夜.五
日は落ち、辺りは暗がりに包まれた。
すっかり無駄な時間を過ごしてしまった。昼間の話の後だ、こんな時間までミを森の中まで連れ回したと知られれば、レンさんは激怒するだろう。正確には俺がミに連れ回された形なのだが。まったくもって、溜息しか出ない。
「帰るぞ」
俺は半ば命令するような口調でミに言った。暗すぎてミの表情はおろか、木々の様子さえ満足に伺い知ることはできない。油断すれば枝にやられてしまうだろう。ただ、川に浮かぶ月だけが不気味に蠢いていた。
しかしミは素直に、
「うん」
とだけ言い、立ち上がる。
表情はよく見えずとも、その短い返事の勢いの中で、幾分か元気を取り戻したことを確認する。
落ち込んだり、元気になったり、忙しないところがとても嫌いだが、それだけに便利な性格でもあるなと、関心にも似た感情を抱いて歩き始めた。
だがそんな安心も長くは続かなかった。先を歩こうとする俺の背後から、足音が全く聞こえてこない。振り返るとミは案の定立ち止まっていた。
「きょ、キョウ…………あれ……」
ミが突然何かを指さす。
その指は震え、月明かりが薄っすらと反射する瞳は驚きか困惑か、大きく見開かれていた。
何故だか嫌な予感がした。
闇の中、薄っすらと白い影が見えた。
「ヒナ?」
はっきりとはわからない。その影に向かってミは問いかける。
確かめるような口調ではあるが、どこか確信を孕んだ言葉に感じ取れた。
葉の隙間から漏れた月明かりに照らされて、影は怪しく身じろぐ。輪郭さえわからないが、何故か怯えているようにもみえた。
「お姉ちゃん……」
その声を聴いた瞬間、ミの足は駆け出していた。影は逃げるように森の奥へと姿を消す。
「ヒナ!」
「おい!」
俺は慌ててミの後を追った。
嫌な予感は大きくなるばかりであった。
ミが影に追いついたのは丁度、木や竹が生えていない開けた所だった。
俺が着いた時にはミはすでにその影に近づこうとしていた。
静かな風の中で、わずかに見える二人の長い髪の影がゆらゆらと微かに揺れているのがわかった。
月明かりが差し込み、白い影がその全貌を現す。
間違いない、ヒナだ。
「ヒナ……」
「お姉ちゃん……来ないで……」
名を呼び、近づこうとするミを、ヒナは拒絶する。
どこか苦しげで、どこか縋るような拒絶であった。
「どうしたんだ、ヒナ」
「おい、ちょっと待て」
やはり様子がおかしい。
「ここはわたしに行かせてくれ。頼むから。な?」
胸の奥で自分の心臓の鼓動が大きくなっていくのがわかる。とても嫌な感じだ。獲物を獲物を切る時の興奮とは似ても似つかない、何とも説明しがたいざわめきを孕んだ鼓動であった。
「ミ、駄目だ。そいつは……そいつらは……」
気が付くと、俺はミを引き留めようとしていた。
初めてこいつの名を口に出した気がする。
名と言っても、この島では〝呼び名〟と言った方が正しいのだろうが。
だが、ミは何とも言えない儚げな表情で小さく首を振ることで、俺を遮った。
「ヒナ、大丈夫だよ」
そっと近付き、優しく声を掛ける。
「お、お願い……来ないで……」
ヒナは震える足でじりじりと距離を取る。
「大丈夫だ」
しかし、ゆっくりと前へ進むミの足は容易くヒナへと届く。
「……お姉……ちゃん……」
ヒナは恐る恐る顔をあげた。
「いや、来ないで……お姉ちゃん」
ゆっくりと膝を付くと、ミはヒナを抱き寄せる。後退ろうとする体を無理矢理包み込んで。
「大丈夫、大丈夫だ」
駄目だ。
「お姉ちゃん、お願いやめて……お願い……お願いよ……お願いだから……」
ヒナは哀願するように言葉を繰り返す。
「お願いだから………………」
駄目だ。
「お願いだから」
「お願いだから」
「お願いだから」
「お願いだから」
「お願いだから……」
駄目なんだ。
「お願いだから………………
………………お願いだから死んで?」
だってそいつらは。
音は無かった。
驚くほど静かに。
ただ、ミの口の端から赤いものが一筋、ゆっくりと流れて滴った。
ミの表情はただただ驚きを見せているだけであった。腹に刺さった刃が乱暴に抜かれるその時ですらただ目を見開き、ヒナを見つめている。そして、そのままうつ伏せに崩れるように倒れた。
「ヒ……な……?」
ミの腹を貫いたヒナの表情はまるで、止めていた息を一気に吐き出したような、そんな快に満ちていた。どこか安心したような。心許なく揺らぐ瞳は風一つない水溜りのように静かになり、そして…………。
そして、そっと、その小さな花弁のような唇を剥くのである。
ヒナは乱暴に血を振り払った刃を睥睨するように見つめると、足元で蹲る女を一瞥し、今度は迷いなくその刃を死にかけの女の首筋目掛けて――――
「くそっ!!」
俺は刀を抜き、二人の元へ駈け寄る。
それに気付いたヒナは俺から逃げるように走り去って行った。
一度倒れているミを通り過ごし、しかしすぐに立ち止まり、遠くなっていくヒナと地に伏すミに挟まれながら一瞬迷った挙句、ミを抱き起す。なるべく、傷口を動かさぬよう、そっと。
「おいっ!」
ミの顔を見ると、目は虚ろだが辛うじて息はしているようだった。
「ああ……キョウ……か……。無様……だな……、へへ……」
ミは苦痛に顔を歪めながらも、可笑しそうに笑った。
「うるさい、喋るな」
俺はミの口から吐き出された血を袖で拭ってやると、すぐにおぶった。
診療所の場所は一度行ったから知っている。
「キョウ……すまない……、また着物を汚してしまった……」
「喋るなと言ってるだろう! 阿呆が!」
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