった。ねえ、目のほうはどう?」

「目のほうも昨日よりよく見えるよ、顔の麻痺も少し良くなってきたし」

「えー、良かったね、じゃあもっとリハビリ続けないとね」

「そうね、しっかり続けるよ」

今、裕子が横に立つ母親のベッドの周りは花が咲いたように明るくなった。

そして、病室から下に見える道路の植え込みに咲く桜も満開になっていた。



それから三ヶ月が過ぎる頃、裕子は堤防の上に立っていた。

サイクリングロードの両脇の植え込みは鮮やかな緑色に変っていた。冬には命を落としたように枯れた植え込みは、春になると真っ白な花を咲かせて、その白さが、その大きさを膨張させて見せた。花の時期が終わると、周りの色に合わせたように緑色に変わった。

今までは気に留めなかったその変化を、裕子はこの一年の間にはっきりと感じた。でも、変化に気づかないときも、それはそれで必要だったのだと思えるようにもなった。

今では緑色に色づいた植え込みの間を裕子は久しぶりに走った。

久しぶりなので身体は以前のように軽くは無かったが、気分がそれを後押しして走った。

走るスピードが上がると植え込みに隠れていた雀の群れが、あの時のように飛び立った。

そして、反対側の植え込みに隠れた。

雀の群れを追うように走る裕子。


「うちの父親がね、認知症になったかも知れないの」

「認知症?・・・そうなんだ、なって見ないとわからない苦労がその家族には有るって、聞いたよ」

一年ほど前から、たまにしか会えなくなった杉田に打ち明けた。

杉田とは7年程前に知り合い、付かず離れずの付き合いをしてきた。

建築の仕事を再び始めた頃に仕事先の事務所で知り合った。

付かず離れずの付き合いになっていたのは裕子にとって二度目という引け目が有ったからかも知れない。


雀の群れを追い越して走る裕子。

追い越された雀の群れが、今度は裕子を追いかけるように裕子の前の植え込みに駆け込んだ。


この一年の間、裕子と杉田は数える程にしか会っていない。

それでも裕子が時間が出来たときに会いたいと伝えると会ってくれた。裕子と両親がこの一年の危機を乗り越えるのに杉田は力になってくれた。

父親の看病で母親の明江が脳梗塞で倒れて入院したときの裕子は途方に暮れたが、それを知った杉田が介護施設を探してくれたお陰で

父親の幸夫を一時的に施設で預かって貰ったことで、そのときの危機をしのいだ。

あのとき電話に出た同僚が杉田だった。

その時の裕子は父親と母親を一人で介護するつもりでいたが、杉田の勧めで父親を施設に預けることにした。

「全部一人でやろうとしたら共倒れになるから」

実際に、今になって考えると、その通りだったと裕子は思う。

杉田は表には出なかったが、裕子の代わりに介護制度の事を全て調べては裕子に伝えた。

「お陰さまで高井家は助かりました」と裕子は照れながら礼を言った。

「いや、僕も今まで全く知らなかったことばかりで、逆にいい勉強になった、僕にも両親がいるから。でも、いろいろあって本当に大変だったね、よく頑張ったよ、あんな状況でもそれを表に出さないっていうか、なかなか出来ないことだと思うよ」

「でも、大変なことに直面すると結構冷静に対処しちゃうんだよね私、それと、どんな状況もずっとは続かないってことがわかったの。悪いことも一時的にそう見えているだけじゃないかってね」


目の前に水門が見えてきた。以前はこの場所でUターンをして引き返すところだ。

それでも今日の裕子は真っ直ぐに走った。


昨日、裕子は杉田からプロポーズされた。

「はい」と満面の笑みを浮かべて裕子は答えた。


この秋から当面は裕子の実家の近くに家を借りて住もうと言われた。

杉田らしい心遣いのある提案だった。

明日、両親に打ち明けよう。私、秋になったら家を出ますと。

でも、頼りになる人とすぐ近くに住むけどね―と。


水門を越えても真っ直ぐに走る裕子。

もうあの小母さん居ないかな?

裕子が遠くに目を凝らすと人影が見えた。

あれ?そうかな―


裕子の走るスピードはまた少し上がった。

その人影はそれに比例して近づいた。

最近、以前より視力が落ちた裕子にもわかる距離に近づいた。


違ったか―


遠くから見えたその姿は子供を連れた若い女性だった。

裕子は走るスピードを緩めた。その親子とすれ違う手前でUターンをして来た道を戻った。

いいや、また来るから―

裕子が近づくとサイクリングロードの左の植え込みに隠れていた雀の群れがまた飛び立った。

雀は今度は植え込みには飛び込まず遠くへ飛び立った。

雀の群れが飛びゆく方向を見上げながら走った。

その先に先程、通り過ぎた水門が見えて来た。

少し日が陰り始めて来たのが分かると裕子はスピードを上げた。

そのスピードを保ったまま水門を通りすぎようとしたときだった。「あなた!」と声が聞こえた。

その声のほうに自然と顔を向けると、その水門の影にあの子犬を連れた小母さんがいた。

「あっ!」

裕子は声を上げるのと同時に滑りながら止まった。

「あー、こんにちは!」息を切らせながら裕子は笑顔になった。

「こんにちは。久しぶりねー」小母さんも高揚したように返事をくれた。

「お久しぶりです!」

「もうどのくらいあなたを見なかったかしら?」子犬を抱きかかえながら小母さんは裕子に言った。

「うーん、半年以上経ったかも知れません」

小母さんは子犬を下した。

「そうね、そのぐらい経ったかもしれないわね」

「ちょっと色々と有りまして・・・お休みしていました」

「そうだったの」

「お元気でしたか?」

「私は色々と何もなく元気でしたよ。でもね、これでも、あなたを見かけなくなって、どうしたのかしらと思っていたのよ」

「そうですか、心配掛けて済みません・・・でもまた続けます」

「そう!じゃあ、また会えるわね」小母さんは微笑んだ。

「ワンちゃんも元気でした?」

「この子も何事も無く、元気だったわよ」

「あの、抱いてもいいですか?」

小母さんは笑顔で答えた。

裕子は子犬を嬉しそうに肩の高さまで抱え上げた。


                        了

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