村木 諸洋

 金曜の或る晩のことであった。出先での用事を終えたわたしは、地下鉄の電車に揺られていた。都合上、毎日の如く利用せざるを得ず、謂わばそれに依存してしまっているかの如く感じ、そんなわたし自身に嫌気がさしていることは述べておこう。それはそうと、わたしは、この金曜の地下鉄というものがどうも好かんのである。はっきり言えば、ひどい嫌悪感を抱いているのだ。今日もまさにそうである。私の隣、いや、隣だけでなく辺り一面に、情けない男どもが、自らの愚かさをさらすかの如く、乗り合わせているのである。ある者は頬を赤らめ、虚ろ目を見せ、またある者は、己の身体を他者に任せ、自宅のソファの如くくつろぎ、そしてまたある者は、今にもこちらに倒れてきそうな勢いで吊革に掴まっている。そして彼らに共通することはといえば、何につけても鼻を、さらには脳をも刺激するような危ない臭いを漂わせているのである。この自らの醜態を晒すことに、彼らに抵抗感というものはないのであろうか。わたしには、甚だ疑問である。金曜というのは、一週間の中でも、ある一定の者どもにとっては、やはりそれは、特別な日なのであろう。平日の最後に相当するのである。この日が終われば、二日ほどの休日が訪れる。その平日の締めくくりとして、世の働き人たちは、各々の属するコミュニティの人員と、アルコールを自らの体内に取り込みに行くのである。

 わたしは下戸である。正確には、下戸であるということにしていたのである。確かに、わたしは決して酒に強いというわけではなかった。記憶している限りでは、グラスに数杯程度は飲めていたはずである。しかし或る時から、わたしは自分自身に、わたしは下戸であると一種の自己暗示のようなものをかけ続けたのである。これは意外と効果があって、或る時、酒を三口ほど摂取した段階で、なんとも気分が悪くなってしまった。わたしは、自らを人工的に下戸とすることに、成功したのである。では何故わたしはそこまでして、下戸になろうとしたのか、その理由はたいそう単純なものである。わたしは、酒が嫌いなのである。先に述べたように、酒というものを飲んだことはある。が、そこになんの旨さも、また快楽も感じ得なかったのである。それは、ただ酒を飲んでいるという自己満足に浸っているだけであることを恥じたこともまた、自らを下戸とすることを決めた所以の一つである。が、どうやらこの世の中というものは、酒がないと自らの地位を確立できないようなのである。なにかにつけて、一つの場に集い、酒を用意し、絶頂に達するかのような幻想に囚われて時を過ごしている者が大勢いる。わたしから見れば、それは唯の愚民どもに過ぎないのである。アルコールを摂取することで、ある者は、嫌なことを忘れられるといい、またある者は、本音の話ができるという。実に愚かだ。それは理性の壁が崩壊され、決壊したダムの如く、自らの内がとめどなく流れ出ているに過ぎないという自覚が彼らにあるだろうか。いや、決してないであろう。特にその勘違いがひどいのが、大学生と呼ばれるコミュニティに所属する者どもである。彼らは、狂ったように集い、狂ったように酒を摂取する。そうして上機嫌になったつもりとなり、愚かな行為行動をしてみせ、時に法的な、そして時に社会的な制裁を受けることもしばしばなのである。そして、飲み過ぎた挙句至る所に自らの吐瀉物をまき散らすのである。何故そこまでしてアルコールを摂取しようとするのか、わたしには到底理解できない。だが、一つだけ理解できることが在るとするならば、彼らは、決して酒に酔っているわけではないだろう。彼らは、酒を法的に飲めるようになったという自己に酔っているに過ぎないのである。若気の至りという言葉があるが、わたしからすれば、それもまた愚かな言葉である。何もかもを若さに換言し、愚かな行動を容認し助長するかの如く感じるのだ。

 そんなわたしであるから、大人と呼ばれる人種になってからの、人付き合いがちとも愉しくなくなってしまった。当然である。酒を口にせぬものは、「空気が読めない」とされ、次第に排除されていくのである。わたしは、これまでにも幾度となく肩身の狭い思いをしてきた。わたしは、この大人という大きなコミュニティに於いては、唯の屁理屈をごねる、不適合者なのである。が、だからといってわたしは再び酒を摂取しようなどとは思わない。わたしは、生涯の孤独と引き換えに、自らの信念を守り抜くのである。酒がないと成り立たない関係ならば、わたしはそれを必要とはしない。それでいいのである。ただ、一つだけどうしても言っておかなければならないことがある。わたしは、決して自分を賢者であるなどと思ったことはない。寧ろ、わたしのような人間は、そんな酒を摂取し、羽目を外す連中と同等、もしくはそれ以下の愚者であると自覚している。確かに先には、他者を愚民などと揶揄する表現を使ったが、それはあくまで、自分の意思をより鮮明に、そして明確に分かり易くする為が故である。

 ここまで言って、何ではあるが、ここで一つだけ短いエピソードを付記させていただきたい。わたしには、祖父がいる。祖父は厳格な人物であったが、孫の私には、時に甘く接してくれた。また、少なくともわたしは、祖父が酒を口にしているところを見たことはない。わたしは、そんな祖父の虜であったのだ。世間では、泥酔状態になったが故に犯してはならぬことをし、吊し上げに遭う愚者が一定数存在する。或る時、祖父はわたしにこう言ったのである。「酒なんか飲むなよ。」と。それを聞いた瞬間、その一言に、すべての真理が集約されていたように感じるのである。それは、酒の力を憎む思いや、孫を大切にしようとする思い、様々な思いが詰まっていたのである。その時の祖父の目は、どこかか弱い目をしていた。その目を見たわたしは、酒というものを、己から遠ざけるようになったのである。

 どうであろうか。このエピソードを付記したことで、わたしという人間への考え方が、少しは変わってしまったのではないだろうか。人間がつける人間の価値なんて、そんなものである。

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